この庭園は、浦嶋神社崇敬会設立10周年を記念して、京都市の竹村造園により施工されたものである。(平成10年10月吉日)以下は説明版の内容である。
嶋子が神女に誘われて水乃江里より海の彼方の蓬山に渡る物語を丹後国風土記逸文は次のように記している。
「その地は玉を敷けるが如く闕壹奄映しく樓壹玲瓏けり目にもみざりし所 耳にも聞かざりし所なり」云々
これは「とこよ」の有様を記したものだが、その他に「蓬山」「神仙」「仙都」と書いて「とこよ」と読ませ、日本書紀、浦嶋古伝記では「蓬莱山」を「とこよ」、万葉集では「常世」を「とこよ」としている。
これは、古代中国の神仙思想の影響を強く受けたものであり、この庭はこれらの文献及び浦嶋明神絵巻(重文)にもとづいてつくられた。
浦嶋神社社務所
参道には、石碑「宇良神社」が建立されている。裏面には、「皇紀二千六百年建之 子爵 本荘宗秀筆」とある。この題字は、第6代丹後国宮津藩主(幕末期の幕府老中)であった本荘宗秀によるもので、明治維新により子爵となった。本庄上村の3名により奉納されたもので、石は鯛崎から船で運搬された。
拝殿の前に御神灯が建立されている。
・一対は安政3年(1856)8月吉日建立のもので、半対には(献灯・大阪)半対には(献灯・橘屋)と刻まれている。これは、野室村中(伊根町字野室)の伊左ヱ門他7名の世話人により、大阪の橘屋が寄進したものであり、橘屋清治郎・市郎兵ヱとある。これは、野室村の屋号オオヤである前野家出身の先祖が大阪に出て橘屋を創業した。現在の当主は大阪市に在住である。
・右端の半対の御神灯は、明治29年(1896)8月9日建立のもので、本庄上村の坂中長兵衛が寄進したものである。裏面には、菅野・薦池・峠・本庄上村・本庄浜村の総代名が刻まれている。原石は本庄村中の寄付である。
・左端の半対の御神灯は、安政2年(1855)7月日建立のもので、正面には伊丹講中 池田とある。これは、本庄上村、本庄宇治村、本庄浜村などの世話人により、神田屋及び丹後屋が寄進したものであるが、天保11年の浦嶋神社修覆の募金記録にも、摂津国伊丹にある講からの寄付が見える。
当社の鳥居の手前に狛犬一対が造立されている。これは、明治42年(1909)8月吉日、伊根港 奥屋事・奥吉右ェ門他6名により寄進されたものである。狛犬は、その起源も名称が示すように渡来の信仰に基づくもので、邪気を祓う意味があると言われている。
百度詣を一日で終わらせるため、拝殿と往復する際の起点になる石。百度詣は切実な心願が成就することを願い行う民間信仰で、一度の参拝ではなく、どのような天候でも百日間毎日参拝するというもの。日本全国に広く信仰されており、『吾妻鏡』などの記述から鎌倉初期にはすでに百度参りがあったことがわかる。ただし、百日もかけられない急を要する祈願があって、一日に百度参るという形で百日詣の代わりとすることもあり、百度石から拝殿まで行って参拝し、またこの石まで戻るということを百度繰り返す。これを「百度を踏む」ともいう。賽銭や小石などを百個用意し、1回参拝するごとに1つずつ置き、回数を間違えないようにすることもある。呪法的な効用を期待し、お百度を人に見られては効果が無くなるとして夜中に参拝したり、裸足で参拝した方がより効果があるなどとも言われる。白い着物を着て参拝することが一般的だった。
「ハアー、踊り踊るなら(チョイト)
東京音頭(ヨイヨイ)
花の都の 花の都の真ん中で(サテ)
(ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ)
(ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ) 」
この歌は、昭和初期に小唄勝太郎と芸名:三嶋一聲(本名:三野哲太郎 昭和49年7月19日没)が組んで爆発的な大ヒットとなり、日本を興奮の渦に巻き込んだ「東京音頭(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)」の一小節である。(レコード売上:数千万枚)三野哲太郎は、伊根町字本庄浜の産で、中世筒川庄の菅野城出城であった本庄城主:三野対馬守の末裔である。母は、丹後国宮津藩で監察や京都府中郡長を歴任した山川超造橘直恭(浜松藩第2代藩主 本荘資昌公が宝暦19年(1759)6月14日に丹後国宮津藩主として国替えになった折、本荘公に随行し入城した家老の山川助六直則の子孫)の娘であり、明治維新までは武家の娘であった。三嶋一聲の記念碑は参道の脇に建立され、昭和47年(1972)11月11日の新聞には、「碑は高さ2mの自然石で、三島さんの友人、同町筒川診療所事務長、山田誠一郎さん(52)筆の「三島一声之碑」の文字が刻んである。午前11時、区民有志約30人が除幕、拍手のなかで三島さんが喜びのことばをのべ「東京音頭」のメロディーに一同が手拍子を打ち、三島さんの健康を祝った」とある。
復刻版 定価1,980円→¥1,500円(税・送料込)
『浦嶋伝説の地に生まれた少年哲太郎は、欧亜の大陸を縦横に駆け巡り、やがて歌手・三嶋一声となる。彼の唄う「東京音頭」は、昭和初期の日本を興奮の渦に巻き込んだ。「20世紀の浦嶋太郎」の流転の生涯を描く。』
著者北條喜八氏の綿密な取材を経て書き上げられた意欲作。多数の証言や写真をもとに三嶋一聲の驚くべき生涯とその真実に迫る。
参道の左に名匠浦嶋の石碑が建立されている。これは、皇紀2600年(昭和16年)建立されたもので、京都大学文学博士の小西重亟氏の書である。
境内に山口暉堂談による「力石の事」と書かれた説明版があり、次のように記されている。
一 浦嶋神社に在る円石の少し欠けたる方が八斗ダメ也。
重さ三十二貫(120㎏)、円い方八斗五升也。
昔此力石を上げたる人々。本庄浜の森下弥七(元治の頃)
一日山に藤葛一荷をとり来たり、それを背負いつつ、
この欠けたる方の石を肩の処までさし上げたりといふ。
二 森下仲右衛門も中々に力強の人也。これも容易く
肩に上げて十町(1000m)ほども歩みたりといふ。
三 八助の力持。この人矮小なり、長四尺八寸(145㎝)
位にて中々に元気あり由。一日此の大石をもちて
肩の處にて力あまりて即ち後へ落としたりといふ。
過ぎたるは及ばざる事 後人八助の力持とて はなしの種にいたしたりとぞ