◆如何にして協同労働に出会ったか1

コミュニティの発見~「ナス」の時代へ


境界線にたたずむのは、楽しく難しいことに思う。時として、一歩間違えれば、境界線の内外からバッシングにもあう。が、うまくいくと、それは双方に通じるメディア(媒体)になる。

「境【メディア】界」とでも呼ぼうか。

 私は高校2年の時に、働く楽しみや怖さの一端を知った。神宮球場の売り子のバイトだった。「アイスでーす」とひたすら連呼。歩く最小のメディアである。連呼してスタジオ内を歩いて回っても一向に売れない。昔の駅弁売りのようにアイスボックスを首から提げる格好で売るのだけれど、夏の暑さでアイスは溶けていく。今となっては古めかしい電光掲示板に映し出される試合の進行(現在何回の表の攻撃かわかる)、これが大時間なら、手元のアイスの溶け具合が小時間。

 この二つをうまいこと、ハンドリング(手なずけ)して、かつ、スタンドの野球ファンとグランド内の選手たちの間の境界にたたずむ存在だ。アイスいかがっすか~! 「うるせえなあ」、「見えねえじゃないか」という怒号も飛ぶ中を縫うようにして、声をかける。野球の歓声の盛り上がりに、オフビートで切りこむ。

 当時(と言っても王選手が765号を打つ直前で外野で売るのに一苦労したというくらいの当時)、売り方には大きく二通りあって、ひたすら球場内をくまなく歩いて売るタイプと、お客さんとの対話で売るタイプ。私は後者であった。

 「おい、お兄ちゃん、アイス10円安くしとけや!」「あっまあ、その…」と言いつつ、大時間の電光掲示板の方を見やり、「今日はタイガース勝てそうですね?」「おっ、あたりめえよっ」「そうでしょ! 負けたくないでしょ?」「あたりめえよっ」(と、ここで一拍間をおいて)「私も、マケたくないんです」

一同、爆笑。「兄ちゃん面白いこというねえ、アイス一個買ったるで」、おれも、わたしも。。。

じつにお恥ずかしい、座布団一枚、感覚だが、私にとってのコミュニティの発見はここだったように思う(実際、後年になってミネソタツインズの本拠地で、売り子を観に、否、メジャーの野球を観に行った時には、もっといろいろコミュニティとしてのやりとりが有った。⇒これに関しては、以前、協同組合研究の第一人者、石見尚先生のHPに掲載していただいたこともありました)。

さても、こうしてOL(という言葉自体、現在使われているのでしょうかねえ)の前では恥ずかしくてなかなか声も出せなかった高校生の私も次第に会話を楽しむようになった。売り子自体が、テレビ中継には乗らない「境【メディア】界」なのだと自覚。アイス、いかがっすか~。(最近は売り子も女子ばかりとなり、しかも男子の視線を受ける存在に固定化されてしまった。消費社会極まれり。それでも、意外な重労働なので、球場に足を運ぶたびに、売り子女子を応援すべく、ビールを何杯もグビグビ~ハア~っ)

今考えても、この経験がなかったら、大学になってから、ろう者と出会って、手話(といっても日本語対応の手話)で通訳をしたり、手話劇に出たりなんてこと、とてもじゃなかったと思う。

で、ある時、手話劇の主役をやっていて、突然、セリフを忘れた。「世界は一家、人類は皆兄弟」というある年齢以上の方はよく知る、あのセリフだったのだが、セリフというより、手話が出なくてフリーズすると、会場が突如、そこかしこで、動き始めた。ほら、人類。人類こうよ、ちゃうちゃう、人類は、手話、違う、人類、。。そのろう者の客たちによる手の動きはやがてうねりのように迫ってきました。おーっなんという、カンニング! カンペ(カンニングペーパー)の波!

私の生まれ育った東京の谷中(やなか)は、当時も今ですらも、みんなの力で辛うじて下町の雰囲気を残している。そんな中で、谷中銀座(ここも消費社会の格好のターゲットになってしもうた)を歩けば、「よう、あきちゃん、どこ行くんだい?コロッケ一個食べていく」などと、少し焦げたコロッケをタダで下さったお店のご主人がいた時代があった。そんな時代には、スーパーの軒先の八百屋も元気に声を張り上げていた。すでに、売り子で声を上げることに慣れていた、私も、この張り上げる声に影響を受けたもの。

これは負けちゃいられない(ナニに?だろう)、とばかり、早速、自分でも八百屋のバイトを大学(@都の西北)近くで始めた。買い物客との丁々発止は楽しかったが、それ以上に、冬場は白菜などを山ほど台車に積んでは、近くの家々にお届けしていた。そんな中には、アパートや都営住宅もあり、貧困に苦しむ世帯を垣間見たりしたことは忘れられない。街はクリスマス近くになりイルミネーションが光っているというのに。。。

夕方になると、スーパーの店頭の軒下にスポットライトを点灯していくのだが、八百屋から来ている私のマスターは、ナスやキュウリのラップの仕方をくどいほど丹念に注意された。なんで、そこまで…と思った私も、点灯してみて初めてその意味が分かった。しわを寄らせず丹念にラップすると、ライトの下で、あら、不思議。ナスは「ナス」に、キュウリは「キュウリ」という顔をし始めた。

今にして思えば、この時代(80年代初め)、まもなくやってくるバブルを前に、ボードリヤールらの言う記号や消費の社会が始まっていたのだろう。

「ナス」「キュウリ」のきらめく陳列と、台車で運ぶ先の、色のない世界。

これは象徴的であった。

もちろん、当時のろう者の世界でも、メーカーでの不当解雇があって裁判を争っていた方もいたし、私も車いす生活者と一緒に店に入ろうとして入店拒否にあったり、交通機関で嫌がられたりと言ったことを経験させられた…。と共に、一方では1981年には国際障害者年が始まり、某広告代理店の主導するイベントにより、まるで障碍者が「障碍者」となったかのように、きらめかせられてゐた時代でもあった。

(国際障害者年推進協議会の副代表にまつりあげられた車いす生活で作家、俳人の花田春兆さん1925-2017は、そんな中で、孤軍奮闘されていたことをあとになって知った。一方、国際障者年をブッ飛ばせ!’81、をきっかけにその二年後に旗上げした大阪の劇団態変(主宰・金滿里さん)。その両者には、私も1980年代に出会い、以後、腐れ縁のように、いや、キンギョの糞のように、ずっと付き添って、時にお二人のご対面を実現させても頂いた。)。

このなんとも言えない時代の違和感に、唯一、ラップの下から「ナス」のとげが私をチクリとやってくれていた。。。

【ほどなく、このチクリが我が家の生活にもやってくることになる】


つづく