生き方と死に方

高齢化社会を迎えたせいであろうか、死に方について言及する著作がよく見られる。ただ自分としては死に方についてはほとんど興味が無く、生き方こそ重要であって、死に方はその過程の一つにすぎないと思っている。生き方が大事という考え方は、芭蕉が「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」と詠んでいるように、病気に臥せていても心は生きている、つまり活動しているその姿によく表れている。ところが芭蕉翁も「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と木曽義仲への思いが強かったせいか、「骸(むくろ)は木曽塚へ」と遺言を残し、死んだときの準備をしている。準備と言えば西行法師は「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだように、断食による計画死によって花を添えた死に方を選んだ向きもある。

このように昔の偉人はそれなりに死というものに花を持たせる最後があったように思う。昨今、死に場所について家か、病院かという味気ない議論が多くその背景に自宅死は病院死よりも医療費を安くするという根拠が上っている。こんな話を聞くと死が軽んじられているような気がしてくる。経済性の議論は別にして、死ぬときは、自宅で家族や親せきの多くの人にみとられつつ、「お世話になってありがとう」と言って人生を閉じることができれば最も幸せなことなのかもしれない。ところが現実は病院死が85%、自宅死15%と前者が圧倒的に多く、看取りとなると病院でも一人か二人、時には病院医療者のみのこともある。自宅死においては孤独死や事故死も結構多く、人生の幕引きとしては寂しい。

自宅とほぼ同じ住まいであるが、介護とかお世話をしてくれる支援者がいる老人ホームとかケアハウスもある。この場合、子や孫と一緒というわけにはいかないものの夫婦の同居は可能であり、家族の訪問も自由で多い。お世話役がいるので孤独死ということはまずない。

終焉をむかえるにあたっていずれが幸せなのかはよくわからないが、やはり本人の意思を尊重した死に方に添うのがベストであろう。忙しくも、高齢化と核家族化を迎えた現在、死に方一つをとってもままならぬのが世の中のあり様(よう)である。