『⽇本書紀』雄略紀
⼆⼗⼆年
秋七⽉
丹波國餘社郡管川⼈瑞江浦嶋⼦
乗⾈⽽釣 遂得⼤⿔
便化爲⼥
於是浦嶋⼦感以爲婦
相逐⼊海 到蓬莱⼭
歴覩仙衆
語在別巻
【現代語訳】
雄略天皇の御代22年(478年)
秋7⽉、
丹波国与謝郡筒川に⽔江浦嶋⼦という⼈物がいた。
⾈に乗って釣りをしていると、遂に⼤⻲を得た。
⻲は美しい⼥性になり、
浦嶋⼦はこれを妻とした。
海に漕ぎ出した⼆⼈は、蓬莱⼭に⾄った。
そこは仙⼈たちが暮らす世界だった。
詳細は別巻に在る。
【解説】
※⽇本書紀︓養⽼4年(720)5⽉21⽇成⽴、わが国最初の官撰国史(公的歴史書)
※筒川︓伊根町域を東⻄に貫流する河川(京都府⼆級河川)。近世までは本庄、筒川、朝妻(大原を除き)の一帯を筒川庄といった。
当地に伝わる浦嶋伝承は「⽇本書紀」に記され、全国各地に伝わる浦嶋伝承より、最も起源が古い。雄略天皇22年(478)秋7⽉の条に「丹波国(たにはのくに)余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の⼈」として「端江(みずのえ)の浦の嶋⼦」が常世の国へ⾏く物語が簡潔な⽂章で記されており、末尾に「詳細は別巻(ことつまき)に在る」と書かれている。その書物は同時期に編纂された「丹後国⾵⼟記(たんごのくにふどき)」が有⼒であるが、現在では原本は失われ、逸文(いつぶん,他書への引用などで残った文章)、あるいは写本とされる丹後国風土記残缺(ざんけつ,偽書ともいわれる)などで見るにとどまり特定できない。また、他にも「万葉集」巻九にある⾼橋⾍⿇呂が詠んだ⻑歌「詠⽔江浦嶋⼦⼀⾸」で浦嶋物語が歌われている。
これらの物語で登場する「浦嶋⼦」がいわゆる⽇本昔話でいう「浦島太郎」であるが、物語は中国道教の神仙思想の影響を⾊濃く受けており、古代には⻯宮城へ⾏かず神⼥(おとひめ)に誘われ蓬⼭(常世の国)へ⾄るという物語であった。浦嶋⼦は当地を治めた地⽅豪族の領主であったことから、⺠間伝承ではなく貴族、公卿などの⽀配層を中⼼に伝わっていった。室町期の御伽草紙に初めて「⼄姫」「⻯宮城」「⽟⼿箱」の名称とともに⻲の恩返しの要素が加わり、また、領主であった嶋⼦が「両親を養う漁師の⻘年」という⺠衆の⾝近な存在として描かれたことにより、⼤衆に広く受け⼊れられ全国に伝わっていった。このことが、「浦島太郎」伝承が全国各地に数多く伝わる要因であると考えられる。江⼾中期の正徳2年(1712)に、⼤阪⽵⽥からくり出し物で、初めて⻲に乗った浦嶋⼦が登場し、海中にある⻯宮城へ⾏くようになる。
明治29年(1896)に巌⾕⼩波(いわやさざなみ)が⼦ども向けに書いた⽇本昔話に、現在の浦島太郎のお話しに書き替えられ、明治43年(1910)には尋常⼩学校⼆年国語教科書にその省略版が掲載、翌44年(1911)には唱歌「浦島太郎」が作られた。このことにより、当時の⽇本全国の⼦ども達が読み学ぶことになり、また、唱歌は現在までも⼦ども達にお馴染みの歌として歌われ続け、⽇本⼈なら誰もが知っている代表的な昔話として⼤いに親しまれるに⾄った。
【昔話「浦島太郎」への変化】
⽇本書紀や万葉集、丹後国⾵⼟記逸⽂など、室町時代に撰述される「御伽草紙」までの浦嶋⼦伝承は、與佐の郡筒川の⼈である浦嶋⼦に起こった「事件」についての記述であったが、現代に⾄るまでに⼤衆向け、教訓的な「物語」として意図的に変化させられたといえる。
「御伽草紙」は、「釣り上げた⻲を放してやったところ、次の⽇、はるか海上に⼥房(⼥性)を乗せた⼩⾈があらわれ、⻯宮城に案内された」こと、「⼥房は前⽇に釣った⻲であった」ということに変わる。これは、仏教的な「⻲を放⽣することでご利益を得られる功徳」の要素が加わったといえる。また、明治に巌⾕⼩波が書いた「浦島太郎」は、ただ⻲を放⽣するのではなく、⼦どもが虐めている⻲を救済するという善⾏、動物愛護の教訓的要素が加わる。
御伽草紙以降の⼤衆に向けられた浦嶋⼦物語は、時代が下るごとに素性が曖昧になり、現代に⾄っては「むかしむかし」の「あるところ」と変貌を遂げ、もはやどこにいても何ら不思議のない「浦島太郎」になったといえる。当社の浦嶋⼦伝承は、江⼾時代に書かれた伝記にあっても成⽴当初のものと⼤きく変貌することなくその形を留め、浦嶋⼦は「與佐の郡筒川の⼈」であり続けている。
参考⽂献「宇良神社本『浦島明神縁起絵巻』について」中野⽞三(昭和63年12⽉20⽇/嵯峨美術短期⼤学紀要第14号別刷)
【浦嶋⼦伝承との関連が考えられる事象】
・豊受⼤神の伊勢遷座
伊勢神宮の外宮は豊受⼤神を祀る。豊受⼤神は、元々丹後(当時丹波国)に祀られていた。平安時代初期の『⽌由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によると、第21代雄略天皇の夢枕に天照⼤神が現れ「⾃分⼀⼈では⾷事が安らかにできないので、丹波国の豊受⼤神を呼び寄せよ」と⾔われたことにより、雄略天皇22年(478)7⽉に伊勢神宮外宮に遷座することになったと記される。雄略天皇22年7⽉は当地の浦嶋⼦伝承の中で「浦嶋⼦が蓬莱⼭へ⾏く年」である。このときに丹後において何事かが起こった可能性もあり、そのことが浦嶋⼦伝承の発祥に何らかの関連がある可能性もある。
・⼤島村の創始
現伊根町と境界を接する旧⼤島村(現宮津市字⼤島)は、天⻑2年(825)に当地筒川庄からの移住により創始されたと伝わる。天⻑2年は当社の創建の年であるが、このときに合わせるようにして筒川庄からの移住により⼤島村が創設されたことは、多少なりとも関連性が窺える。淳和天皇の命による当社の創建は、中央政権または有⼒貴族による農地の管理や、⽀配体制確⽴と地⽅への勢⼒拡⼤など、様々な思惑が考えられる。