気づけば、画面に向き合っている時間が、昔よりずっと増えました。
PCのモニター、スマホ、テレビ。
仕事でも、休憩でも、暇つぶしでも、いつも何かしらの画面が前にあります。
画面の向こう側で起きていることに、笑ったり、驚いたり、腹を立てたり、傷ついたり。
そうやって、自分の喜怒哀楽のかなりの部分を、外部の映像や言葉に預けてきたように思います。
冷静に考えれば、画面は「点の集まり」にすぎません。
光る点が高速で切り替わって、映像になっているだけです。
そこに声や音楽が重なり、ストーリーが乗り、私たちは物語を“見た気”になります。
でも、実際にはすべてが
想像力で補われている世界です。
画面の向こうの人の感情
これから起こりそうな展開
その裏にある事情やドラマ
それらは自分の想像と解釈で作り上げているにすぎないのに、
心も身体も、本気で反応してしまいます。
以前の私は、コメディアンに「笑わせてもらう」ことで、笑っていました。
面白い人が、面白いことを言ってくれるから笑う。
怖い話をしてくれるから怖がる。
感動的なストーリーを見せてくれるから泣く。
心理学の実験で、ラットがレバーを押すと脳の「報酬系」が電気刺激される、というものがあります。
ラットはそのレバーを、食事や睡眠を後回しにして、何千回も押し続けたそうです。
それを知ったとき、少しだけ自分の姿と重なって見えました。
退屈を紛らわせるためにボタンを押す、というより、
「ここを押せば、何かしらの“快”がもらえる」と学習してしまったネズミのように、
私は画面の向こう側に、感情のボタンを握らせていたのかもしれません。
本当は、怖い思いをしたいなら、
ホラー映画や怪談話を見なくても、日常生活の中にいくらでもあります。
将来への漠然とした不安
家族や大切な人とのすれ違い
健康やお金のこと
予想もしなかった出来事
どれも、画面越しではなく、現実の身体で受け止める怖さです。
同じように、ささやかな楽しさやおかしさも、日常の中にちゃんとあります。
ふとした会話で笑ってしまう瞬間
外を歩いていて見つける、変な看板や出来事
思わず「なんでこうなるんだ」とツッコミたくなる日常のトラブル
「コメディアンに笑わせてもらわなくても、
自分で笑えることはいくらでもある」
そんな当たり前のことを、改めて思い出しました。
今振り返ると、私は
嬉しい
怒り
悲しみ
楽しさ
そのすべての“きっかけ”を、外の世界に任せていました。
ニュース、動画、SNS、エンタメ。
画面の向こうで何かが起きてくれないと、自分の感情が動かないような感覚。
もちろん、きっかけ自体は必要です。
人間は、何も刺激がなければ、ただぼんやりと時間が過ぎていくだけです。
でも、
「外部が用意した刺激がないと感情が動かない状態」
と、
「自分の日常の中の小さな出来事や、自分の内側に起きている変化に気づいて、
『ああ、今、こう感じているんだな』と自分で味わえる状態」
には、大きな差があります。
前者は、リモコンを握られている側。
後者は、少なくとも「リモコンの位置だけは把握している側」です。
画面の向こうの物語に感情移入しているとき、
脳は強く反応します。心拍も変わるし、汗もかく。
それでも、どこか**「安全な場所から見ている」**感覚が残ります。
一方で、現実の中で感じる怖さや嬉しさは、もっと全身に広がります。
肌で感じる空気の冷たさや、日の光の暖かさ
胃のあたりにくる重たい不安
足元から抜けていきそうな、ふわっとした感覚
画面ではなく、自分の身体全体で感じることで、
「あ、今ここに生きているんだな」という実感が少しずつ戻ってきました。
今こうして、言葉を探しながら考えを巡らせている時間そのものも、
自分自身と向き合うことで、すでにどこか満たされている気がします。
「もう満たされている」という感覚は、
派手ではないけれど、とても静かで落ち着いたものです。
ここまで書いても、私はまだまだ画面に反応します。
ちょっとしたニュースでざわつく
理不尽な発言にイラッとする
誰かの成功談や不幸話に、心が持っていかれそうになる
「それがただの“反応”にすぎない」と頭では分かっていても、
気づけば身体は先に動いてしまいます。
そんな自分の未熟さを自覚する一方で、
外からの刺激にあまり振り回されず、淡々と暮らしている人たちを見ると、
「大したものだな」と素直に感心します。
自分もいつか、そこまで振り幅が小さくなれたらいいな、と思いながら、
まだしばらくは、反応してしまう自分と付き合っていくことになりそうです。
誤解のないように言うと、
私は娯楽を否定したいわけではありません。
ゲームも映画も、お笑いも、小説も、大好きです。
むしろ最近は、
余計なことを考えすぎてしまうとき、
あえて没入感の高い対戦ゲームに集中して、頭を空っぽにしてみる
ということもあります。
ただそれでも、完全に「意図的に使いこなせている」わけではなくて、
やっぱり気づけば、画面に心を持っていかれ過ぎてしまう日もあります。
「うまく使っているつもりが、逆に使われていたな」と
あとから気づくことも多いです。
このあたりを考えていて、一番怖いと思ったのは、
「自分が主導権を握っているつもりで、
実はほとんど外部に握られている」
という状態でした。
自分で選んでいるつもり
自分で楽しんでいるつもり
自分で怒っているつもり
でも、その「つもり」の裏で、
何を見て、何に怒って、何に笑うのかを決めているのは、
画面の向こう側だったりします。
だからこそ今は、
「あ、今のこれは“自分の選択”というより“反応”だな」
と気づけるだけでも、大事だと思うようになりました。
気づければ、少し距離を置くことができます。
気づければ、「今日はここまでにしておこう」と言える余地が生まれます。
画面の先よりも、目の前にあるものに意識を向けると、
良いことも、悪いことも、ちゃんとそこにあります。
うまくいかない日常
ささやかな成功
理不尽さ
思わず笑ってしまう瞬間
喜怒哀楽のきっかけは、与えてもらわなくても、
自分で気づき、見つけていくことができる。
そのうえで、娯楽もきちんと満喫する。
外部に依存するのではなく、自分の感情の主導権を少しずつ取り戻しながら。
これは大きな宣言ではなく、
「そういうふうに生きてみたい」と思った、ひとりのメモです。
※「正しさ」や「正義」という言葉との距離感については、「『われこそは正義』という言葉から距離をとる」というメモも置いています。