気づけば今の世の中は、
「がんばれば1人でも生きていける」 方向へどんどん進んでいるように感じます。
スマホ1台あれば、買い物も、手続きも、連絡もほとんど完結する。
ネット回線さえあれば、家から一歩も出なくても生活できてしまう人も増えました。
昔なら、近所の人や家族と協力しなければ成り立たなかったことが、
今はお金さえ払えば、ほとんど外注できる。
便利になったこと自体は、間違いなくありがたいこと。
ただ同時に、心のどこかで、こうも感じています。
「こんなに1人で生きていける時代に、
それでも人は満たされているのだろうか?」
少し前までは、
家族の中での役割分担
近所付き合い
職場や地域での助け合い
が、生活の前提にありました。
誰かが倒れたら、他の誰かが支える。
自分一人が不機嫌だと、全体がギクシャクするからこそ、
お互いに気をつける必要があった。
もちろん、その分しんどいことも多かったはずですが、
「誰かと協力しないと回らない」 という事情が、
結果的に、人と人をつなげる接着剤にもなっていたのだと思います。
今の時代は、その接着剤の多くが、
「お金」と「便利さ」に置き換えられてきました。
役割分担をしなくても、サービスを買えばいい
近所づきあいがなくても、ネットでなんとかなる
相談できる人が近くにいなくても、検索すれば情報は出てくる
そうやって、「自力で生きていけるような錯覚」を、
社会全体が少しずつ強めているようにも感じます。
先進国の多くで「少子化」が進んでいると聞きます。
日本もその一つだと言われています。
背景にはいろいろな要因があるのでしょうが、私はその一つとして、
「1人でも生きていける仕組みが整いすぎたこと」
「人に対する不信感を煽る情報が溢れていること」
もあるのではないかと感じています。
たとえば、
女性が好きな男性にとって、
メディアやネットで「女性のダメなところ」「女性は◯◯だ」といった、
悪い面ばかりが繰り返し流れてくるとしたらどうでしょう。
本来なら、誰かと出会って、関係を育てていくプロセスは、
不安もありつつ、楽しみや喜びも含んだもののはずなのに、
「そこまでして誰かと付き合う必要があるのか?」
「面倒だし、傷つきたくないし、1人でいいか」
と感じてしまっても、不思議ではありません。
少子化対策と言いながら、
実際には 少子化をさらに促進するような情報の空気 が
当たり前のように流れてしまっている。
一方で、地球全体で見れば、
人類が今すぐ滅びるような状況ではないどころか、
専門家の調査によっては、
「この星が受け止められる人類の数は、
すでに定員オーバーに近づいている」
と指摘されることさえあります。
もうすでに、「単純に人を増やせばいい」時代は、とっくに終わっている。
だからこそ、
「どれだけ多くの人がいるか」ではなく、
「その一人ひとりがどう生きているか」
が、前よりもずっと大事になってきているのだと思います。
1人で生きていける時代になると、
「家族」という枠組みも、
1人の延長線上のように扱われやすくなります。
「自分たち家族さえ良ければそれでいい」
「お金さえあれば、他の人がどうなっても関係ない」
という感覚が、気づかないうちに染み込んでしまう。
もちろん、「家族を守りたい」という想い自体は、とても自然なことです。
問題は、それが 他の人をないがしろにする免罪符 になってしまうとき。
自分と、自分の家族のことだけ考える
それ以外の人たちは、見えない「その他大勢」になる
お互いを知らないまま、分断や対立だけが増えていく
そんな状態は、
大きな力にとって、もっとも集団をコントロールしやすい状態 でもあります。
どんなに一部の人に注目を集めても、
その「光」が強くなればなるほど、
周りにいるたくさんの人たちは「影」として扱われやすくなる。
本当は、社会を支えているのは、
名前も知られていない、数えきれないほど多くの「その他大勢」のほう
なのに、です。
人口が増えれば増えるほど、
統計や数字でしか人を見られなくなってしまうことがあります。
でも、どれだけ数字が大きくなっても、
「1」という数字の向こうには、
日々を生きている一人の人間がいる。
という事実だけは、変わりません。
1部の人だけが大切なのではなく、1人1人が大切
「自分が何をしても意味がない」という諦めではなく、
「自分にも、小さな責任がある」という自覚を持つこと
表面的な「注目を集めるための正義感」ではなく、
日々のささやかな振る舞いの積み重ねが、
静かに世界を形づくっていくという感覚
今は、あらゆるものが 「加速の時代」 に入っています。
人の心の動きも、情報の広がり方も、
お金の流れも、あっという間に拡大したり、逆流したりする。
そんな中で、
より良い方向へ加速していくのか、
それとも、その逆へ転がり落ちていくのか。
その違いは、
結局のところ 1人1人の自覚による行動の積み重ね に
かかっているのかもしれません。
それは決して、重荷やプレッシャーとして背負うものではなくて、
誰が見ていなくても、
「自分はこうしていたい」と思える行動を選んでいく
そんな、静かな喜びに近いものだと思っています。
今の時代は、
多様性や平等という言葉がよく使われるようになりました。
いろいろな生き方があっていい
どの性別・どの立場の人も尊重されるべき
その方向性そのものは、とても大事だと思います。
ただ一方で、
「平等」と「平同(“同じ立場だから何を言ってもいい”という感覚)」
が混ざってしまっているように感じることもあります。
「私を認めろ」
「同じ立場なんだから、遠慮なく言いたいことを言う」
という形で「同じ立場」が使われるとき、
それは尊重というより、お互いにぶつかり合うための口実になってしまうことがある。
たとえば結婚生活を考えてみると、
夫婦は法的には「対等な立場」です。
でも、その「対等さ」を
「お互いに、言いたいことだけを好きなだけ言う」
「相手の気持ちより、自分の主張を通すことが優先」
と解釈してしまえば、
それはむしろ、ギクシャクして当然だと思うのです。
離婚率が上がるのも、ある意味では当たり前と言えるかもしれません。
本来、大切なのは、
「同じ立場」だから何でも言っていい、ではなく
「同じ立場」だからこそ、お互いの長所と短所を認め合い、補い合うこと
だと思っています。
たとえば、背の高い人が、
高い棚の上の物をサッと取ってあげる。
背の低い人が、
細かいところに目が届いて、別の場面で支えになる。
「差別しないで!自分でできるから!」と
何もかも自分でやる選択肢もありますが、
何でも1つの枠に押し込んで「同じであるべきだ」と主張し続けると、
かえって関係がぎくしゃくしてしまう。
もっとシンプルに、
自分にできることを差し出し
相手にできることを受け取り
お互いの違いを、そのまま活かしていく
それでいいのに、と思うことがよくあります。
これは、結婚だけの話ではなく、
あらゆる「違い」に共通することだと感じています。
その意味で、平等とは
みんなが同じ能力になることでも
みんなが同じ考えになることでもなく
「違いがあるままでも、互いの存在を否定しないでいられること」
「違いを認め合う前提があるからこそ成り立つもの」
に、近いのかもしれません。
こうして、
「生きていくためには、誰かと支え合うことが前提だった時代」から、
「お金とインフラさえあれば、とりあえず一人でも何とか暮らせてしまう時代」へと、
ゆっくり重心が移ってきました。
それは単に「便利になった」というだけでなく、
役割分担 や 助け合い の意味そのものを、
少しずつ書き換えてしまっている変化でもあるように感じています。
昔は「役割分担」がなければ生きていけなかったからこそ、
嫌でもお互いの得手不得手が見えていました。
1人で生きていけるようになった今だからこそ、
あらためて 「役割分担の大切さ」 を
思い出してもいいのかもしれません。
自分にとっては当たり前で簡単なことが、
誰かにとってはとても助かることだったりする。
違いを認め合い、協力して助け合うことで、
互いの弱さを補い合い、
一人では届かなかったところに、一緒に届くことができる。
「1人で生きていける」仕組みが整った今だからこそ、
「あえて誰かと一緒に生きる」ことの意味
を、前より深く問い直すタイミングに来ているのかもしれません。
ここまで「1人で生きていける時代だからこそ、互いに補い合うことが大事」と書いてきましたが、
だからといって、どんな協力でも良いわけではないとも感じています。
歴史を振り返ると、
人権を踏みにじる権力に対して、虐げられた人々が「協力して」立ち上がり、
支配を打ち倒してきた場面がたくさんあります。
その一方で、
支配する側同士が結託して、
自分たちの利益や支配体制を守るために「協力」し、
分散している民衆の声を押さえ込んできた歴史
も、同時に存在してきました。
不利な立場にある人たちは、
そもそも情報も、力も、つながりも少ない。
だからこそ、「おかしい」と思っても協力しにくい状況がつくられてしまう。
それは昔から続いてきた、とても根深い構造だと思います。
今はインターネットがあるおかげで、
本来なら「連携しづらかった人たち」が情報を共有し、
声を上げやすくなった、というプラスの面もあります。
けれど実際には、その「協力のしやすさ」が、
安全な場所から、
立場の弱い個人を大勢で貶める
方向にも使われてしまうことが多いように感じます。
誰か一人を「悪者」に仕立て上げる
炎上させる対象を決め、みんなで叩く
それを眺めて消費し、また次の「標的」を探す
そうやって「共通の敵」をつくり、
そこに人々の感情を集中させておけば、
本来向き合うべき構造的な問題からは、意識がそれていきます。
極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、
ときには 「共通の敵をつくろうとするふるまい」そのものを、いったん疑ってみる くらいで丁度いいのかもしれません。
「あいつらが悪い」「全部あの人たちのせいだ」と、原因をすべて外側になすりつけてしまうと、
いつのまにか自分だけは安全な場所に立っているつもりになってしまいます。
けれど、その構図に乗った瞬間、
自分もまた「誰かを悪者にして安心したい側」の一部になってしまう危うさがある。
だからこそ本当は、
世界のどこかに「絶対悪」を探し続けるよりも、
不完全さや弱さを抱えたままでも、
自分自身と向き合いながら静かに歩いている人 をこそ、尊重したいと感じています。
完璧ではなくても、自分の足元を見つめ続けようとする姿勢に、
いちばん信頼を置きたいのだと思います。
支配する側からすれば、
「敵」を用意して、
「協力」を煽るだけでいい。
そのあいだに、静かに支配の仕組みを強めていくこともできてしまう。
さらにややこしいのは、
「協力」という言葉が、狂信的な構造の中でも使われてしまうことです。
カリスマ的な誰かや組織を、疑いなく絶対視する「ファン」や「信者」
「この人(この教え/このコミュニティ)のためなら何でもする」と、
自分の感覚を後回しにしてしまう関係
あるいは、自分を犠牲にして他者を甘やかし続けることでしか、
人とのつながりを保てないように感じてしまう状態
一見「協力している」ように見えても、
それが 自分自身や、別の誰かを犠牲にする前提 の上に成り立っているなら、
それはどこかでひずみを生みます。
本来の協力は、
誰かの犠牲を前提にすることではなく、
「自分も相手も、大事にしながら」成り立つもの
であるはずなのに、
「尽くす側」だけが消耗していく関係も少なくありません。
だからこそ、本当に大切にしたい協力は、
遠くのカリスマな存在や、
顔も知らない大勢との一体感だけではなくて、
離れた場所に住んでいても、直接やりとりできる兄弟や親戚
実際に会うことができて、表情や空気感まで感じられる身近な人たち
困ったときに、具体的な行動で支え合える関係
といった、「確認できる距離感の人間関係」の中で育てていくほうが、
結果として満たされた協力関係になりやすいのかもしれません。
あったこともない誰かや、
裏側を確かめることのできない情報を盲目的に信じるよりも、
ちゃんと顔が浮かぶ相手
確実に対話できる関係
を大切にする。
そのうえで、
「この協力は、自分自身や別の誰かを犠牲にしていないか?」
「この協力は、誰かを貶めるためではなく、支え合うためになっているか?」
と、ときどき静かに見直してみること。
それは、誰かを守るだけでなく、
最終的には自分自身を守ることにもつながる
大事な態度なのだと思っています。
今の世の中は、
多くの人と簡単につながれるようになりました。
フォロワーの数
フレンドや登録者の数
再生回数や「いいね」の数
そうした数字を通じて、
「自分はたくさんの人とつながっている」と感じることもできます。
けれど、どれだけ多くの人とつながっても、
孤独感だけが増えていく こともあります。
どんなに誤魔化そうとしても、
どんなに軽いノリで笑い飛ばそうとしても、
ふとした瞬間に、滲み出てくる孤独。
「1人で生きていけるようになったはずの時代」に
「1人では埋められないもの」が、よりくっきりしてきたようにも感じます。
私は今、こう思っています。
大勢の集団の中で「特別な誰か」になる必要はない
世間に認められるような成功を収めなくてもいい
ただ、生涯をかけて喜びや苦しみを分かち合える、
自分の命より大切だと思える「1人」がいればいい
どんなにお金や権力を持っていても、
どんなに巧妙に人を支配しようとしても、
その「かけがえのない1人」は、お金では決して買えません。
1人だと、自暴自棄になってしまうこともある。
「どうせ自分なんて」と投げやりになってしまう瞬間もある。
それでも今、こうやって
「1人で生きていける時代だからこそ、
他者を尊重していきたい」
と思えているのは、
そんなふうに一緒に喜びも苦しみも分かち合ってくれる、
かけがえのない存在に出会えたから なのだと思います。
その「かけがえのない1人」と出会えた。
それだけで、これ以上に恵まれていることはない。
「1人で生きていける時代」だからこそ、
「1人を大切にする時代」 であってほしい。
そしてできるなら、
自分自身も、「誰かの大切な1人」であり続けられるような
生き方を選んでいきたい。
そんなことを、
便利さに囲まれた今の世の中を眺めながら、
静かに考えています。