【矛盾】
大学に入り、障碍者仲間に出会うことでいろいろな人生を垣間見るようになった。先に書いたろう者との出会いでは、ろう者の大工さんと将棋を打っては負けた(この頃、今でこそ日本手話という言語が市民権を得てきているが、当時は伝統的手話などと言われて隅に追いやられていた時代。手話が上達しない私にとって、その“伝統的”手話の使い手との将棋だけが私のアクセスの仕方だったのかもしれない。後年、山谷の日雇い労働の人とも将棋をさして負けた)。後年2009年になって谷根千や横浜をロケ地として、全日本ろうあ連盟の記念映画が作られた時、大工の主人公の働くロケ地を、私の方で交渉させてもらった。
職人の手元を見るのは、まして手伝うのはいつも楽しいものだ。
車いす生活者の人たちとはキャンプで楽しんだが、社会の矛盾が有ることに気づかされる(東京青い芝の会などを知ったのもそのころだ)。そんな中での国際障害者年(1981年)であった。
その妙な明るさの後、わが家では、父親の勤める会社が事実上の乗っ取りにあった。弱肉強食のタクシー業界にあっては中小の企業が飲み込まれていくことは珍しいことでもないのかもしれないが、若い頃からタクシーの整備士で車の下に潜りこんで故障を修理していた父親もすでに管理職側ではあったものの、部下たちとともに、会社を後にした。
その際に、父親が漏らしていたのが、こういう時になんで労組は力にならないんだ、との一言。今でこそ、労組の役割はもっと他にたくさんあることがわかるが、当時は、その一言はズンときた。
(当時は代々木公園で労組による5月にメーデーの集会があった時代で、その集会の会場周辺の後片付けなどのバイトもしたことがあったので、よけいに働く者の祭典で働いている私たちはなんやねん、という気になってしまった。労組とのボタンの掛け違いだったかもしれない)。
その会社のマークを車体につけたタクシーが次々と町から消えていった。塗り替えられていった悔しさは今も忘れられない。
幸いにして、父親は技術職として別の分野での転職ができ、私たち家族を守ってくれたが、やはり、こうして、多くの中小企業が倒産や乗っ取りにあって、多くの労働者が放り出されて行くのだろうということを初めて身をもって感じる出来事であった。
世はバブル社会への入り口へとさしかかっていく。バブルの妙な明るさと同時に、のちに噴出する社会の矛盾とが伏流していった時代。
そろそろバブルに浮かれ始めている世の中、コピーライターのような表層を撫でるよう(に思える)な仕事が世の中を闊歩し始めていた。「ナス」だ。
そんな中で私は、すでに「ナス」のとげの方を経験していたため、きらめく消費社会の中では、地味とされたメーカー、それも建築材(サッシ)のメーカーに就職した。
建築材(サッシ)については、大学時代にもその組み立て販売の店で経験をしていた。倉庫の中で、なかなか、組み上がらないでなみだ目になっていると、親方が、大学も出てこんなのも出来んのか、と私の根底をひっくり返された経験もある。
入社の面談の時には、バイトの話は封印した。当時は3Kと呼ばれ、肉体労働はネガティブにとらえられていた。まして、障碍者とのサークルの話も企業にとっては、遠い話だった。「手話」を知らない人もいた時代だ。
やむなく、知り合いに誘われて広域で行った銀杏落しの話をした。大学、墓地、運動グラウンド…。あらゆるところで銀杏をとっては、荒川の空き地に運び、大穴を開けて熟させ、果肉をとっては“商品化”していった。木に登って揺すれば、枝から銀杏が落ちる。当時バイト先の八百屋から段ボールを頂戴して100箱くらいにはなっただろうか。ちょうど台風が日本を縦走して原産地の名古屋がやられ、値が上がる値が上がると喜んだなどという話をすれば、ウケが良かった。
なんのことはない、バブルを前に私自身が金の成る木に踊らされていた。
が、大事なのは本当はそのあとで、銀杏は隔年でよく実が成るため、翌年はなにもしなかったのだが、台風一過。ふと、霊園を歩いていて、一陣の風がふっと吹いた時に肩越しに何かを感じた。振り返るとゆっくりとコマ送りのように、私の目の前をたった一個の銀杏が落ちていった。その瞬間、負けた!と心で叫んだ。
去年、何千個の銀杏を(枝を折りつつ)落した風景がこのたった一個の銀杏のゆっくり落ちる光景に負けたのであった。
しかし、私は就職においては、この後半の話(一個の銀杏)はしなかった。
話しても、反応は悪かった。
かくして、自分の中の矛盾を抱えての就職となった。
(今、SDGsが叫ばれていて、隔世の感がある。ただ、私たち世代は心のどこかにこうした矛盾を抱えてきた。それをバネにして、逆に一個の銀杏を感じを取り戻すことも出来る。封印したままの場合が多いが。。今の世代は、生れ落ちてから、社会がSDGsの大合唱だ。いったい、どんな矛盾をバネに我が事化できるのだろうか。がんばってほしい)。
もっとも、このあと、会社に就職前に、黎明期のパソコンのベーシック言語を習いにいったことがあった。自分にはパソコンは性に合わないと思ったのだが、ある時思い立って、この銀杏が地面に振り落ちて積る様子をパソコンなら描けるのではないかと思った。のちのライフゲームのようなものだ。Randamizeの指令とサインやコサインを駆使してプログラムを組み、パソコン教室に頼み込んで、その日は電源を切らぬよう頼み込んだ。この日の夜のわくわく感は今も忘れない。子どもが、雪の降りはじめに床に入るようなものだ。寝られるわけがない!
翌日の結果は、、。想像にお任せする(笑)
(まことに偶然ながら、いま、ワーカーズコープを一緒にやろうとしている仲間が、なんと、その当時のそのパソコン系列の会社に入っていた。眠れぬ夜に君も居たのだね~)。
会社に入って、販売促進を担当した。が、全体が販売企画部の中にあったので、営業や経理はもとより、法務、海外、総務などとの連携もあって、貴重な体験をさせて頂いた。
そんな中で、工場と営業のパイプ役と言っても互いの言い分の聞き役、調整役みたいなことが、メインとなる中で、同時に展示会の仕事を任された。いうなれば、これは製品が商品になる過程であった。もちろん、商品名はまだ仮のものであったりする(参考出品など)。展示場で設営が終わり、ぽつんと一人、会場で眺める製品/商品は格別だ。私の好きな「境【メディア】界」(売り子の項、参照)と言ってもよい。グッドデザイン賞の取得のための仕事もあった。工場と営業の言い分の調整役ばかりでなく、工場が生み出したものの想いを生き生きと世に伝え、それを営業の活力とフィードバックして工場のエネルギーへと同時に転換するのが販促の仕事と心得た。(この“同時”が肝だ。この同時にこそ、私自身これから始めようとしているワーカーズコープでのキーになると思っている)。
また、サッシとろう者が頭の中で結びついた。正確には、サッシという枠(フレーム)の中の世界(透明ガラス)と手話、パントマイムが頭の中で交差した。パントマイムも手話劇との対比というよりも、デヴィッドボウイなどがマイムをやっていたというのを知って始めたに過ぎないが、都内のスタジオで習ったことがあった。「君は40代の体だね」と言われながらも、雰囲気だけ味わった。
(同時代的には、あの松元ヒロさんの同僚だった人が同じスタジオに習いに来ていた。すでにスターであった。が、私はむしろ大道芸に憧れていた。)。
残念ながら、私の案はなかなか通らなかった。展示場でろう者にサッシのガラスという目に見えないものをマイムのように浮かび上がらせてもらうという企画は、広告代理店には届かなかった。彼らは彼らなりのエージェントと契約していることもあり、今なら、その気持ちも理解できるのだけれど。。。
時に、展示会場では、肝心のサッシの到着が遅くなったり(なんといっても、本邦初公開の“製品”なので、部品の調達が遅れるなんていうことはあり得ることだった)、途中で不具合が生じたりした。そんな時には、私の俄かパントマイムでお客さんを煙に巻いた。40代の体の演技がまさかこんなところで役に立つとは思いもよらなかったけれど。いずれにせよ、その時の私にはろう者の叶わなかった身体と現前するお客と対面するこの私の身体との間で、あるいは、入店拒否にあう当時の車いす生活者との体験と、同じ店舗用のドアの展示に奔走する私の体験とのあいだなど、いくつかの、矛盾を抱えつつのメーカー勤めであった。
さらに、言えば、そのころにやっと出始めた『メディアラボ』などで紹介された、フェイストゥフェイスの技術が、障碍者のアクセシブル技術、例えば、音声合成などと、繋がってくることは明白であり、工場などにも喚起を促したが、社会的にはバブル時代にはその繋がりが見えていない、という苛立たしさもあった。(90年代になって、車いす作家の花田春兆さんに、TRONコンピュータの創設者との対談をお願いした時にも、単に、バリアフリーの問題というよりもこの繋がりをこそ、(福祉界、産業界)「同時」に意識化してほしいという思いがあった。そもそも本丸の電脳ハウスでの対談を願ったが、まだ時代が熟していなかった)
つづく