最近観ていたドラマの中で、
「悪魔」が人間に取り引きを持ちかけるシーンがありました。
表では優しい顔をしながら、裏で周到に人を陥れる
自分の利益と引き換えに、相手の大切なものを差し出させる契約を結ぶ
自分を犠牲にして誰かに尽くそうとする心を、嘲笑うように踏みにじる
悪魔=企みそのもの。
そんな構図を見ていて、ふと思いました。
もしかして、現実の世界でも
私たちはもう少し小さなスケールで、同じことをやっているのではないか?
ビジネスでも、政治でも、人間関係でも。
「本音」と「建前」を読み解くゲーム。
誰かを貶めないと、自分の場所を守れないような空気。
それはたしかにスリルがあります。
でも同時に、どこかでこうも感じます。
いつまで私は、こんな“企みの世界”に付き合い続けるのだろう?
まず、言葉を分けておきたいと思います。
計画は、
こうなったらいいな、という目的に向かって
手順やスケジュールを整理すること
誰かをだましたり、踏みにじったりすることは前提ではない
極端にいえば「バレても困らない」
一方で企みは、
表向きと、裏の目的が違う
「なるべく自分だけが得をするために、情報や立場を操作しよう」とする心の動き
ときには、誰かを貶めることさえ、手段として許してしまう
「バレたら困る」ことを前提に組み立てられている
つまり、
計画はバレても大丈夫だが、
企みはバレると困るもの
と言ってもいいのかもしれません。
そしてやっかいなのは、
そもそも自分自身には、最初からバレていることです。
企みの裏側には、だいたいこんな感覚が潜んでいます。
取られる前に、取らなければ損をする
先に仕掛けた人だけが勝てる
正直者はいつもバカを見る
つまり根っこには、
「正直でいると、やられてしまう」という恐怖
があるのだと思います。
誰かに騙された経験。
理不尽に怒られた記憶。
がんばったのに報われなかった悔しさ。
そういうものが積み重なると、
もう二度と、あんな思いはしたくない
という過剰防衛が働きます。
「身を守るための企みだから、仕方ない」と正当化し、
自分で自分をごまかし始める。
「守るための企み」は、短期的には役に立ちます。
損をしないように立ち回れる場面も増えるでしょう。
でも、続けていると、だんだんこんな副作用が出てきます。
いつも「裏」がある前提でしか人を見られなくなる
誰かの優しさに触れても、「何か企みがあるのでは」と疑ってしまう
自分の中にある良心の声を、聞こえないふりをしなければ保てない
企みが成功しても、どこか後味が悪い
開き直ることはできます。
バレなければいい。
みんなやっていることだ。
でも、自分自身からは逃げられません。
自分で自分を振り返ってみても、行動パターンはそう簡単には変えられないものです。
それだけ癖がはっきりしているからこそ、外から見破るのも、実はそこまで難しくはありません。
完全に騙し通すことは、不可能に近いのかもしれません。
しかも、自分が誰かに対して企みを仕掛けるとき、その瞬間から、
「他人も、自分に対して同じように企むことができる」
ということを、自分自身で証明してしまっているのだと思います。
どれだけ「自分はうまくやれている」「バレていない」と思い込んでいても、
・自分より状況を俯瞰して見ている人
・表には出さず、静かに観察している人
が、どこかにいるかもしれない。
つまり、企みを選んだ時点で、
「いつか誰かに見破られるかもしれない」不安を、
心のどこかに抱えたまま生きていくことになります。
一度そのモードに入ってしまうと、
「相手もきっと企んでいるに違いない」という前提で周りを見てしまい、
世界そのものが、だんだん「信じられない場所」に変わっていく。
企みによって守ろうとしていたはずの安心が、
逆に、自分の手からどんどんこぼれ落ちていく――
そこに、この生き方の、もうひとつの重さがある気がしています。
自分がしてほしくないことを他者にする行為は、
どこかで必ず、自分自身に跳ね返ってくる。
どんなに巧妙な企みでも、
外側の誰か、そして内側の「もう一人の自分」には、
とっくにバレているのかもしれません。
企みのいちばん危ういところは、
企んでいる当人ほど「自分の企みが暴かれつつあること」に気づきにくいところかもしれません。
自分の思惑が誰かに見抜かれそうになると、
今度はそれをごまかすための「新しい企み」を重ねてしまう。
先に相手を「悪人」に仕立て上げておけば、
自分の企みは疑われにくいだろう、と考える
都合の悪い事実は切り取って伝え、
自分に有利なストーリーで周囲を納得させようとする
一時的には、それで場を乗り切れたように見えるかもしれません。
けれど、その構図そのものが、
すでに周囲には薄々透けて見えていることも少なくありません。
そして何よりも、
「バレそうになった企み」を守るために
さらに企みを重ねていくうちに、
自分自身でも、どこからが本心で
どこからが防御なのか分からなくなっていく
というところに、深い危うさがあります。
進化の本を読んでいると、捕食者と獲物が「騙す側」と「見破る側」として、延々といたちごっこを続ける、という説明が出てきます。
片方がカムフラージュや擬態などの「だます技」を発達させれば、もう片方はそれを見抜く「目」やパターン認識の力を鍛えざるを得なくなる。
その結果、どちらも生き残るために、終わりのない「化かし合いのレース」を続けることになる――いわゆる、進化の“軍拡競争”です。
もしかすると、こうした「騙す」と「見抜く」のせめぎ合いも、自然界の進化にとっては、必要な側面があったのかもしれません。
お互いに相手を出し抜こうとする力学そのものが、結果として、身体能力や感覚の精度を高めてきた、という見方もできるからです。
ただ、人間社会の「企み」は、そこで終わりません。
生き残りのためだけでなく、
・誰かを貶める
・自分だけ得をしようとする
といった方向に、いくらでも暴走してしまう。
その時、私たちは「進化に役立つ競争」をしているのではなく、
自分で自分の心をすり減らしていくレースに、知らないうちに足を踏み入れてしまっているのかもしれません。
気がついたときには、
本当はどう感じていたのか
何を守りたかったのか
どの選択が自分にとって誠実だったのか
その原点を、思い出すことさえ難しくなってしまう。
終わりのない防衛戦に、人生のエネルギーを取られてしまう。
これが、企みに頼り続けることの、本当の怖さなのかもしれません。
他人の企みは、たいていよく見えます。
問題は、自分の中にある小さな企みに気づきにくいこと。
こんな問いかけをしてみると、
自分の企みが少し見えやすくなるかもしれません。
もし「絶対にバレない」と確信できたら、私は何をする?
この行動は、本当に相手のため?
それとも「いい人」だと思われたいだけ?
逆の立場だったとしたら、私はどう感じるだろう?
ここで大切なのは、
自分を責めるために暴くのではなく
「ああ、ここにも企みがあったんだな」と認めるために暴く
というスタンスでいることです。
企みが顔を出すたびに、
やっぱり私はダメだ
とジャッジしてしまうと、
その自己嫌悪を隠すための、新しい企みが生まれてしまいます。
じゃあ、「企まない」とは、どういう状態なのか。
私なりに言葉にするなら、それは派手な自己犠牲でも、自己啓発的な「与える人になろう」でもなくて、もっとささやかな、
・相手がそれを望んでいることを前提に
・自分がされて嬉しいと感じるようなことを
・できる範囲で、無理のない形でそっと差し出してみる
といった、小さな動きなのかもしれません。
その土台には、
「自分がしてほしくないことは、なるべく他者にしない」
という、ごくシンプルな感覚がある。
ただ同時に、「自分が嬉しいこと=相手も嬉しいこと」とは限らないからこそ、ちゃんと様子を見たり、言葉を交わしたりしながら、少しずつ調整していく必要もあります。
そうやって、お互いの違いを尊重しつつ、
「お互い、なるべく企まなくて済む距離感」を探っていくこと。
それが、企みのレースから少しずつ降りていくための、
とても地味で、でも確かな一歩なのだと思います。
そうやって、一つひとつ選び直していく態度にこそ、
企みの反対側にある静かな誠実さが、少しずつ宿っていくのかもしれません。
自分が企むとき、
それは同時に
「誰かもまた、同じように企むことができる世界」
を証明してしまっています。
逆に、
自分が少し優しくなるとき
自分が少し正直であろうとするとき
それもまた、
「誰かもまた、優しくなれる/正直でいられる世界」
の可能性を、静かに証明しているのだと思います。
企みの反対側には、
派手な正義感ではなく、
地味な誠実さのようなものがあるのかもしれません。
では、いつ「企みが必要なくなる時」が来るのか。
私なりの仮説としては、
次の3つが少しずつ整ってきたときだと感じています。
1. 「負けても即死しない土台」があるとき
たとえ誰かに少し利用されても、
ひとつの失敗で人生が終わるわけではないと、どこかで分かっている。
「すべてを守らなきゃ」ではなく
「多少の損なら、あとから立て直せる」と思える。
“絶対に負けられない”と思うほど、
私たちは企みに頼りたくなります。
逆に、
多少の損は、学び代として受け取ってもいい
と思えるようになるほど、
企みにエネルギーを注ぐ必要は減っていきます。
2. 境界線と信頼が、少しずつ育っているとき
企みを手放すのは、「すべてを許して流される」という意味ではありません。
ここから先は、私の領域
ここから先は、相手の選択
という境界線を引きつつ、
何でも共有しなくてもいい
すべての人とわかり合う必要はない
と認められるようになると、
「支配するための企み」も
「支配されないための企み」も
少しずつ力を失っていきます。
3. 目的が「勝つこと」から「整合性」に変わるとき
企みのゴールは、だいたい
どうやったら“相手より得”を取れるか
です。
でも、ある時から少しずつ、
ゴールがこんなふうに変わっていく瞬間があります。
今日の自分の言動は、
自分が大切にしたいものとズレていないだろうか?
損得よりも、
「自分の中で辻褄が合っているか」を基準にする。
たとえ短期的には損をしたとしても、
「今日は企みに頼まなかった」と思える自分でいたい。
その感覚が育ってくるとき、
企みは“必要な武器”ではなく、“もう手放してもいい古い道具”
になっていくのかもしれません。
ここまで書いておきながら、
「企みを完全になくす」ことがゴールだとは、私は思っていません。
疲れているとき
追い詰められているとき
大切な誰かを守りたいとき
どうしても、
頭の片すみに「小さな企み」が顔を出す瞬間はあります。
大切なのは、
企みが浮かんだ自分を頭ごなしに否定するのではなく、
「それくらい守りたかったんだな」と気づくこと
そして、そのうえで、
今回は企みに従うのか?
それとも、少し勇気を出して、別の選択をしてみるのか?
を、自分で選び直していくこと。
悪魔のように、
誰かを貶め、利用し、取引と契約で縛りつける企みは、
ドラマの中だけで十分なのかもしれません。
現実の世界では、もう少しだけ静かで、あたたかくていい。
すべてを見抜こうとしない勇気
だまされる可能性ごと受け入れる余裕
それでも、自分の大切にしたいあり方から大きく外れないこと
そんな小さな選択を、
一日一日積み重ねていった先に、
「企みに頼らなくても、なんとかやっていける世界」
が、少しずつ形になってくるのかもしれません。
もちろん、ここに書いたことも、
今の時点でのひとつの仮説です。
これからまた、自分の中の“企む心”に気づくたびに、
何度でも書き換えていきたいと思っています。