元禄9年(1696)の浦嶋⼝伝記によると「⼩⾈に乗りて⽔乃江の湖中、⽩鷺岬亦は⿓⽳の辺りに釣⿂して遊ぶ。或る時は図らずして⼀霊⻲を得て⾈の中に⼊れる」とあり、⿓⽳が出てくる。この⿓⽳には、「⿓宮に通ずる⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷した⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷時に休息した場」など、様々な説話が残っている。この⽳に⽩い⽝を放ったところ、この地の北東、海岸に⾯した隠れ⾥の⾵⽳に出たとの伝承も残る。夏季でもこの⽳から涼⾵が吹き出てくることから、古来より地域住⺠が涼む場所としても親しまれている。
この正⾯には宮津藩奥平家の代官 菅沼吉兵衛が建⽴した碑がある。奥平家が宮津藩主であったのは元禄10年(1697)2⽉〜享保2年(1717)2⽉。
『丹哥府志』天保12年(1841)
「⿓⽳⼀に⾵⽳といふ、殊に此⽳より清⾵吹来りて夏などは⾄て涼しき事なり、かくれ⾥より此⽳に通ずといふ左もあらんと覚ゆ、⽳の傍に碑あり島⼦⿓宮より此所に帰り来るいわゆる⿓⽳是なりといふ。」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)
『丹後州宮津府志捨遺』安永9年(1780)
「霊⽳ 本書にみへたり。此⽳の傍に⽴⽯有碑⽂を彫刻す、「浦島か⼦従⼆⿓宮⼀此所へ帰来則爰⿓⽳と云」と記す、此碑は奥平候の代官菅沼吉兵衛といふ⼈建しといふ、俗に⾵⽳ともいふ也」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼆輯」昭和15年(1940)
浦嶋⼦の亭跡が滝の下にあったと『丹後奮事記』『丹哥府志』に記されており、最初に嶋⼦が筒川⼤明神として祀られた場所としても可能性が指摘されている。
標⾼357mの雲⿓⼭(滝⼭)から流れ出る布引の滝は、浦嶋伝承に「帰郷した嶋⼦が⽟櫛笥を開け、⽴ち上る⽩雲が棚引き、この滝になった」とある。落差96mで全⻑131mと、京都府内で最も⼤きな滝であり、京都の⾃然200選に選定されている。2つの⼭頂に挟まれた⾕間はすり鉢状の地形をしており、麓から⾒ると背後に⼭並みがなく、空から直接流れ出ているようにも⾒えることから、神仙世界が具現化した理想郷をも想像させる。
この滝を左⼿に⾒ながら尾根伝いに登る古道が筒川上流域へ通じており、浦嶋神社と所縁の深い河来⾒集落まで3.5kmと、古くはここからも往来があった。また、この地を貫流する筒川は、かつてはこの脇まで蛇⾏していた。
布引滝の左⼿、雲⿓⼭中腹の尾根には、戦国期には本庄城(⽔之江城ともいう)があり、天正10年(1582)、細川忠興の軍勢が攻め寄せた際は、本庄城主を兼ねていた三富左⾺亮通諭(菅野城主)が近隣の地侍とともに城に籠もり合戦に及んだが、頑強に抵抗し⼀昼夜の猛攻に屈しなかった。細川勢は城攻めの不利を悟り、細川家と⼭内(三富)家の旧縁を頼りに和議を進め、城内地侍の安全を保障する条件で開城するに⾄った。なお、室町末期には三野対⾺守( ? -1623)が城主であったが、元⻲4年(1573)に退城、⺠間に下り本庄浜の名家平松家の祖になった。
『丹後奮事記』⽂化7年(1810)
「⽔江能野瀧 筒川庄宇治村の⼭上にあり雲引⼭といふ此辺に浦島が⼦の館跡あり⼜熊野瀧といふあり⾼サ卅余丈の峰より落て幅⼆丈余あり当国第⼀の瀧なり、往昔⽩雲⽟⼿箱の内より出て此峰に棚引常世の国へ去し跡なり」
出展︓「丹後史料叢書 第⼀輯」昭和2年(1927)
『丹哥府志』天保12年(1841)
「布引の瀧 宇治村の後⼭を雲瀧⼭といふ、⼭の絶頂より⾶流直に下る凡七⼗五丈、聊樹⽊の遮るなし、実に銀河九天より落つるに似たり、瀧の下に不動堂あり⼜其辺りに島⼦の亭跡あり」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)
鎮座地 伊根町字本庄浜⼩字宮ノ下919番地
祭 神 ⼆柱 浦島太郎(浦嶋⼦の⽗親)
垂乳根(浦嶋⼦の⺟親)
創 建 年代不詳
社 格 無格社
神 紋 ⼗六枚菊
⼤太郎嶋神社は垂乳根神社とも呼ばれ浦嶋⼦の両親を祀る。浦嶋⼦の⽗であるこの浦島太郎は、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄になる。
元禄9年(1696)の浦嶋⼝伝記に「浦嶋太郎、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄弟三⼈あり、その⼤祖は蓋 ⽉讀尊。浦嶋太郎はその苗裔、即ち当主の領主なり、然して⽽し弟皆嗣⼦有。嫡兄太郎に嗣⼦無し。夫婦共之を悲しむこと年久し。この時浦嶋太郎は天に祈り相貌美麗の⼦供を授かる。この児を嶋⼦と云い…(以下略)」
神紋は、16枚の菊の紋様で、浦嶋神社の御霊代(みたましろ)が収められている箱の紋様と同じである。平成20年11月6日に現在地に遷座した。
『丹哥府志』天保12年(1841)
「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)
浦嶋五社(伊根町誌より)
元禄9年(1696)に来迎寺住職が「浦嶋五社」を記しており、浦嶋⼦の両親は嶋⼦を中⼼とした浦嶋五社のうち⼆社である。
本神 中 島⼦ 本地 正観⾳⾃在菩薩
左脇 浦島太良 本地 毘沙⾨天王
同次 ⺟御前 本地 阿弥陀如来
右脇 ⻯⼥ 本地 ⼗⼀⾯観⾳
同次 今⽥三良 本地 薬師如来
外ニ、曽布⾕⼆良本地地蔵菩薩是別社鎮座也
現在の石碑のあるところから南に50mほど先の田圃の中に1本の杉の木があり、そこに屋敷跡が残されていたが、昭和53年の圃場整備により、現在の山麓に移された。また、石碑の隣にある陰陽石は、子宝の神として地域から厚い信仰がある。
この曽布谷次郎は三柱神社(伊根町字本庄宇治747番地)で祀られている。この地の北西は曽布谷といい、かつては集落が形成されており、天和3年(1683)は12戸、明治20年(1887,浦嶋神社に類焼した大火後)は2戸であったと記録されている。
『丹哥府志』天保12年(1841)
「島子の伝記に所謂曽布谷次郎の宅地なりとて聊か小祠を建たり、今其子孫なりといふものあり」
(再掲)「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)
本庄上今田地区の土地の人達によって今田三郎の屋敷跡はこの地であったと古くから語り継がれている。この今田三郎は、この地の上にある三柱神社に祀られている。
三柱神社攝末社及び境内神社 今田神社
鎮座地 伊根町字本庄上小字日谷今田26番地の2+
祭 神 今田三郎
創 建 天正元年七月(1573)
特殊神事 太刀振、花の踊
例 祭 8月8日
『丹哥府志』天保12年(1841)
「曽布谷とおなじく今田三郎の宅地なりとて小祠あり、此処にも今田三郎の子孫といふものあり」
(再掲)「社記⽈。(中略)⾵⼟記履仲天皇四年始て國史を置き盡く⾔事を記さしむ、此時に當りて丹波國與佐郡筒川の庄⽇置⾥に浦島太郎といふものあり、⽉讀尊の苗裔なり、故を以てこれを⻑者とし國事をしるさしむ。其弟を曾布⾕次郎といふ、次を今⽥の三郎といふ、浦島曽布⾕今⽥は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり。太郎は履仲天皇反正天皇の⼆代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(國史に⽇下部使⾂其⼦吾⽥彦億計弘計の⼆皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此⼈ならん)。」
出展︓「丹後郷⼟史料集 第⼀輯」昭和13年(1938)
元禄9年(1696)の浦嶋子口伝記に「浦嶋子仙人のように身軽く、天に昇り飛ぶ鳥のようで、ある時は泳ぎも魚の如く泳ぎまわり、雲龍山より流れ落ちる布引滝、高さ七十有余丈を鯉に乗りて上がり下がりをし、小舟に乗りて白鷺埼の沖合いで魚釣りを楽しむ」と記される。
『丹哥府志』天保12年(1841)
「白鷺が鼻
昔島子の龍宮へ渡らざる以前は此辺も海なるよし、よつて此処にも島子の釣垂れ石とて今田の中にあり」
出展:「丹後郷土史料集 第一輯」昭和13年(1938)
現在の当地は、筒川河口から遡上すること約2kmの位置にあるが、この周辺には、海辺を思わせる地名が残っている。
舟原、舩原、魚見、東魚見、西魚見(伊根町誌より)
鎮座地 伊根町字本庄浜小字アゴバ618番地
祭 神 三野対馬守郎女命(いらつめのみこと)
創 建 寛永元年(1624)
社 格 無格社
構 造 流造り、梁行2.6尺、桁行3.6尺
特殊神事 太刀振、花の踊
例 祭 8月8日
祭神の三野対馬守郎女命は、三野対馬守( ? -1623)の妻であり、三野対馬守が亡くなった承応2年の2年後、寛永2年(1625)に亡くなっている。
三野対馬守は藤原太郎忠勝とも称し、室町時代には丹後守護一色氏の配下で本庄城(水之江城)の城主であったが、元亀4年(1573)に退城、民間に下り本庄浜の名家平松家の祖になった。この平松家の末裔には、戦前に爆発的な大ヒットとなった『東京音頭』(昭和9年/1933)を歌った三嶋一聲(本名:三野哲太郎)を輩出している。この三野一族は、代々浦嶋子を守護している。
当社に享保3年(1718)再建の棟札があり、創建は寛永元年と近世になってからであるが、当地には古廟があったと伝わり、周辺は埋蔵文化財包蔵地として指定されている。古老の話によると、以前は石棺が露出していたとの話もあり、古墳であることは確実と思われる。
なお、丹後地方には、祭神として若宮売神(豊受大神)を祀っている神社もあり、若宮を豊受大神とみる説もある。
『丹哥府志』天保12年(1841)
「若宮明神は何の神を祭るや詳ならず、宮の内に建武二年(1335)の棟札あり、其棟札に此所は古廟の在る所、後世必ず掘るべからずと云、唯古廟とのみ記して誰の廟たる事をいわず、定めて訳ある事なるべし、いづれ高貴の人ならんと覚ゆ、申伝へも絶えて建武の頃既に誰なる事は知れざりしか又は露にいふべき人にあらざるか」
出展:「丹後郷土史料集 第一輯」昭和13年(1938)