いまのネットやテレビを見ていると、
「人の感情を揺さぶって、行動させてなんぼ」
という空気が、当たり前のように広がっていると感じます。
コピーライティングの世界では、
「不快にさせないと覚えてもらえない」
「感情を動かさなければ意味がない」
といった言葉もよく耳にします。
実際、その手法で結果を出している人も多いので、
ますます“感情を動かす言葉”が増えていきました。
今ではドラマのセリフの中にまで、
現実ではまず使わないような煽りの表現が
当たり前のように紛れ込んでいます。
正直に言えば、私はそれを
「家庭内暴力の支配方法を、社会全体に広げたようなもの」
だと感じることがあります。
DV(家庭内暴力)を受けた人は、
最初は当然、傷つき、恐れ、抵抗します。
けれど、それが繰り返されるうちに、
やがて諦めへと変わっていきます。
「普段はいい人なんだ」
「いいところもあるのに、私が悪い」
そんなふうに、自分を責め、
相手をかばうようにさえなってしまうことがあります。
ここで怖いのは、
DVから離れた方がいい、と伝える人が悪者に見えてしまう
ところです。
支配する側にとって都合のいい構図が、
本人の中で“当たり前”になってしまう。
不安を煽る
今すぐ行動しないと損をする、と脅す
「知らないあなたが悪い」と遠回しに責める
誰かを悪者にして「味方」と「敵」に分け、味方同士の結束を強める
誰かを悪者にして味方を増やし、結束力を固めるやり方も、 支配のためのよくある手段です。
「こっち側にいれば安心だ」「あっち側はおかしい」と 世界を二つに割るほど、支配する側は楽になります。
そうして、相手の時間や感情を支配し、
望む行動へと誘導する。
DVの目的も、コピーの目的も、
極端に言ってしまえばどちらも「支配」です。
違うのは、それを無意識でやっているか、
技術として自覚的に使っているかだけ。
そう考えると、
わかっていて使う方が、むしろ残酷なのではないか――
そんなふうに感じるようになりました。
私はいま、
コピーやタイトルを見るときの“避ける基準”を
ひとつ持っています。
感情を乱暴に揺さぶってくるもの
強い言葉で不安や怒りを煽ってくるもの
「今のままではダメだ」と急かしてくるもの
こういうものを見かけたら、
それだけでそっと距離を置きます。
「感情を動かして強引に動かそうとしている」
と感じた瞬間に、
その情報は私の中で“避けるべきもの”になります。
情報過多の現代では、
これは私にとってとても便利なフィルターです。
逆に、何度も読みたくなるものは、
それだけで「選ぶ基準」になってくれます。
ただ、この基準は
どうやら多くの人には当てはまらないようで、
だからこそ“煽るコピー”が
今も生き残っているのだとも思います。
問題は、私自身も長いあいだ、
コピーライティングの側にいたということでした。
結果を出さなければならないビジネスの中で、
感情を揺さぶる言葉、
注意を引くためのフレーズを学び、
実際に使ってきた時期があります。
向いていないことを、
休みなく全力で続けていたようなものかもしれません。
結果を出さなければならない焦り
強い言葉に寄せようとする自分
どこかで感じている違和感
その全部を抱えたまま走り続けて、
最後は燃え尽きたような感覚だけが残りました。
不思議なことに、
読み手として不快なコピーを避けるために
積み上げてきた感覚が、
いつの間にか 「自分が二度と使わないための基準」
にもなっていました。
不快なコピーを避けるために磨いてきた感覚が、
いつの間にか「自分が書かないための憲法」になっていた。
そう気づいたとき、
私はビジネスとしてのコピーライティングから降りよう、
と思いました。
「何かを売るため」に言葉を使うのではなく、
「自分と世界との距離を整えるため」に言葉を使いたい。
そう感じるようになったからです。
こうした手法を使っている人たちも、おそらく多くは「結果を出さなければいけない」というプレッシャーの中にいるのだと思います。自分を守るために身につけた技術が、いつの間にか誰かを追い詰める形で使われてしまうこともあるのでしょう。
もちろん、こうした手法を否定したいわけではありません。
ただ、いまの自分は「そこから少し距離を置いて生きたい」と思った、というだけの話です。
私は今後、何かを販売したり、注目を集めて広告収益を得るようなビジネスは、一切やらないと決めました。
これは、20年以上、寝ても覚めても「どうやったら売れるか」ばかり考えてきた自分にとっては、かなり大きな決断です。コピーや仕組みのテクニックにばかり走り、それでも上手くいかないと、さらに強い手法を探す──そんなことを、ずっと続けてきました。
時間をかけて分かったのは、向いていないことを全力で続けるのは、ただ自分をすり減らしていくだけだということです。どれだけ努力しても、心も体も疲弊していくばかりで、手応えはほとんど残らない。
逆に、不思議なことに、向いていることは少しの努力でも「これなら続けられるかもしれない」という感覚や、小さな効果を実感できる場面が増えていきます。FXに向き合うときの感覚も、どちらかといえばこちらに近いものです。
だからこそ今は、「売るための努力」から一度降りて、向いていない頑張りではなく、自分にとって自然な形で続けられることに時間を使いたいと思うようになりました。
このサイトでも、
販売しない
勧誘しない
広告収益化もしない
とルールを決めています。
そのうえで、言葉の使い方も
改めて選び直しました。
ほとんどのサイトや、ビジネスのために作ってきた発信は、少しずつ手放していくつもりです。それでも、このサイトだけは残して育ててみようと思いました。
理由はいくつかありますが、いちばん大きいのは、ここでは「結果」を求めなくていいからです。アクセス数や売上ではなく、自分が何を感じ、どう考えたかという痕跡だけを置いておけばいい場所が、ひとつは欲しかったのだと思います。
もうひとつは、過去の小さな物語やメモを読み返したときに、自分自身が少しだけ楽になったり、「あのとき、こんなふうに考えていたのか」と確かめられる感覚があったからです。誰かの役に立つかどうかは分からなくても、自分にとっては残しておきたい言葉がある。それなら、そのための棚をひとつだけ残してもいいだろう、と。
20年以上、「どうやったら売れるか」を考え続けてきた流れからすると、ビジネス抜きでサイトを続けるのは、ある意味で自分にとっての実験でもあります。結果を追いかけるためではなく、自分と向き合うために残しておく場所として、このサイトを選びました。
これからは、こういう書き方を目指します。
誰かを煽るためではなく、整えるために書く
不安や恐怖を大きくする言葉は使わない
誰かを悪者にしてスッキリさせる構図を作らない
絶望で終わらず、小さくても希望で終わる
ミスチルの歌詞に、
何度も繰り返し聴きたくなるものが多いのは、
「日常」と「絶望」と「希望」が
丁寧に編み込まれているからだと感じています。
日常の風景の中に、
どうしようもなさや行き詰まりが顔を出し、
それでも最後には
ほんの少しだけ前を向ける視点が差し込まれる。
文章でも、
そんな流れを大切にしていきたいと思っています。
日常の一場面
そこで感じたモヤや疲れ
一歩引いて眺めたときの気づき
そして、明日を少しだけマシにする視点
ドラマチックな大逆転ではなくてもいい。
ただ、「読んだあとに、ほんの少し呼吸が楽になる」
そんな文章を積み重ねていけたら、それで十分です。
支配する言葉は、いつも声が大きいので、
世界の大半がそうなってしまったように見えることがあります。
でも、その外側に、
静かに距離をとって生きている人たちも、
ちゃんといます。
このサイトは、
そういう場所のひとつでありたいと思っています。
煽る言葉ではなく、
整えるための言葉を選ぶこと。
誰かの時間を支配するためではなく、
自分の時間と心を守るために書くこと。
それを、ここで静かに続けていきます。
「正義」や「断定する言葉」とどう付き合うかについては、別のメモ「『われこそは正義』という言葉から距離をとる」にも少し書いています。
随時更新してまいりますので
よろしくお願い申し上げます