・「国指定文化財等データベース」(文化庁)
本絵巻の主題は浦島子伝説であるが、物語のあとに神社の建立と祭礼の場面があり、宇良神社の縁起として図絵されたことがわかる。詞書を欠いているが、絵の内容から見ると、後世のお伽草子として一般化する以前の姿をとどめており、描法は通途のやまと絵の画風であるが、賦彩に一種独特のふんいきがある。(中略)浦島明神縁起絵として唯一のもので、その意義はきわめて高い。
・「宇良神社本『浦島明神縁起絵巻』について」中野玄三(昭和63年12月20日/嵯峨美術短期大学紀要第14号別刷)
(下の画像)「第二紙に険しくそそりたつ山を前景に配し、その後に頂上から瀧を落す峨峨たる山を大きく描いている。この山こそ宇良神社の神体山のごとく仰がれる雲瀧山であり、瀧は布引瀧にほかならない。この雲瀧山と布引瀧を巻頭に大きく掲示することによって、この絵巻が宇良神社の神聖な縁起絵巻であることを明らかにしたのである。(中略)この絵巻の諸様式を考慮して、おそらく14世紀の前半と位置付けておきたい。
・「国指定文化財等データベース」(文化庁)
洲浜形の全面を桐花と桜花・土筆・菫・蒲公英などを片身替りに配している。五彩の平糸で繍い埋めた華麗な構図と手法は桃山時代の特色を良く表わしており、当初の仕立又縫方等を窺うことの出来る貴重な資料である。
神御衣として神社に奉納された。
附 浦嶋子之縁起 一巻(紙本墨書巻子装/鳥の子紙)・天和2年(1682)
浦嶋子之縁起 一巻(紙本墨書巻子装/楮紙)・江戸時代
浦嶋子口伝記 一巻(紙本墨書巻子装/鳥の子紙)・元禄9年(1696)
浦嶋子口伝記 一巻(紙本墨書巻子装/楮紙)・元禄9年(1696)
新撰浦嶋子伝 一巻(紙本墨書巻子装/鳥の子紙)・元禄9年(1696)
「京都の文化財 第17集」(平成11年12月京都府教育委員会)より
本縁起は、浦嶋子の伝説及び宇良神社の祭礼の様子を絵画化し掛幅装としたものである。画面を雲霞で上下に四段に区切り、上から四段目(左から右)、三段目(右から左)、一段目(右から左)、二段目(右から左)の順に物語が展開する。描写は、①丹後国筒川庄のたたずまい、②水之江浜にて浦嶋子が漁に出舟する(以上四段目)、③浦嶋子が亀を吊上げる、④亀が仙女に姿を変え浦嶋子と語らう(以上三段目)、⑤竜宮の門にたたずむ浦嶋子、⑥竜宮のたたずまい、⑦仙女と結ばれる浦嶋子、⑧浦嶋子のために舞楽を奏する(以上一段目)、⑨老松のもとで仙女から玉匣を受取り、箱を開ける、⑩宇良神社境内で田楽・相撲・競馬などの祭礼が催される(以上二段目)からなる。(中略) ところで、当神社には掛幅本縁起とは別に詞書をもたず絵を連続させた巻子本形式の紙本著色浦島明神縁起一巻(重要文化財)が所蔵されている。掛幅本と巻子本との間には内容に異同はないものの、巻子本がいわゆる都ぶりとは異なった作風を示すことに対し、掛幅本は大和絵の伝統により描かれるように画風が異なっている点をはじめ、細部における構図にも相違が認められることから、両本は同時期に制作されたものとは考え難い。(中略) 画面を四段に分割し物語を展開している点からみると、掛幅本の祖本は巻子形式であった可能性を指摘できる。(中略) 室町時代に特徴的な表現方法がみられる点、構図が破綻なくまとまっている点などから、室町時代前中期頃に遡ると考えられる。(中略) いずれにせよ、本縁起が多くの人々に絵解きをする目的で制作された掛幅本形式であることは重要であり、巻子本とともに物語性の高い地域色豊かな内容をもった室町時代に遡る縁起絵として貴重である。
浦嶋子伝承を記した鎌倉期の伝記。また、丹後地方にあっては鎌倉期の古文書類は少なく貴重。13枚中8枚が現存している。永仁2年に筒川庄福田村宝連寺で写本されたもので、底本(書き写す元の書物)となった伝記は延喜20年(920)に制作され、承平2年(932)に注を加えたことが記されている。また、嶋子が帰郷し自分の家を探しあぐね、道を尋ねた老婆は、この写本から「百有七歳」と具体的に記されており、浦嶋子伝承が成立した初期から発展を遂げていることも注目される。当社に伝承されたこの写本は、後の時代に制作される重要文化財「紙本著色浦島明神縁起」に少なからず影響を及ぼしているであろうことが窺える。また、江戸時代に書かれた続浦嶋子伝記の元になったものと考えられることから、欠落部分は続浦嶋子伝記から推測することができる。
現社殿は、元治元年(1864)4月13日の火災による類焼、焼失し、明治17年(1884)5月再建された。丹後地方を拠点に活躍した冨田一族である加悦町 冨田吉助の手による建築であり、また、「西の左甚五郎」と云われた中井権治(八代目正胤)一統による見事な彫刻が施される。
■本殿:神明造、桁行3間、梁間2間の切妻造、茅葺、平入
四週に縁と高欄を廻すが、床が高く、縁束を2段の貫で固める。常時は不在の神を招来するため背面中央1間は高欄が切れている。基壇の上に亀腹を築き、礎石建とする。柱は床下を八角、床上を円柱とし、切目長押、低い位置の腰長押と内法長押を内、壁は横羽目板とする。棟は銅板で覆い、置千木と細身の堅魚木を配し、妻飾は豕叉首鳥居掛け。正面構えに特徴があり、中央間は両開きの板戸、両脇間は一枚板の鏡戸とする。鏡戸は祭事に取り外せるようになっている。丹後地方に見られる神明造系社殿の系譜に本殿も連なるものと考えられる。
本殿西南隅の縁束には、井戸屋形が取り付く。切妻の銅板屋根を本殿の縁束と柱2本で支える。下に石組みの井戸があり、目の神様「御井(みい)さま」として信仰されている。
本殿は丹後地方特有の神明造系社殿に連なるものとみられるが、在地化した神明造系社殿として注目される。棟札により年代・棟梁が明らかであり、丹後地方の近代神社建築に一つの基準を提供する遺構である。
■拝殿:割拝殿(吹放し)、桁行3間、梁間2間、入母屋造、銅板葺、平入
石造の布基礎に角柱を立て、内外に内法長押を廻す。組物は詰組の出組で、さらに組物間に蟇股には内部彫刻が施され、題材は亀、兎、鯛、鳥、波、雲、松、蓮であり、配置は左右対称である。
拝殿は中殿とともに本殿と対照的な装飾性に中井大工の作風がよく表れる。
■中殿:桁行2間、梁間1間の切妻造
梁間を拝殿中央間と合わせる。梁は反転曲線の虹梁とし、棟木の支持形式を梁筋ごとに変える。拝殿側から、二重虹梁大瓶束、虹梁大瓶束、虹梁上に皿斗と徐々に積上げ高を低める。虹梁袖はそれぞれ根肘木で受け、なかでも拝殿則柱筋の根肘木は籠彫りの持送り状をなす。
■現存する棟札類
【室町時代】
嘉吉2年(1442)9月26日御造営(画像の棟札)
文明6年(1474)9月21日修造
永正3年(1506)9月8日御造営
【江戸期以降】
明暦元年(1655)
元禄6年(1693)
享保2年(1717)
天保11年(1840)
嘉永7年(1854)[2枚]
明治17年(1884)
※以上10点、京都府指定有形文化財(古文書)
大正時代以前の社殿(与謝郡誌・大正12年12月30日京都府与謝郡役所)
【コラム】
拝殿正面の彫刻(下に掲載の写真)には、龍をはじめとする動植物の彫り物が施されているが、これは『西の左甚五郎』と称され、江戸時代から近代にかけて活躍した丹波国(兵庫県柏原市)中井権次一統による作である。
徳川家康の召し抱え宮大工であった中井正清の流れを受け継ぐと言われ、元和元年(1615)に丹後与謝郡から兵庫県丹波市の柏原八幡宮三重塔の再建に招請された中井道源を初代とし、第4代目中井言次君音が神社仏閣の装飾彫刻を始め、昭和33年(1958)に没した第9代目中井権次橘貞胤まで彫り物師として活躍した。第6代目権次橘正貞より権次を名乗ったことから権次一統と称する。
中井一統の彫刻は躍動する龍に代表され、ほかに唐獅子、獏、猿、象、鶴、花、中国の神仙説話を基にしたものなど多岐にわたる。
当神社境内には、中井権次の子孫による「奉納 元枚方市会議長 中井文夫 七九才」奉納の御神灯や宝物殿の新築に伴う「浦嶋神社宝物殿資金 枚方市樋之上町 一金 壱百万円也 中井憲次 (裏面)昭和六十二年五月 世話人 藤原国蔵」石碑が建立されている。
室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏が暦応2年に来社し、幣帛、神馬、御神酒を奉納する。明治時代に開催されたパリ万国博覧会(明治11年(1878)が有力か)に出展された。