地域をつなぐ多聞青年団

出典:浦佐多聞青年団 平成27年度活動報告

浦佐多聞青年団とは

西暦807年、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征伐の折に建立したとされる毘沙門堂で、毎年3月3日(旧暦1月3日)に行われてきた大祭を取り仕切る地域の青年団組織。19歳〜30歳までの青年男子によって組織され、30歳が最高幹部となり、大祭運営を指揮する。*令和2年度より3月第1土曜日に実施されている。

多聞青年団の起源

浦佐地域を中心に、毘沙門天を中心に仰ぐ信仰集団(信者、若者連中、村人等)によって浦佐毘沙門堂の堂押し(現在の裸押合大祭)が行われてきました。その準備、警護、警戒その他行事の進行等を行ってきたのが「若者連中」であり、多聞青年団の前身です。江戸時代、鈴木牧之によって書かれた『北越雪譜』には「浦佐の堂押」として大祭が紹介されており、このときは男女入り混じって行われていたことがわかります。

画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション 鈴木牧之 著『北越雪譜. 2編 巻1』

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767987 (2022.11.25参照)

多聞青年団の特徴

浦佐多聞青年団の特徴は、その機能が裸押合大祭の運営のみに特化していることで、団則第1条にも次のように書かれています。

第1条 本団は、毘沙門天の伝統的裸押合大祭を行うため、誠意を以てこれに奉仕し、併せて郷土発展に寄与することを目的とする。

もともと、日本における青年団は日露戦争後に始まります。大正時代末期には政府主導で官製組織として整備され、南魚沼郡青年会も同時期に作られました。浦佐地区では「浦佐商業青年会」が普光寺で活動し、大祭の仕切りを担っていました。1952年、浦佐青年団は人数が少なくなり「浦佐多聞青年団」として五箇・蝦島まで範囲を広げ、上限年齢も数え年30歳に引き上げられました。この時から大祭運営に特化しました。

多聞青年団が地域をつなぐ

地域で聞き取りをすると、多聞青年団がどんな存在なのかが見えてきます。みなさん口々におっしゃるのが「同級生がつながること」と「世代を超えたつながりができること」。たしかに、南魚沼市内のどこで聞いても「浦佐はつながりが強い」とか「浦佐は活発」と言った意見が出ます。そのベースになっているのが多聞青年団なのです。

歴史ある大祭を担うことの価値はもちろんありますが、多聞青年団ならではの価値を考えると、現代社会で希薄化している「人のつながりを作る」点において大きな役割を果たしていることではないでしょうか。

*画像出典「平成28年度浦佐多聞青年団公式ブログ」http://urasatamon28.blog.fc2.com/

「餅会」と「福餅撒与」

特に、この「つながりを作る」点で重要な存在が、青年団OBが結成する「餅会」です。餅会はいわゆる同級生の集まりで、こちらには女性も参加できます。毎年2月になると浦佐地区のあちこちで餅つきが行われ現役の青年団幹部がそれを手伝い、独特の高揚感に包まれます。餅会は青年団卒業後、還暦までの30年間続けられるため、子供ができたり、孫が来たりと、まさに世代を超えた交流が行われているのです。

ちなみにこのお餅は、福餅撒与という餅まき行事のためのお餅で、大祭当日は5回の撒与が行われ、大変盛り上がります。搗くときに地域の人々をつなぎ、撒く時には全国からの参拝者をつなぐ。それを支えているのが多聞青年団なのです。

*画像出典「令和4年度浦佐多聞青年団公式ブログ」https://r4tamonseinendan.hatenablog.com/

浦佐多聞青年団の継承のために

全国どこの地域でも、若者人口の減少は大きな課題です。もちろんそれは浦佐地区でも同じことで、普段、浦佐駅を降りて毘沙門堂の方へ歩いてもほぼ人とすれ違うこともありません。青年団の団員数もコロナ禍を経て激減しました。しかし、都内に住む浦佐出身の若者たちは「お祭はやっぱり楽しいから、この時期は帰ります」と話します。現代の若者が感じる「楽しさ」とは一体何なのでしょうか。

私は「人とつながること」を求める若者のニーズと、浦佐多聞青年団が作り出す地域・世代を超えた人のつながりはマッチするのではないかと考えています。1000年以上の歴史ある大祭を担うのは、ちょうど70年を迎える青年団です。地域が誇る伝統行事である毘沙門堂裸押合大祭を維持継承したい気持ちは誰でも同じですが、現代の若者の感覚に合わせた手法も必要なのかもしれません。