現在残っている干拓の歴史を伝える堤防や石垣・樋門等の現状を探していきます。多くの旧堤防は道路として現在も使用されています。開ごとに徐々に増やしていきます。
干拓で新しくできた土地を 開(ひらき)といいます。地元の人は開を略していますが、大開だけは略していません。
「現在の旧堤防」No33まで作成
現在残っている干拓の歴史を伝える堤防や石垣・樋門等の現状を探していきます。多くの旧堤防は道路として現在も使用されています。開ごとに徐々に増やしていきます。
干拓で新しくできた土地を 開(ひらき)といいます。地元の人は開を略していますが、大開だけは略していません。
No1 神崎 No2 六番 No3 九番 No4 明丑 No5 明辰 No6 烏帽子 No7 十番 No8 明辰開尻 No9 官築新地 No10 富新 No11 七番と大開 No12 六枚戸 No13 五番 No14 石塘樋門群 No15 末広 No16 明豊 No17 大豊 No18 有明 No19 八番 No20 四番と川浚料 No21 一番 No22 二番 No23 三番 No24 富田 No25 鯨油 No26 一夜 No27 葭場 No28 芝原 No29 大井樋尻 No30 御内家 No31 河添新地 No32 築添小開 No33 下久々
作成No33
しもひさびさ?
下久々開堤防 明治9年 1876 地図番号50 長さ260m
対岸から下久々開唐人川堤防
下久々開唐人川堤防北端から対岸
対岸の堤防には行けませんでした。2本の簡易橋がありますが、細くて左右に揺れて落ちそうなのでやめました。どちら側の堤防も上部に道はありません。
作成No32
ちくぞえこびらき
築添小開堤防 弘化2年 1845 地図番号15 長さ340m
作成No31
かわぞえしんち
河添新地開堤防 明治9年 1876 地図番号51 長さ285m
金比羅橋付近の唐人川堤防
干潮時の唐人川堤防 国道より下流
国道より上流の唐人川堤防
作成No30
みうちけ?
御内家開堤防 寛永年間 1633~1637 地図番号1 長さ1790m
現在は無くなっている部分(ピンク)
上の地図 左の〇
上の地図 右の〇
左の〇 Google Map ストリートビューに古石が写っています。長い石もあります。現在はありません。民家はリフォームされています。
作成No29
おおいびじり
大井樋尻開堤防 明和6年 1769 地図番号4 長さ740m
芝原東堤防と大井樋尻西堤防は、古地図ではつながっていて直線です。(No 28 芝原開の古地図)
外嶋宮汐見神社
松原天満宮
作成No28
しばはら
芝原開堤防 安政4年 1857 地図番号8 長さ580m
国道との交差付近は、新堤防が造られ、県道も盛り土されていて旧堤防のなごりはありません。
国道下のトンネルの道は国道ができる以前から普通の道で、直線で、ここが旧堤防でしょう。自転車で通学していました。もっと高かったような記憶。
1900-1901の古地図
カモの大集団 追いかけていったら菊池川河口を過ぎて、大浜漁港の外まで飛びました。
作成No27
あしば
葭場開堤防 享和2年 1802 地図番号5 長さ980m
南西堤防(勝手に名付けた)の道沿いにやや長い石が多い 堤防だった石?
No9の官築新地にも載せています。石の構造物。道のバイクと比べてでかいです。
道路の反対側に水路があります。
推測ですが、明辰川からの農業用水取入れ樋門でしょうか。堤防の外だから、堤防は橋?あるいはトンネル?
1900-1901年地図 石の樋門がある堤防の内側の水路はここから始まっているようです。ここの水田には左に水路があるので、この水田には必要はないでしょう。鯨油開に供給する水の取り入れ口ではないでしょうか。
作成No26
いちや
一夜開堤防 文政6年 1823 地図番号6 長さ1040m
1900-9001年古地図に、今はない東堤防が描かれています。ガソリンスタンドとコンビニの間付近に道路として一部残っています。また、北堤防は堤防じゃなく道で記載されています。
現在の菊池川堤防の外 菊池川海岸 松並木の富田堤防がみえます。背後の新大浜橋の下に船着き場があります。
作成No25
くじらゆ
鯨油開堤防 天保2年 1831 地図番号7 長さ1570m
カーブミラー下の西堤防石垣の道路の内側で水路の整備が行われています。
草におおわれた外側の石垣とは関係ない工事とおもわれます。
ファミリーマート横 明辰川樋門
大浜排水機場
排水池は金網フェンスで囲まれています。屋根にマフラー モーターじゃなくディーゼルなんですか? 停電しても使えるほうがいい スマフォのカメラだけフェンスに入れて撮影
この道路の下に排水管が設置されています。左の建物が排水機場
明辰川堤防はそのまま国道に使われています。豪雨の時はファミマの背後は水浸しになります。国道はかろうじて水没しないギリギリです。大浜排水機運営の担当者のおかげです。
作成No24
とみた
富田開堤防 明治33年 1900 地図番号44 長さ1000m
菊池川堤防は松の並木がきれいな堤防です。富田開の築造者3名の名が富田。
南堤防の外側は石垣です。住宅の裏は石垣がみえますが、残り半分は薮におおわれています。
南堤防の内側はコンクリートです。堤防は四輪通れますが、樹木の枝がボディをこすります。
小さな石の樋門です。海への排水ではなく、水路の調整用でしょう。現在の水路にあり、現役の雰囲気があります。
看板に玉名市漁港(富田開泊地)小さな漁港です。台風のときは一番安全な港のようです。すぐ近くに大浜漁協の事務所があります。
11月下旬 港の外の菊池川はカモだらけ。
作成No23
さんばん
三番開堤防 文化6年 1809 地図番号11 長さ550m
三番開堤防は南堤防だけです。短い堤防ですが、直線540mあります。歩道もあり整備されていて新しい道路になっていますが、古い道です。
作成No22
にばん
二番開堤防 文化5年 1808 地図番号10 長さ1590m
馬頭観音堂
観音堂の土台は石垣 比較的新しい石垣
住宅の土台の石垣が古そう
旧堤防のままの石垣でしょう。反対側はコンクリートです。観音堂から東の交差点
この場所です。
道路にこんなのがありました。裏側は見ていません。花崗岩
大量の長い石が畑の周りにあります。
ここも昔、樋門があったとしてもおかしくない場所です。
馬場木材から南へ下った場所にあります。
写真は古地図にもある昔からの道と水路です。ひょっとして西堤防はこっちかもしれません。
北堤防の残っている部分 国道の横
作成No21
いちばん
一番開堤防 文化4年 1807 地図番号9 長さ1510m
1974-78の古地図 赤丸が北堤防起点 「今昔マップ on the web」より
作成No20
よんばん
四番開堤防 文政10年 1827 地図番号12 長さ600m
四番西堤防は今ありません。
八番九番の交差点で、堤防はやや折れ曲がっています。
昭和ですが、交差点付近に映画館がありました。
四番開と川浚開は同じ年です。四番開のなくなった堤防をピンクで表示していますが、四番南堤防はもともと無かったとおもわれます。西と東の堤防の位置と形からみて四番開と川浚料開は同一開のようです。
四番東堤防と二番南堤防のT字路にみえる四番東堤防の石垣
東堤防は道路です。北方向。石垣はみあたりません。水路の左は用水、右は排水
中央を縦に流れる用水路は自然なカーブで曲がって九番に流れる。堤防の曲がりも自然なカーブが特徴的な川浚料開です。
水路の曲がり付近にたくさんの石。旧堤防の再利用の石かどうかはわかりません。普通の石垣の2倍以上長い石もあります。この付近に海への排水樋門があったとしてもおかしくありません。
江戸時代、高瀬は年貢米の出荷港で、菊池川河口付近に大型船が来ていました。高瀬港から河口までは小型舟で運んでいました。菊池川の川底を整える仕事があって、その仕事をするには地元や政府の許可と納税が必要であったらしく、地元の有力者に入る川浚料を使って干拓事業をしたらしいです。(推測です)
作成No19
はちばん
八番開堤防 安政4年 1857 地図番号20 長さ1600m
南堤防内側の石垣 上写真の石垣の近くにあります。奥の石垣はかなり古そうです。
南堤防内側 ここも石垣がみえています。
西堤防外側 堤防全体に鉄板が打ち込んであり、コンクリートです。右端の建物の基礎は石垣ですが新しすぎます。
道路に側溝があれば下までコンクリートで固められています。
南堤防外側 横は農地 雑草でかくれています。道路に側溝はありません。古い石垣だから雑草が生えるんですね。この道路は県道 県で草刈りやってますよね。
南堤防外側 住吉神社の近く ほんのわずかみえます。
作成No18
ありあけ
有明開堤防 大正2年 1913 地図番号45 長さ1020m
新樋門の外側 排水口がみえます。
新樋門と内側の調整池 手前の堤防は有明開南堤防 100年間潮受堤防でした。
有明開の最北から南方向
作成No17
だいほう
大豊開堤防 明治35年 1902 地図番号56 長さ1420m 南堤防は国指定重要文化財
大豊開唐人川堤防 内 金峰山はここからみえる真ん中の二ノ岳が一番高い 岱明中の生徒はゴリラ山って言ってました。
大豊開唐人川堤防 外 2022年ころに唐人川から海水漏れがあり修復工事がおこなわれました。google map ストリートビューはそのころでしょう。
作成No16
めいほう
明豊開堤防 明治26年 1893 地図番号55 長さ2780m 南堤防は国指定重要文化財
西堤防の道路 当時の堤防より低くなっています。
明豊開樋門は閉鎖されています。水があった内側に水はなく、樋門の下部は土砂で埋まっています。
外側はコンクリートで固められています。自然石が貼ってあります。
南堤防外の新栄へ排水
横島公民館のロビーにある豊明村(とよあけ)の掲示パネル
豊明村は文久3年に大型台風により消滅しました。一部は十番開として復旧しました。明治になって、豊明干拓を開くにあたり開の名を逆にして明豊としました。
明豊のほげ 1961-1964 航空写真 現在全て埋め立てられています。
2025年に残っているほげは明丑の西川ほげだけです。2025年6月には池の半分が埋め立てられました。
作成No15
すえひろ
末広開堤防 明治28年 1895 地図番号43 長さ3650m 南堤防と末広開樋門は国指定重要文化財
二枚戸付近の南堤防 内
昭和2年の潮害で決壊した北堤防
湾曲している部分の北堤防 この辺りが決壊では
二枚戸 内 手前の草で覆われた金網石フェンスは樋門保護でしょうか
六枚戸からみえる小さな樋門と明辰川堤防 外
小さな樋門の内側 両側は石積み こちらも手前に石フェンス
2025年も表示している google map ストリートビュー 2013年以前の末広開西堤防最北と有明排水樋門改修
2025年の末広開西堤防最北
作成No14 特別枠
いしどもひもん
石塘樋門群 慶長10年 1605 後改修 玉名市登録遺跡
玉名市干拓遺産関連施設調査報告書より 平成23(2011)年3月 玉名市教育委員会
まぶはトンネルの水路で天保年間(1831-1845)
岩井樋溝は嘉永6年1853(ペリー来航)
まぶのある水路と岩井樋溝は別水路です。送る地域が異なります。
真石井樋が天保11年1840に築かれたとあります。真石井樋の前は板井樋でした。
まぶのある水路が真石井樋でしょうか あるいは樋門でしょうか
天保14年の高潮被害時には2基の樋門が存在していました。
新井樋と新内井樋は昭和23年に改修されています。
新石塘樋門は昭和53年3月に建造されました。
本井樋は平成10年に改修されています。
新井樋と新内井樋は平成21年に海側が閉鎖されました。
今昔マップon the webより 新井樋の橋が石塘橋 本井樋の橋が丹津橋(平成10年以降に撤去) 2008年は新井樋が閉鎖される直前の写真ですね
六枚井樋と越堰(せぎ でしょうか こえぜき でしょうか) 六枚井樋は農業用水の量を調整する役目 越堰は水が多いときオーバーフローさせる役目 越堰から奥のコンクリートが壊れて危険な状態で、立入禁止です。六枚井樋のコンクリート下の橋脚は石柱です。越堰土台の石垣にはすき間埋めのコンクリートがあります。越堰の上のテーブルと柱はコンクリートです。テーブルの役目は何でしょうか? テーブルは柱の補強で、柱の向きが水を右側へ誘導でしょう。1本の幅は狭いが6本は広い。
「石塘橋」
「いしどもはし」
新しい石柱で 「大正十年九月架設」
「たん志んはし」 「丹津橋」 「昭和四年十一月」 の3本の親柱 通常橋名の橋は濁点ではありません。川の水が濁らないようにと願いをこめて書かれてあります。
袖柱ともう一本の親柱もあります。新石橋樋門の横にあります。コンテナの中にはイバラのでかいトゲのつるの下にレンガが2つ入れてあります。
作成No13
ごばん
五番開 弘化2年 1845 地図番号14 長さ1120m
google mapより 赤ラインより右が五番開東堤防 築添小開と五番開は同年に開かれています。河添新地は明治9年です。
五番開の堤防は道路として残っています。堤防だった今の道路に石垣はみつかりませんでした。道路の側面はコンクリートです。
金比羅橋は昭和14年に開閉橋が架けられました。その前は明治8年ころより渡し舟が65年間ありました。
作成No12 特別枠
すえひろ ろくまいど
末広開樋門(六枚戸) 西三枚戸樋門と東三枚戸樋門 明治28年 1895 国指定重要文化財
横島の明丑開は明治26年 明丑開堤防との接合部
明丑側三枚戸 南から 全部自然石 沈下していません
明丑側三枚戸 真ん中の門
明丑側三枚戸 南門を上流から
明丑側三枚戸 南門を下流から
明丑側三枚戸 南門と北門の間から北門 北門に招き戸の金具
末広側三枚戸 上から 門のおさえの部分はコンクリート
末広側三枚戸 門柱もコンクリート
昭和2年のコンクリート 海と閉ざされて久しくなりますが、魚貝類の生ぐさい海のにおいがします。なんで?
階段は全部同じ素材の石ですね 潮害後に補強されたとおもわれる石積みのすき間のコンクリートも全部同じですね
三枚戸と三枚戸の中央にある石垣
石垣にひび割れがみられます。
上から6段の石の高さが下の石より高い 階段もそのあたりから上は急になっています。
末広側の西三枚戸樋門は昭和2年の潮害で崩れ修復されています。六枚戸全体も改良されています。 近代干拓技術の足跡を見せる「旧玉名干拓施設」 建設コンサルタンツ協会ホームページ
作成No11
しちばんびらき おおびらき
七番開と大開 嘉永6年 1853 地図番号17と18 長さ4230m
七番開と大開は同じ開です。領主で分け合いました。
小天受免田旧渡し場
対岸は二番樋旧渡し場
明治21年ころより昭和35年9月まで 大開二番樋―小天受免開 間の渡し舟がありました。なぜ渡し場に田が付くのか調べてみます。
コンクリート内部の当時の石垣がみえます。この石積みは明治ですね。
大開樋門付近を二番井樋といいます。今でもここを二番井樋という人が多いです。
二番井樋から200m上流に一番井樋がありましたが、文久3年(1893)の潮害で決壊し、再築されませんでした。坂道に説明板があります。
大開の最も北にある舟着き場
唐人川樋門も舟着き場です。
google map ストリートビュー
唐人川防潮樋門は昭和54年(1979)建造です。
西堤防の石垣は潮害後復興の新しい石垣のようです。ここに平積みの古い石垣があります。北T字路からひと区画南 橋の横です。また、下部には補強されたようなコンクリートブロックがほぼ全西堤防にあります。
唐人川と大開堤防
小天側の堤防の上の同じ場所から
上流方向と対岸の大開堤防
正面の船の残骸付近から堤防の右上部は石垣です。
横島堤防も天水堤防も堤防上に道路はありません。
水は主に尾田の丸池の湧き水。両側堤防を整備して、ボート競技とか船漕ぎ競技イベントとかやってはどうでしょうか。
作成No10
とみしん
富新開 明治25年 1892 地図番号53 長さ1270m
南堤防の森
山以外でこんな樹木のトンネル初めて
誰も歩かないらしく足がしずむ
富新にもほげがありました。平成6年の地図
大正3年の潮害でできた沼 明丑の堤防決壊でおしよせた海水が富新の堤防も破壊してほげた(「ほげた」は横島弁 くぼんだ 掘られた の意味)現在は埋め立てられて農地になっています。 水色の線が旧堤防 2002年の地図には記載されていません。
1961-1964年の航空写真
五枚戸樋門があった場所
昭和30年頃撤去されました。それまでは富新橋はなく五枚戸の上を歩いて行き来していたそうです。その後木造の富新橋が現在の場所にでき、今のコンクリートの橋に架け替えられました。
樋門の少し下流
ここで馬を洗っていたそうです。
作成No9
かんちく
官築新地(官築開) 延享~天明(江戸中期) 1744~1788 地図番号2 長さ2950m
赤井樋は宝暦8年1758年設置らしい。櫨方(はぜかた)開の排水門。詳細は最も北の開を櫨方開といいます
赤井樋
赤樋と書いてある資料もあります。
両サイドにとび出ている石の間に板をはめ込んで上げ下げの開閉でしょうか
とび出た部分の内側に凸部があります。
井樋(いび)とは 水門や水溝など水を通したり調整するための建造物のことらしいです。 赤井樋の横の道路が旧堤防です。
赤井樋の場所
国道501号のガソリンスタンドの裏
赤井樋は眉山崩壊の大津波を体験したようです
線をひいてみただけです。
大浜の生産者集荷場の近くでこんなもの見つけました。 ご存じの方おられますか ネットではわかりません
作成No8
めいしんびらきじり
明辰開尻 明治26年 1893 地図番号42 長さ650m
作成No7
じゅうばん
十番開 慶応2年 1866 (江戸時代最後の開 豊明開の一部) 地図番号23 長さ1720m
西堤防の内側は近年圃場整備が行われ、近くで樋門が見れるようになりました。 それまでは西堤防内側全体がやぶの中でした。
作成No6
えぼし
烏帽子開 明治24年 1891 地図番号41 長さ2920m
烏帽子龍神社跡の石垣 烏帽子開北堤防の起点 内側 神社があった場所 隣接していた住宅がなくなり、見えるようになっています。神社は烏帽子区ふれあい館前に新築移転されています。
15年ぶりに行われた大浜の年紀祭
作成No5
めいしん
明辰開 明治21年 1888 地図番号40 長さ695m
作成No4
めいちゅう
明丑開 明治26年 1893 地図番号54 長さ2420m 明丑南堤防は国指定重要文化財
明丑龍神宮のすぐ近くに住んでおられたのが西川さん
堤防決壊後は熊本市
昨年、西川さんの子孫の方々が明丑の年紀祭に来られました。
明丑のほげ google map より 西川ほげは2025年6月で左半分が埋め立てられました。
2025年8月あたりから明辰川堤防の圃場整備がおこなわれています。左端の六枚戸樋門がみえるようになっています。132年目の現役堤防です。
明辰川堤防の10月中旬時の整備状況です。堤防上部の樹木は伐採されました。側面の石垣の様子がよくみえます。
六枚戸樋門と雲仙
8月10日深夜からの豪雨で 西川ほげが一時的に復活しました
復活した西川ほげ ロードローラーのタイヤがほぼ浸かっています
作成No3
くばん
九番開 安政6年 1859 地図番号22 長さ2180m
作成No2
ろくばん
六番開 弘化2年 1845 地図番号16 長さ720m 嘉永5年 1852 かも
右上の画像 水門用の石垣が2024年までありました。ストリートビューには2025年も映像があります。
北堤防を追加します。現在ありません。集落の端から一番開へつながっていました。
作成No1
かみざき
神崎開 明治8年 1875 地図番号48 長さ1180m