― 誰も見ていないようで、「自分だけは全部見ている」という話 ―
「バレなきゃいいか」という空気
「これくらいなら、バレないから大丈夫だよ」
小さなズルをすすめる言葉を、日常のどこかで耳にすることがあります。
ちょっとしたルール違反
誰かのアイデアや文章の丸パクリ
相手が気づかないところでの裏切り
「みんなやっているから」「仕事だから」「お金のためだから」
そんな言い訳を添えながら、
バレなきゃいい
見つからなければセーフ
という感覚で流れていく出来事たち。
ここで話したいのは、
「真面目か不真面目か」といった、表面的な性格の話ではありません。
「〇〇だから仕方ない」
「自分だけじゃないから」
と自分に言い聞かせて、
良心の痛みに触れないように誤魔化してしまう生き方 についてのメモです。
他人にはバレなくても、自分にはバレている
私は、「バレなきゃいい」という言葉を聞くたびに、
どうしても、こう感じてしまいます。
他の誰にもバレなくても、
自分自身にはバレている。
「カルマ」という言葉があります。
宗教的な意味合いだけでなく、
自分の言動が、自分自身を形づくっていくもの
という感覚に近いものとして、私は使っています。
誰も見ていないところで、何を選ぶか
面倒くさいときに、どちらに転ぶか
弱い立場の人に、どう接するか
そういった小さな選択の積み重ねは、
自分の細胞ひとつひとつに刻み込まれていく ような気がします。
「自己責任」という言葉はあまり好きではありませんが、
この点については、たしかにそうなのかもしれません。
どんな自分でありたいかを一番よく知っているのは、
他の誰でもなく、自分自身だから。
だからこそ、
ごまかしながら生きているうちに
気づかないうちに、自分自身がゆっくりと形成されていく
その静かな怖さを、私はときどき思い出しておきたいと感じています。
一生、気づかないふりをして生きられたら幸せなのか?
時々こんな問いが浮かびます。
もし一生、気づかないふりをして、
何事もなかったようにやり過ごせるなら、
それは「幸せ」と呼べるのだろうか?
もしかすると、
気づかないふりをし続ければ、
表面上は何事もなく、
静かに人生を終えることもできるのかもしれません。
でも、
本当はイヤだと思っているのに飲み込んだ言葉
本当はやりたくなかったのに、「お金のため」とやってしまったこと
本当は違うと分かっていたのに、流れに乗ってしまった選択
こういうものは、
どこかで、自分の中に沈殿し続けていくような気がします。
自分自身からは、逃げられない。
自分自身は、自分のすべてを見ている。
そう考えると、
「バレなきゃいい」という基準で生きることは、
結局は自分の中に、ずっとバレ続ける生き方なのかもしれない。
そんな感覚も、どこかに残っています。
「絶対的な何かが見ている」という考え方の、役立つ部分と危うさ
宗教的な考え方には、危うさもあれば、助けになる側面もあると感じています。
組織としての宗教には、権力や支配の問題がつきまとう
けれども、「自分以外の絶対的な何かが、見ているかもしれない」という意識は、
一部では、人を暴走から守るブレーキにもなりうる
「誰も見ていないから、何をしてもいい」ではなく、
たとえ誰も見ていなくても、
自分の内側と、どこかの“何か”は見ているかもしれない。
そう感じることで、
自分の言動を少しだけ振り返るきっかけになるなら、
その点だけ切り取れば、宗教的な視点も役立つ部分があります。
ただしここで、
自分自身と向き合う視点が抜け落ちてしまうと、
その宗教的な考え方すら、都合のいい言い訳に変わってしまう ところもあります。
「神様が許してくれるから」
「これは正しい教えだから」
そうやって、
自分の違和感をごまかすために使ってしまえば、
せっかくのブレーキも意味をなくしてしまいます。
忙しさを言い訳にして、向き合う時間を避けていないか
現代は、とても忙しい時代です。
仕事
家事
育児
介護
情報の洪水
「忙しい」を理由にして、
自分自身と向き合う時間を後回しにするのは、
ある意味では自然な流れかもしれません。
でも、本当に必要な「向き合う時間」は、
壮大な瞑想や長時間の修行ではなく、
ほんの1分でも足りるのではないか
と感じることがあります。
今日、自分が選んだ言葉や行動の中で、
どこか引っかかるところはなかったか
あの場面で、本当はどうしたかったのか
次に似た場面が来たら、どうしたいか
そんなことを、
ほんの少しだけ立ち止まって眺めてみるだけでも、
「バレなきゃいい」から少し離れた場所に立てる気がしています。
自分を責めるためではなく、「穏やかに暮らすためのチェック」として
ここで書きたいのは、
自分に厳しくなりすぎて、自分を責め続けようという話ではありません。
むしろ逆です。
小さく「気をつけよう」とチェックしておくことで、
余計なストレスをためずに、穏やかに暮らしやすくなる。
そういう感覚に近いです。
嘘をついたり
ごまかしたり
誰かを利用して得たもの
そういったものは、一時的には得をしたように見えても、
あとからじわじわと、心に後味を残します。
すると、
自分をごまかすために、さらに言い訳を重ねる
罪悪感を見ないために、別の刺激で気を紛らわせる
人や社会への不満にすり替えてしまう
こうして、余計なストレスが増えていく。
逆に、
完璧ではなくても、「これはやめておこう」と決める
「ここはちゃんとしておきたい」というラインを守る
そんな小さなチェックを積み重ねていくと、
「私は幸せだ」と言い聞かせる必要も、
「幸せになりたい」と強く願う必要も、
だんだん薄れていく。
そんな感覚もあります。
「バレなきゃいい」ではなく、「自分から見てどうか」で生きていく
私にとっての軸は、
たぶんこういうものです。
バレなきゃいいかどうか、ではなく、
自分から見て、これはどうか。
もちろん、いつも正しくなんていられませんし、
きれいごとだけで生きていけるほど、世の中は単純ではないと思います。
それでも、
少なくとも「自分だけは、全部見ている」
だからこそ、自分から見て耐えられる選択を積み重ねたい
そんなふうに考えた方が、
長い目で見て、自分にとって楽なのではないかと感じています。
「私は幸せだ」と言い聞かせなくても、
「幸せになりたい」と必死に願わなくても、いい。
なぜなら、
> 今日も十分すぎるほど恵まれていると、
> 言葉ではなく、全身で実感できる瞬間がちゃんとある
と、どこかで分かっているからです。
今の自分で、まあ悪くない。
とりあえず、このままでいいか。
そう肩の力を抜いて思える時間が、少しずつ増えていくなら、
それはきっと、派手な幸せよりもずっと静かで、
でも確かな「そのままでよさ」の感覚なのかもしれません。
だからといって、
死ぬ瞬間まで「これでいいのか?」「このままでいいのだろうか?」と
自分に問いかける感覚まで、手放したいわけではありません。
「もう十分だから、何もしなくていい」という諦めではなく、
> 今日の自分には「まあ悪くない」と言ってあげながら、
> 明日の自分には、もう少しだけ誠実でいようとする。
そんな、静かな欲求は残しておきたいと思っています。
欠けているから埋めたいという焦りではなく、
少しずつでも、今よりもう少しだけ
まっすぐでいたいという、小さな成長への欲求。
「このままでいい」と感じる感覚と、
「本当にこれでいいのか?」と自分に問い続ける感覚は、
矛盾するどころか、むしろ支え合っているのかもしれません。
ここに書いてあることは、すべてその時点での仮説です。
将来「間違っていた」と気づいたら、また書き直していきます。
それでも今日は、
「バレなきゃいい」という基準から、少しだけ距離をとりながら、
自分自身と静かに向き合っていたいと思っています。