以下、谷根千エリアに支えられた、これまでの取り組み(製作中)
私の高校時代に、冬になると決まって、不思議な人物が谷根千(谷中、根津、千駄木)に出没していた。及川裸観(らかん)さんだ。ニコニコ会館の主らしく、笑いは健康の素、のタスキやのぼりを持って、冬の寒い中を野太い声で、わっはっは~。と笑いながら、道行きすれ違う人にも、「こんばんわ~」と声をかけながら小走りに町中を歩いていた記憶がある。
谷根千は、その名の通り、谷中(台東区)、根津、千駄木(文京区)の区界であり、さらには、田端のほうに北区が、西日暮里のほうに荒川区も控えている、言うなれば、境界の町である。私はひそかに、「谷根千境」とここを呼んだりもしているのだが、その境界の主、が及川らかんさんであった。上半身裸で「笑いは健康の素」と書かれたタスキをかけ野太い声で「わっはっは~」と笑いながら町の隅々を駆け巡るのは子供心に凄まじいインパクトであった。ああ、こういうのもアリなんだ、と妙に納得した。
後年になって、身体と社会との境界に「障害」者が佇(たた)ずんで、私を見透かしてくるのを感じ取れたのも、きっと、この及川さん体験に負うところ大である。
写真は谷根千の表玄関ともいえる、「夕やけだんだん」を昇る、及川らかんさんを高校時代?の私が辛うじて追いついて捉えた唯一の写真。
ついでながら書くと、この夕やけだんだん通過前には私の実家の前もこの野太い声の主がよく通り過ぎて行った。で、一方でこのコースを逆に日暮里駅のほうから降りてくるマレビト(民俗学的な意味だが、子どもの私にとっては、ドキドキをもたらせてくれるヒトという意味に捉えてほしい)が居た。
当時は、上野駅が東北や北関東からの終着点だったので、その手前の日暮里駅から降りてくる背負子(しょいこ)に野菜を積んだおばちやんたちが夕やけだんだんに2,3人居て野菜を広げていたもんだった。そして、その先で谷中の家々に個々に毎年のように採れたての野菜を売りに回ってきてくれていたのを楽しみにしていたのだった。
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こうした時代から、30年後、私は視覚障害の仲間とこのまさに夕やけだんだんにて、点字物語「天の尺」(夕やけだんだん篇)を実施していた。。。東京タワーの時の点字物語「天の尺」が孤高の塔を読み昇とするなら、こちらは何とも買い物客ひしめく日常に「触れながら」の点字物語「天の尺」であった。
夕やけだんだんの上のお店から、
飛び入りの嬉しい差し入れが!
【点字物語「天の尺」のあとは谷根千散歩で、当時谷中の五重塔再建に向けて、
宮大工の菊池棟梁も五重塔部材の体験展示をされていたため、私たちも残された
本物の五重塔部材を触らせてもらうことが出来ました。
点字物語「天の尺」(夕やけだんだん編)では、お題の一つが「塔」という
こともあり、物語から始まって、実際の職人の技に触れることが出来、
感慨無量でした。谷中の五重塔は幸田露伴『五重塔』のモデルでもあります。
まぼろし谷根千境
2008年10月の芸工展で発表
(@貸し原っぱ音地)谷根千を廃材のみで表現したアート作品。
「まぼろし谷根千境」(←動画)
→2008年10月のある日、たった一日のための町と地形。 素材はすべて廃材。発泡スチロールは魚長さんから頂いた。 西郷さんの銅像を造った発泡スチロールはたまたま福島産と 書かれた箱の一部だったり、した。 不忍池は果物の入っていたクッション材。 へび道には暗渠前の水を通す意味で洗濯機のホースの廃材。 傘の柄は短くして、固定。本郷台地や上野台地、向ヶ丘などを 表現した。 (当時は、ワーカーズコープで清掃の仕事をしていたため、廃棄物の気持ちを少しでもわかって頂きたい、スポットを当ててあげたいということがそもそものきっかけだった)。ご存知、西郷隆盛像は、よみせ通りの魚長さんから頂戴した、福島産の魚の入っていた発泡スチロールの空き箱から削って作られたもの。福島産というところがみそ。
藍染川(小川)が暗渠化されへび道に(ホースで表現)