最近は、動画も音楽も本も、
「新着」「トレンド」「話題の〇〇」が、次から次に流れてきます。
一度観て満足するもの、
数秒でスワイプしてしまうものも多いけれど、
不思議なことに、
ふとしたとき何度も思い出して、
「もう一度あれを味わいたい」と感じる作品や文章も、確かに存在します。
その違いは何なのだろう?と考えていくうちに、
私は「センス」という言葉に行き着きました。
センスというと、
ぱっと思いつくアイデアや、
オシャレな一言、
洒落た切り返しのような
「瞬間的なひらめき」のイメージが強いかもしれません。
でも、よくよく見ていくと、
本当にセンスが光っているものほど、
たくさんの経験や試行錯誤
失敗や迷いも含めた蓄積
多角的な視点からの組み立て
が、見えないところで積み重なっているように感じます。
ぱっと見はシンプルなのに、
何度触れても新しいニュアンスが立ち上がってくるものは、
たいてい「土台」がしっかりしている。
時間をかけて作られたものは、
軸がぶれにくく、
細部のこだわりまで妥協していないからこそ、
再確認するたびに新しい気づきがあり、
そのたびに「やっぱり、いいな」と思えるのだと思います。
今は、情報収集もテクニックも、
少し検索すれば、すぐに手に入る時代です。
だからこそ、
どこかで拾ってきたノウハウをなぞるだけのもの
その場のウケだけを取りに行くアイデア
子どもでも思いつくような刺激を、ひたすら大きな音で鳴らすだけの表現
も、簡単に量産できてしまいます。
それ自体が悪い、と言いたいわけではありません。
ただ、何でもかんでもビジネス化してしまう流れのなかで、
中身よりも「どうバズらせるか」
作品そのものより「どれだけ話題にできるか」
ばかりに力を注ぐケースが増えてきているようにも感じます。
結果として、
中身がほとんどなく、
子どもでも真似できるような薄い作品が量産され、
それでも「数字」さえ出ていれば評価されてしまう。
そういう状況が続くと、
芸術や表現が本来持っている力も、
少し違う方向へ引っ張られていってしまう気がしています。
芸術全般には、本来、
人を励ましたり、救ったり、世界の見え方を変えたりするだけの力があります。
しかし同じだけ、
人々の心に影響を与えるからこそ、
悪用される可能性も常にそばにある。
そこに「お金になるかどうか」という軸が強く入り込みすぎると、
どうしても“影響力のある悪用”のほうに、
傾きやすくなってしまうのかもしれません。
ここで勘違いしたくないのは、
味わい深いもの = 難しくて分かりにくいもの
ではない、ということです。
わざと複雑にする
言い回しを遠回しにして曖昧に濁す
ことは、
「味を出すこと」とは全く別の話だと思っています。
センスが輝いているものは、
言葉はシンプルでも、背景に物語が感じられる
構成は分かりやすいのに、じわっと心に残る
派手さはなくても、「ああ、この人は本当にこれが好きなんだな」と伝わってくる
そんな、静かな奥行きをまとっていることが多い。
そこには、テクニックだけでは辿り着けない、
その人自身の蓄積や視点が、自然とにじみ出ているように思います。
お金持ちの人が、モノではなく「経験」にお金を使う、
という話をよく耳にします。
それはきっと、
旅先で見た景色
誰かと交わした会話
そのときの空気や匂い
のようなものは、
その瞬間で終わりではなく、
あとから何度でも思い出し、味わい直すことができるからかもしれません。
一度きりで消費してしまうモノよりも、
心の中で何度も咀嚼できる経験のほうが、
自分の中に残る「味」が深くなる。
センスが輝いているものも、
それとよく似ています。
一度きりの刺激で終わるのではなく、
何度味わっても、また新しい顔を見せてくれる。
だからこそ、飽きないのだと思います。
そして、それを選び取る自分自身の感覚も、
同じものを何度も味わううちに、少しずつ磨かれていく。
その場しのぎの刺激を追いかけ続けるのか
何度でも味わいたい「自分の好き」に、静かに戻っていくのか
答えは人それぞれですが、
少なくとも私は、後者を大事にしていきたいと感じています。