愛と閑話

 S・H

 さびしい人だ、と思った。

 それが私の、彼女に抱いた最初の印象だった。彼女はフロアにむせ返る人の波から遠く、切り離された余白のような、バーに備えられたテーブルとチェアの群れにひとり、身を据えていた。地味な人であった。恰好はベージュのセーターにジーンズであったし(いかにも人付き合いで来た様子に見える)、黒髪も切りっぱなしのようで、顔立ちも遠目ではっきりとしない程度には薄い。しかし、ぼうっと煙草を指に添え、そのふっくらとした下唇が吸い口を落とし込む様(さま)はありありと、私の胸に吐き気にも似た高揚を昇らせた。つまらなく言えば魅惑的で、官能的であった。

「こんばんは、いい夜ですね」

 私は彼女にそう切り出すために、人の寄せては返す、まるで海にも似たフロアをかき分けていった。少しずつ、もがいて、彼女が腰を下ろす陸地へと――。天井からは、赤、青、ネオンの溢れる極彩色がふんだんに射し込み、混ざり、散る。フロアが海であるなら、さながら雲間から覗く光明であるが、にしてはあまり眩(まばゆ)すぎる。

「おひとりですか?」

 彼女は私に顔を向けると、少し馬鹿にした調子で笑った。

「ひとりでこんなところ来ないわ。連れがいるの」

「つまらなそうだ」

「それは合ってる」

 そう言い、煙草を再び口に戻す。一重の薄いまぶたがひとつ、まばたきをした後で、伏し目がちに余所へ視線を遣った。その所作のいずれもが悲しい美しさを含んでいた。不思議と目を惹く女だった。遠目での感じに違わず、彼女にはとりたてて水際立ったものがない。しかし彼女の指のひと振り一振り、視線の運びとそれに伴う瞳の遣(つか)い方、そういったふるまいの内に、形容のし難い芳醇なエッセンスを秘めるのだった。

 私は彼女の向かいに腰を下ろした。彼女は煙草をひと吹きし、千々に乱れていく煙の行く先を眺めながら、そっと呟いた。

「変な人ね、あんた」

 それ以上、その日何を言うこともなかった彼女は、名前をフミという。

 フミさんは、私よりいくつか歳上らしかった。たいてい彼女は無口であるので、会うときには私ばかりが喋った。あの夜――私と彼女が、騒がしいダンスフロアの中で出会った――以降、フミさんと私の関係は成り立っていた。主に、私のアプローチによって。

 私は店の奥を眺めるふりをして、フミさんの、窓に移り込んだ彼女の像を盗み見ていた。日差しに掠れ掠れとなっていながら、時折彼女自身がその身を窓ガラスに預けることで、ありありと鮮明に、像は現れる。俯きがちの頭も、憂いを漂わせる瞳も、メニューをめくる指先も、全てがそこにある。健全な眩しさが私たちを貫いた。

「煙草、いい?」

 カフェの店員に注文を終えた後で、フミさんは私に聞いた。頷くと間もなく彼女は懐から煙草の箱を掴み、優雅に摘んだ一本へライターの火を寄せた。

「フミさん、最近は何されていたんです」

「これといったことないわよ」

 小さく吐いた息に、多分の煙が混じっている。

「大してないわよ」

「へえ」

「聞いといて温(ぬる)い答えね」

 彼女は言い、澄んだ顔つきを依然保ちながら、再度煙草に口づけた。

 彼女は洗練されていた。彼女をとり囲む雰囲気は佇んでいた。化粧の気配のない顔に、涼しい陰が落ちた。睫毛の、その細やかな型の通りに、彼女の目元を彩る陰――気づかないうちに私の目は窓辺の底の彼女から離れていた。彼女の生肌に、視線を滑らせていた。

 フミさんと目が合う。煙草を弱弱しく咥えたまま、苦みを簡単に呑み干して。

 そこに、トレーを持った店員がやって来た。フミさんの前にコーヒーを、私にコーヒーフロートを置き、薄い紙質の伝票がテーブルの隅に伏せられた。伝票には、ブルーブラックのインキが滲んでいた。所々にコーヒーのしみがあるのを見つけた。

 フミさんはカップを持ち上げ、小さく息を吹きかけた。

 私はフミさんを見つめながら、浮かぶアイスクリームをつついた。

「フミさん、この後は映画を観ませんか」

 そよぐ水面(みなも)に目を落としていた彼女が、視線をそのままに、簡潔に言う。

「きみのしたいことでいいわ」

 そうして、唇をカップに添える。カップの縁は花弁のように弧が連なり、まるで彼女は花に顔をうずめているようであった。

 近くにリバイバル上映をしている、小さなシアターがあった。私とフミさんはカフェを出ると揃って緩やかな歩幅で歩きだした。彼女は日傘を差した。強い日差しが私を染めてかかる一方で、フミさんは濃く青い陰に身を包んだ。空の青さが、ぼったりと落ちてきたかのような青だった。陰の下でフミさんの唇は真っ直ぐ結ばれていた。私が口を閉じると、熱のこもった風、過ぎ去る車、下りる踏切、それらの音だけが辺りに漂った。

 シアターに着き、ちょうど間もなく上映だというフランス映画のチケットを買って、ふたりは館内に入った。小さい箱の中は先客が一人か二人いるだけであり、私と彼女は彼らの後方に並んで座った。フミさんは日傘の留め具をはめ、それを足元へ置いた。

「今日の、観たことありますか」

「昔にね」

 いい映画よ、とそれから続けた。フミさんが返答以上の言葉を足すことは珍しく、私は少し面食らった。

「じゃ、楽しみです」

「きみ、単純ね。ほんと」

 フミさんは顔色を変えず言った。

 映画は確かによかった。昔に流行った映画らしかった。家具の鮮やかな色の相関や、女優の深い黒の瞳や、フランス語のくすぐるような発音が、常に画面を華やがした。私は女優を見ていた。その女はあまり多くを喋らなかったが、浮かべる笑み一つ、唇に立てる指一本で、多くの情感を含むような演技をした。女は、周りを誘導していく。他人を幸せにすることを試していく。そうしてやがて、女自身にも幸せがやって来る――女は終幕に、その男(しあわせ)へ、キスを落とす。額に、こめかみに、まぶたに。言葉を介さないそのシーンは、ゆったりとした時間を以て描かれた。女が唇を離し、それから場所を変え再び口づけをしていく様は美しくあった。

 フミさんは映画の間、ジッとスクリーンを見つめていた。私は上映中、時折彼女を盗み見たが、いつもであれば気づきそうな私の視線運びを彼女が気取ることはなかった。というのは、終演後にひと言すら言われもしなかったのだった。フミさんへ対する私の態度を、たいてい咎めてばかりの彼女が。

フミさんは見入っていた。銀幕に跳ね返る光が、フミさんの瞳をきらめかせているのを、私は発見した。黒い横髪を耳に寄せた彼女は分かりやすい。表情を見るのが容易いのだから。フミさんは映画を観ているようで、その実、重ねた何かを見つめているのではないかと思い至ったのは、彼女の瞳のきらめきを見た瞬間だった。

 フミさんとの付き合いも長くなった。相も変わらず私が誘いを持ちかけ、フミさんはそれに身を任せる仲でいた。彼女を様々な場所へ連れだした。サンドイッチ屋、文学館、チューリップ園、遊園地。初めの頃のように映画館など……私の横を、フミさんはついてきた。たまに、彼女が会話を切り出すことがあった。私たちは互いのことをある程度理解して、ある程度、懐(ふところ)の温もりを分かち合った。つまりは、仲の深い間柄のように、私たちはあり始めた。

 私は分かりやすくなった。彼女に対し、易々と愛を吐いた。彼女はそれを何ということもなく受け取った。受け入れとも、拒むとも違う、関係の変わらぬふるまいだった。けれど、時に私がねだって伸ばした腕を、彼女が掴むこともあった。細い指が、私の手首を滑り、私の腕に透けた血管を滑り、やがて彼女は絡みつくと、ジッと動かなくなった。まるで私に身を預けるような、甘やかしを求めている風でいて、その実こちらが手を伸ばせばあっという間に抜け出していってしまうのだった。

「フミさん、好き」

 私の言葉を、フミさんは黙ったままからだに浴びた。

「フミさんのこと、好きだよ」

 言えば言うほど、味が滲み出してくると信じるかのように、私が繰り返す言葉をフミさんは聞いていた。鋭さを帯びた切れ長の両目が私を貫いた。否定も肯定もなかった。フミさんは只そこにいた。

 寄せた唇を、拒むことさえしなかった。

 距離を詰めた私を、やはり同じように、どこか冷たさを思わせるほどの眼差しをそのままに見つめ、鼻先が擦れ合っても尚見つめ、私がくっつけた唇を離してからもずっと、その視線を揺るがさなかった。

「どうしてです」

 私は聞いた。

「どうして私に好き勝手させるんです」

 言いながら、フミさんの唇をハンカチで拭う。彼女の代わり、のように。殆ど力をこめない指先で紅が添えられていないそこを拭っても、何も変わりやしない。いつまでも、私が自らの気を紛らわせているだけだった。

「きみのしたいこと、したらいいでしょう」

 フミさんはそう言った。答えは簡潔で、極めて平生通りだった。変わったところなどなかった。

ふと私は、フミさんはそこにいて、いないかのようだ、と思った。心だけが切り取られ、どこかに放られたかのように、途端フミさんが抜け殻のように思われた。フミさん、と言う。フミさんは何も言わない。フミさん、ともう一度。やはり、何も言わない。

 私たちはからだを重ねることこそなかったが、最後に会った日――もっと言うのであれば、その日があって最後にした――私は、彼女のやわらかい部分を知る機会があった。まるではだかのような、彼女そのもの、と言うような。彼女の頬は上気して、人間らしい、うるうるとした艶を持っていた。

「好きな男がいるの」

 彼女は言った。男、という生ぐさい響きが、彼女の口から降ってくることに、私は新鮮な心地を覚えた。

「きみと初めて出会ったクラブに、私を連れてきた男よ。私、彼に呼ばれて行くつもり。彼がやっと私を見たから」

 男について語る彼女は、生き生きとうら若く見え、どこにでもいるような女に見えた。彼女は二言三言、男について喋った後、私に言った。

「きみ、どうする」

「どうするって」

「きみは何て言う」

 何を求められているもなかったかもしれない。彼女は私と会うときの、あの涼しげな、突き詰めたところまで変わることのない無表情を以て、私を見つめていた。先ほどまでの「女」の消え失せた、私の知る、彼女の顔だった。

 言われて私は考えたが、大した言葉は浮かんでこなかった。

「いいんじゃあないですか」

 私は最後に、そうと言った。

 フミさんは私の答えを聞き、しばらく口を結んだままでいた。その間は、返事をじっくりと味わうかのように見え、はたまた何も思ってやいないかのようにも見えた。彼女はジッとした後で、やがて唇を動かした。

「そう、そうね」

 それから、フミさんは花のように笑った。