・東方令達書
*東方令達書「和漢朗詠集」から
含雨嶺松天更霽焼秋林葉火還寒
あまくたるあら人かみのあひおひをおもえばひさしすみよしの松
東方令達は濃州中島郡東方村(現羽島市桑原町)出身。1779年頃(安永8)~1848(嘉永元)年。起宿の医師・八木良慶に入門、本道医師となり名古屋上畠町に開業。医道よりも書に卓越し、紫雲斎と号し、多くの門人達に尊圓流の書法を教えた。書塾は第三子得一郎(東方黄陽)が受け継ぎ、黄陽没後は門人の植松有經の松蔭舎に受け継がれた。兄に若井加左衛門(尾張藩士)、義兄に伊部鹿蔵(尾張藩士)、弟に山内文左衛門(東方村庄屋)がいる。山内一豊と同族という。墓は七寶山聖徳寺にある。参考:金府繁栄風流選、名古屋市史人物編第一・第二、郷土文化第41巻(第1号)、日本庶民教育史 (乙竹岩造著)
・山内一豊の妻
若狭物外(成業)(1887-1957)の作である。一豊の妻が鏡をバックに一豊に金子を渡している。一豊と妻の周りには陰陽五行の配色である青(本)、赤(盆)、黄(書箱)、白(金子の包み)、黒(鏡)であらわした諸道具を配した吉祥図である。物外は南画家であるので、物外の本来の趣とは違う画風となっている。