木喰仏と人々の暮らし

木喰仏とは

木喰仏とは、江戸時代後期の遊行僧である木喰上人が作った一木造りの仏さまです。穏やかにほほ笑んだ表情が多くみられることから、微笑仏(みしょうぶつ)とも呼ばれています。木喰上人は56歳の時に「日本全国を廻り千体の仏像を造ることで民衆を救済する」という願を立て修行の旅に出ました。それから37年間に渡って彫った千体以上ともいわれる仏像が木喰仏と呼ばれ全国に残っています。

南魚沼に残る木喰仏

木喰仏の背面に記された制作年月日から、木喰上人は晩年の1805年8月、閏8月、9月の約3ヵ月間、当地域に滞在したと考えられています。南魚沼市には木喰仏が19体現存し、すべて市の有形文化財に指定されています。地域別には、大和5体、六日町6体、塩沢8体に分布しており、保有者別には、寺社6体、個人4体、地区9体となっています(出典:南魚沼市指定文化財一覧表)。


南魚沼の木喰仏の特徴

木喰上人は、行脚した地域で寝食の提供を受け、人々の願いを聞きながら仏さまを彫りました。よって、「吉祥天:美と福徳をもたらす」「大黒天:福を呼ぶ」「薬師如来:病苦を救う」「子安観音:安産、子どもの成長を守護する」といった現世利益を表現するものが多くなっています。また、八海山にまつわる山岳信仰や修験道とつながる「山ノ神尊」「役行者」「大山不動明王」「慈源大師」といった、全国でも希少な仏さまが残っています。


南魚沼市の木喰仏の価値や課題

江戸時代後期の木喰仏が約200年を経て現存するということは、地域の人々に受け入れられ、人々の暮らしの中で維持・継承されてきた結果だと言えます。一方で、彫られた当時から現在まで、人々の暮らしにおける木喰仏の意味合いは変化してきました。病気をしたら病院に行くといったように、人々の生活が変化し、木喰仏に頼る必要がなくなったのです。

例えば、大月観音堂に祀られている「如意輪観世音大士」は、現在、地区の有志8人からなる観音様世話人会によって管理されており、お願い事をする祈りの対象から、お世話する対象へと変化しています。観音様世話人会は、観音様を「お世話する」という協同作業を通して、地区の自治継承を支えているようです。

写真1(タイトル写真)_大崎院の木喰仏
1805年9月4日作。「笑いがんのん」と呼ばれ親しまれている。

写真2_如意輪観世音大士(大月観音堂)
18058月26~28日作。左から「吉祥天」「大山不動明王」「大黒天」。

写真3_大月観音堂
1806年に「笑いがんのん」を祀るために建立された御堂。1921年再建、2013年大規模修繕。