※下の地図の「現〒局」は、大崎駅西口に移転しました。
古地図にみる三木(三ツ木)村(その5)明治44年の地図
大正11年9月1日、関東大地震が起き、被害の少なかったこの辺りには、大勢の人たちが移り住んできて、お店も多く建ちました。
昭和10年 三ッ木町会の神輿と太鼓(山車)をつくろうと当時の会長根岸朝太郎氏が発起人になられて募金が始まりました。(その下の画像は趣意書)
昭和12年三ツ木周辺
左上、池上線に「桐ヶ谷」駅がある。現在の戸越銀座駅と大崎広小路駅の中間駅である。第二京浜国道はまだ造られていない。
昭和19年三ツ木周辺
戦時中なので、品鶴線、国鉄大井工機部、明電舎、園池、荏原製作所などが軍事関係の重要諸施設ということで地図から消されている。
昭和20年5月24日の城南地区大空襲で焼失した家屋の片づけが終わっている。戦災で家がなくなったのでしょう。まるで白地図である。
三木小学校もバラックの平屋の校舎を作れるように整地したようです。講堂とプールや近所の建物には影がありますが、校舎の建物の影がないのでまだできてはいないようです。
※参考資料:GOOマップ(国土地理院:米軍による測量) 発見者:三木36期Kさん
現在の第一三共製薬や区役所がある広町は、西品川1丁目と2丁目でした。
3丁目は変わりませんが、4丁目が1丁目と2丁目に、5丁目が2丁目になりました。
三ツ木町会の貴船神社のお祭りも昭和30年代は、三ツ木通りの商店街も戸越銀座と同じくらいとても賑わっていましたので、お祭りも熱気に溢れていました。画像:三ツ木町会所蔵 (上の画像はgoomapより)