はじけるような甘みを持つ、ほんのりとせつない音色。
どこか頼りげがなく、はかなげな感じをもつ細い旋律。
忘れかけていた想いがよみがえるような……そんな気がしてくる。
オルゴールの音に耳を澄まし、わたしはその心地良い感覚を楽しんでいた。
「Gの音が半音低いよ。あとEbの和音のバランスが悪い」
無表情でそう呟いたのは、教室の入り口でこちらの様子を窺っていた園生紗智子だった。
わたしのクラスメイトであり親友の一人であるミリィこと楢崎美鈴が、家の物置から発掘してきたオルゴールは、その色あせた外見からしてかなり年期の入ったものであった。そして、頼りなく回転する小さなドラムには、ディズニーの名曲『星に願いを』の旋律が刻まれている。
放課後の静かな教室で、その古ぼけたオルゴールに聞き惚れていたわたしたちをおもいきりしらけさせたのは、クラスメイトの堅物女史だった。
まずはじめに、わたしの横でうっとりと聞き入っていたアンコこと朝倉杏子は、頬をついていた手を滑らせコメディアンのようにおおげさにコケて苦笑し、次にオルゴールの持ち主であるミリィは握り拳を目の前で震わせながら無言で園生女史を睨み、ノンコこと坂上紀子はただただ唖然として口をぱくぱく開け、わたし、三浦有魅は大きな大きな溜め息を一つついたのだった。
「私そういうのだめなのよね。音感だけはすごくデリケートなのよ」
睨みつけていたミリィの目をかわし、園生女史はぽつりと呟いた。
「オルゴールってそういうものでしょ。音程さえ合ってればいいものじゃないはずよ。わずかに外れた音もそれなりに味が出るんじゃないの?」
ミリィは胸に溜めていたかのような想いを一気にぶつける。しかし、園生女史がたじろぐはずもなく、ただ自分の正しいと思う答えを返すだけであった。
「1/4音程度なら許容範囲だし、それぐらいなら確かに味もでるわ。だけど、半音も違えば、不協和音になるだけのこと。聞いていて耳が変になるのはあたりまえ
でしょ。まあ、あなたたちとは耳の感覚が違うのかもしれないけど」
わたしはもう一度大きな溜め息をついた。どうして、この子はこういう言い方しかできないのだろうか。自分の感覚を他人に押し付けるような、誰も自分をわかってくれないというような態度を。
「園生さん。理にかなったお答えだけど、最後の言葉は余計よ」
わたしは、こみあげる怒りを静めながらそう忠告した。
「別に好き好んで音感をよくしてもらったわけじゃないのよ。不快なものを不快と言ってなにが悪いの?」
彼女は相変わらずの口調で言い返す。
「聞きたくないならば出ていけばいいでしょ!」
ミリィの怒りが爆発し、今にも脳天から蒸気でも吹き出しそうな口調で園生女史を怒鳴りつける。が、そんなものが彼女に通用するわけがない。
「あら、私は担任の先生に頼まれて出席簿を取りに来たのよ。あなたたちのように用もないのに必然性もなく居残っているわけじゃないの。『出てけ』と言う前に自分たちが別の場所へ移動するのが筋というものじゃない?」
完全にわたしたちに手の負える人ではない。もちろん、クラスの誰一人として彼女を扱える者などいないだろう。
変わり者として、誰も彼女に近づかないのである。
だが、わたしは変わり者だからといって彼女を疎ましく思う考えは好きではない。
みんなの真似をして、みんなと同じことを考え、それに加われない者を排除するクラスのほとんどの者より、他人に呑まれない園生女史の方が多少偉いと思う。
ただ、彼女のように一人よがりで自分以外の誰も信じないという生き方には、共感が持てないのだ。
みんなに睨まれながらも平然とした態度で机の上にあった出席簿を取り、さっそうとした態度で教室を出ていく園生女史に微かな怒りを覚えた。
他人を見下す態度にだけは許せなかったのだ。
だが、その怒りをぶちまけられるほどの場所も力も残っていない。
雰囲気を壊されたわたしたちは、その場でお開きとなった。
今日は火曜日。ミリィ以外は部活が待っているのだ。
☆
わたしの所属する吹奏楽部は総勢20名ほどで、他の学校に比べればかなり人数の少ないアットホーム的な部である。それだけに、人間関係のいざこざがない分、人不足による楽器の厚みが薄いという最悪の弱点を抱えていた。
そんなわけで、コンクールなんてものは、金賞どころか参加の希望さえ持てないのであった。
だから、部の雰囲気も穏やかだが、悪く言えば少しだらけ気味なのである。当然中学校でバリバリに活躍していた部員は、その落差に落胆し定着するはずもなく、あとに残るは幽霊部員やお茶会感覚で部活をやる者のみとなった。
とはいえ、この雰囲気、わたしは嫌いではない。『音楽』とは音を楽しむものだから、本人たちが楽しめればそれでいいんだ、と昔の先輩に言いくるめられて入部したわたしは、最近ではそのだらけた雰囲気に少し愛着を感じている。
現在、わたしのパートはホルン。あのずんぐりと丸い愛嬌のある形が気に入っている。音色も、初めはこもった変な音しか出せなかったが、今ではこの楽器特有の甘い豊かな音が出せるようになった。付き合い始めて3年にもなるが、まだまだ奥の深い楽器である。
大学に行って本格的に吹奏楽を始めたら、バイトしてでも絶対に自分専用の楽器を買おうと密かな野望を抱いている。
そんなこんなで、今は楽しい一時を過ごしながらも地道に楽器の基礎練習を行っていた。
弱小クラブの弱味か、練習場所は空き教室である。空調の効いた音楽室での練習など週に一回できればいい方である。だから、夏や冬など、暑さ寒さでますます練習に出てこない幽霊部員が増すのだ。
「三浦ちゃんさぁ。今年も第九のコンサート行くの?」
わたしの斜め前の席でアルト・サックスをやっている部長である鳥居ちゃんが、後ろの席に置いてある楽器ケースの中のバルブオイルを取ろうとしながらそう聞いてくる。
「なによ、いきなり」
わたしは基礎練習用の譜面から目を離し、鳥居ちゃんの顔を見る。
「年末さぁ、鈴木の麻の親戚の家のペンションで年を越そうっていう話があるのよ。ほらぁ、今年高校最後でしょ。受験勉強の気晴らしにさ」
鳥居ちゃんの人なつっこい目がわたしを誘っている。
「うーん……年末の第九には行かないんだけど、先約があるのよ」
わたしはすまなそうにそう答える。
「え! 三浦ちゃん、いつの間に彼氏できたの?」
少しあわて者の鳥居ちゃんは完全に勘違いしている。彼氏なんて、できる気配さえないってのに。
「違うわよ。クラスのミリィたちと初日の出見に行くんだ」
「そうなの。それは残念ね」
「ごめんね。鳥居ちゃん」
わたしは片手で鳥居ちゃんを拝みながら謝る。
「いいってば」
鳥居ちゃんはそう言って少し寂しそうに練習を続ける。
現在、この教室で練習を行っているのは、わたしと鳥居ちゃんだけ。
わたしも別な意味でちょっと寂しかったりする。
あーあ……。
☆
次の日、水曜日は久々の音楽室での練習。
どれだけ部員が集まっているのやらと、中を覗けば片手で数えられるほど。
わたしを除けば、ちょうど5人。かなり虚しい。
ああ、大人数での合奏に憧れる。思わず音楽室の入り口の所から客引きでもしたくなるよ。『さあ、さあ、今ならお好きな楽器が吹けて美人でかわいい講師もついちゃう。これであなたもミュージシャンよ!』……なんて、虚しい発想したわたしが馬鹿だったわ。
しょうがない。初心忘れるべからず。今日も基礎練習を地道にやるしかないようね。
でも、こんなに長いこと合奏ができないとストレスが溜まりそう。最後にやったのはいつだったかな? ああ、シェルドンがバーンズがホルストがジェイガーがスウェアリンジェンがわたしの譜面帳の中で眠っている。ごめんね、みんな。もう少しだけ待ってね。春はもうすぐそこよ……って、何考えてるんだわたしは。
いかん、最近妄想癖がついてきたな。気をつけねば。
と、お馬鹿なことを考えていると、防音設備の効いた室内にピアノの音が微かにもれてきた。単調な旋律だが、軽やかな指運びは聴いていて心地が良い。何かの練習曲だろうか。
防音の音楽室ではあるが、一カ所だけ防音処理のされていないところがある。それは、音楽準備室との境の扉だ。普段は、音楽の教師がいて奥の狭い所に補助のピアノが置いてある。だが、放課後ともなれば完全に閉め切られる。
誰が弾いているのだろう、そうわたしは思った。今日は音楽の教師はいないはずなのだが。
まあ、合唱部のピアノ担当の子が密かに練習している場合もあるので、わたしはそこで考えることをやめ自分の練習に専念する。
ロングトーンと呼ばれる、各音階をある一定の時間吹き鳴らして、音質に安定を保たせる練習はかなり辛い。その後は、歯切れの良いタンギング。これは、舌を使って音を短く切るもので、スタッカートのついた八分音符以上の音をきれいに響かせるもの。
とても退屈な基礎練習は、楽器演奏だけではなく他でも大切にされているはずだ。
だが、上手になる為にこなさなければならないハードルはいくらでもある。およそ、気の遠くなるような練習をプロはつんでいるのだろう。だけど、わたしはまだそれにも及ばない。強制されるわけでもないし、好きで吹いているのだからという理由でたまに手を抜くこともある。どうせ、プロになれないのだからという情けない考えが心の奥に引っかかっているからだろう。
とにかく、上手になりたいとは思ってはいても、どこかでほどほどにしておいた方がいいという自制が効いているからなのかもしれない。
もともとわたしが音楽をやっている理由なんて、たんなる憧れでしかなかった。
自分がお気に入りの曲を自分で演奏してみたいだけなのだから。
たしかに甘い。
深く考えると気分が滅入ってくるようだ。
気分転換にと、教本のページをペラペラとめくって周りを見回す。
「橋本君。パート練やろう」
わたしは、同じホルンパートの比較的真面目タイプの後輩を呼ぶ。
「レベル4のエチュードですか?」
橋本君は即座に教本を取り出しページをめくる。
「そうよ。橋本君チューニング終わった?」
「はい」と、元気な返事が返ってくる。これで、出席率さえよければかわいい後輩なのだが。
メトロノームを鳴らして練習を開始する。
その時、ふいに音楽準備室の扉が開き、中からあの園生女史が出てきた。
一瞬、わたしと目が合うが、すぐにそらして部長の鳥居ちゃんの所へと歩いていく。
「準備室のカギ、ありがと」
鳥居ちゃんに準備室のカギを渡すと、園生女史はそのまま無表情で去っていった。
ふと、先ほどのピアノの音を思い出す。
あの練習曲を弾いていたのは園生女史だったのだ。普段の態度からは人間味が感じられないくらい天才色の強い彼女だが、やはりそれなりの努力はしてるのだと関心してしまう。
んー……天才か。
思わず考えてしまう。
天才の定義、才能の定義。どこまでが努力でどこまでが天性なのか?
「三浦先輩。どうしたんですか?」
我を忘れて考え込んでいた頭に橋本君の声が聞こえてくる。
「あ、ごめんごめん」
わたしはそうごまかして、頭の中の考えを一時タンスにしまい込む。あとで忘れなきゃいいけど。
☆
「テンサイは忘れた頃にやってくる」
誰でも考えそうなギャグを言って無理矢理ウケをねらおうとするミリィを無視してわたしたちは話を進めることにした。
昨日、わたしが思った事からささやかな議論が始まってしまった。
「天才とか才能の定義とか言われても、人間なんて定規で計れないよ」
ノンコはうーんと唸りながら窓の外を見つめる。
「『天才とは、99パーセントの汗と1パーセントの霊感より成る』ってエジソンだっけ?」
アンコの人なつっこい口調と優しい笑顔がこちらを向く。
「その1パーセントが大切じゃない? まったく0と1とは天と地との差よ」
霊感イコール才能と考えても、あるにこしたことはない。ゼロと1は近似値ではなく、まったく相反するものだ。
「そんなに才能が欲しいの?」
素直すぎるノンコの問い。
わたしは一瞬答えに戸惑う。深く考えるのを無理に心がとめているようだ。
「わからない……」
ふと、真正面にいるミリィと目が合う。なにか、わざとらしい媚びるような目に思わず笑ってしまった。
「うぇーん、ユミちゃん許してよぉ」
ミリィはさすがに反省したらしく、やっと真面目に話しに加わる気になったようだ。わたしは、ノンコの問いへのごまかしついでに、わざとふざけてみせる。
「よしよし、ほれ『お手』」
「クゥーンクゥーン……」
ノリのいいミリィはすぐにそれに反応するが「なつかせてどないする!」と、わたしの手をぴしゃりと叩く。
「ごめんよぉ。……で、ミリィちゃんのご意見は?」
わたしはすぐにミリィに話を振る。何か言いたげな視線が気になったのだ。
「あたしが思うに、天才ってのはその人がやったことに対しての評価で、才能ってのはその人の初期値だと思うの」
「初期値?」
なんかミリィらしい言い方かな、とちょっと思ってみる。
「そう初期値。ただ、その才能の形にもいろいろあってさ、ノンコが言ったみたいに定規じゃ計れないかもしれない。だけど、普通の人が努力してやっとできる、或いはまったくできない事をまるで呼吸をするみたいにいとも簡単にできてしまうことを、たぶんそれを才能というのだと思うの。だけど、才能は初期値だから、その人ができることは中途半端でしかないわけ。そうすると、下手に才能がある人は現在の状態に満足できないはず。だから、それ以上を望んで努力をするのよ。そうしているうちに普通の人との能力の差があまりにも開いてきて、結果『天才』と呼ばれてしまうのだと思う」
今まで溜まっていたものを吐き出すかのように一気に語るミリィ。そういえば、この子も天才とか呼ばれてた時期があったって聞いたことがある。数学に関しては他の教科を飛び抜けて良くて、それに期待した御両親が無理に難しい所への進学をすすめていたのだ。それで、自分の興味以外の事もやらなきゃならないはめになって、息がつまると落ち込んでいた時期もあったのだ。今はなんとか御両親を説得して、自分のペースを守れるようになったけど……。わたしがこの話をした時、あまり乗り気ではなかったのはそのせいなんだ。なんか、悪いことしちゃったな。
「ミリィ。ごめんね、変な話に加わらせちゃって」
わたしは素直に謝る。自分の感情をそのまま人に話してしまうのが、良くも悪くもわたしの癖なのだから。
「なに謝ってるのよ。最初に茶化したのはあたしなんだからさ」
ミリィは気にしてるそぶりを見せずにわたしに向き直る。
「ユミはさ、自分のやってることに疑問を感じちゃったんでしょ?」
鋭いノンコの質問は、そのままずばり図星である。
「わたしね、音楽が好きよ。楽器が好きよ。ホルンが好きよ。始めたきっかけは、『見ず知らずの他人をこれだけ感動させられるなんてすごい』っていう憧れなんだけどね。実際、奏者の側に立つと嫌なところも見えてくるわけ。それを素直に『嫌い』と思っている自分になんか疑問を抱いてしまったの。才能があれば、もうちょっと楽できたのに……なんてとんでもない考えも最近でてしまう。嫌々やってるならやめればいいかもしれないけど、どこかに『好き』という気持ちが残ってるんだと思うの」
わたしは、頭の中を整理できないまま想いをそのまま言葉にする。
「どうしたらいいかわからないわけね」
ノンコは自分のことのように難しい顔をする。
「しばらく離れてみれば? 音楽から」
そう言ったのはアンコだった。気持ちの整理がつかないまま練習をしていても上達はしないだろう。鳥居ちゃんには悪いが、来週は部活を休ませてもらおう。
だが、それが根本的な答えにはならないのはわかっていた。
「才能ってあるにこしたことはないと思うけどさ、あればあったでまた面倒なものよ。才能なんてなくたって、楽しく生きられるのが一番の幸せなんだからさ」
ミリィの意見はもっともだが、才能への憧れが一番強いのは才能のない人間なのかもしれない。わたしがこうまでこだわるのはその為だろう。
でも、そう決めつけている自分になぜか悲しいものを感じた。
……『ゼロと決めつけたくない』と、もう一人のわたしが叫んでいる。
☆
木曜日の放課後、わたしは部活を休もうと鳥居ちゃんのクラスへと急いで行った。
「鳥居ちゃん。あのさ、今日用事があるから悪いけど部活休ませてもらうね」
嘘をつくのはしのびない。だけど、迷ったまま練習を続けていても何もいいことなんてないのだ。
「げげぇ! そうなんだ。うーん、今日はさびしいな」
鳥居ちゃんはちょっとだけ悲しそうな顔をしながら、ちょっとおどけてみせた。
「ごめんね」
かなりうしろめたさを感じながら、その場を去っていく。
そのまま家に帰るのもさびしく、駅方面へと歩いてみることにした。
あてもなくぶらぶらとしていたわたしの足は、いつのまにかなじみの楽器店へと向かっていた。
それは、4階建ての中規模な楽器専門店で、1階は鍵盤楽器、2階は弦楽器、3階は吹奏楽器、4階は譜面や音楽書などがおいてあるところだ。わたしはいつものごとく3階へと向かっていた。バルブオイルもラッカーポリッシュも買い置きはあるから、買い物の必要はないのだが、そこに飾られている楽器を見るのが一つの楽しみでもある。憧れの結晶が目の前にきらびやかに飾られているのだから。
黄金色に輝くホルンたちはわたしの目にきらきらと映っていた。
-「お待たせいたしましたソノウさま」
ふいにわたしの耳に入ってくる聞き覚えのある名字。条件反射的に振り返って視界に入ったのは、やはりあの園生女史であった。
そして、店員から彼女に小さめの楽器ケースが渡される。
一瞬、思考回路が混乱した。なぜ、こんな所に彼女がいるのだろう。
疑問を解決すべく、わたしはとっさに彼女の名を呼んだ。
「園生さん」
彼女は振り返り、わたしに気づいた。だが、それほど驚いた表情はなかった。
「三浦さんもここを利用していたのね」
彼女は落ちついた表情で言葉を返す。
「園生さん、なんでここに?」
「そんなにめずらしいことじゃないと思うけどね。たまたまかち合っただけじゃない」
わたしは彼女の手元に目がいく。そこには、細長い小さな楽器ケースがある。あれは確かフルートケースだ。
「フルートもやるの?」
「いちおう金管楽器以外なら、なんでもやるわよ。今はピアノとフルートが専門だけど」
「初耳だな。園生さんがフルートやってたなんて」
「もし知ってたら、部活に誘った?」
「もちろん。あ、でもうちの部じゃ満足できないわね」
ちょっとした皮肉をこめてそう言うが、園生女史じゃなくても満足できないぐらいの部の状態は、かえって自分を落ち込ませる。
「私はもともとソリストだからね。ブラバンは肌にあわないのよ」
今日の彼女はなぜか温厚である。おかしいくらい普通の人に感じてしまう。
「それ自分の楽器?」
わたしは手元の楽器へ目がいく。
「そうよ。ちょっとオクターブキイの調子が悪くて修理に出してたの」
「いいよね。わたしも自分の楽器が欲しくてね」
「そういや、三浦さん。今日の部活は?」
「ちょっとしたサボリよ」
わたしは何気なくその言葉を発したのだが、園生女史には何か気に障ったらしい。
再びもとのきつい表情に戻ってしまった。
「あなただけは少しはマシだと思ってたけど、所詮シロウトね」
園生女史は冷たい一言を残しそのまま去っていく。
ぐさりとなにかが心に刺さる。
「待って!」
わたしは叫ぶ。
だが、そう簡単にあの園生女史が待ってくれるはずがない。
「待ってよ! 園生さん」
何かを誤解されたくなかったのだろう。追いかけていって強引に彼女の腕をつかむ。
「なによ?」
そう言われてわたしは言葉に戸惑った。彼女に自分の想いを伝えていいものかと。
バカにされるかもしれない、そんな感情が心に制御をかける。
「なんなのよ!?」
せかされて、わたしの中の想いが凝縮する。
「教えてよ。才能ってなんなの? それがない人間は音楽をやっちゃいけないの?」
涙が一粒地面へと落ちる。本当はこんなところを園生女史にみせたくない。くやしさが心の中で暴れ出す。
「三浦さん、落ちついて。感情的になってたんじゃ議論はできないわよ」
彼女は困ったように辺りを見回す。
「だってさ……」
それ以上何も言えない。何か言わなければいけないのに。
「おいで。知り合いのリサイタルに連れていってあげる」
きりっとした声がわたしの耳にこだまする。
連れられてきた場所は、セミプロのフルート奏者のリサイタル。親しい知人らしく顔パスで会場へと入らせてもらう。
席にいったん座ると、園生女史はどこかへと立ち去り、すぐにまた戻ってくる。
「はい、水分補給しな」
彼女の手からホットコーヒーを渡される。
「ありがと」
わたしは素直に礼を言うが、ほんとうは園生女史の意外な優しさが痛いくらい心にしみてくる。思わず自己嫌悪。
「スランプ? それとも迷い?」
「え?」
「練習熱心なあなたが部活をさぼるなんて」
「……」
はっきりと答えられない。
「少しは買っていたのよ。才能うんぬんは抜きにしてね」
「園生さんはなんで音楽やり始めたの?」
「聞きたい? 他人のきっかけなんて参考にはならないわよ」
「でも……」
わたしの問いを遮るように開演のブザーが鳴る。
「始まるよ」
幕が上がって出てきたのは20代半ばの女性のフルート奏者だった。
礼をして、ピアノの伴奏とともに演奏が始まる。
クラシックにあまり詳しくないわたしにはなじみのない曲だ。だが、親しみやすいメロディーと鮮やかな音色で心が躍る。なぜか素直に感動していた。
地味な演奏ながら、奏者の情熱が直接伝わってくる。わたしが求めていたものに近いものがある。感動させられた心は、わずかな熱を放っていた。
演奏が終わって、わたしは少しだけ興奮しながら拍手を送る。
「技術的には80%くらいの出来だけど。情熱がそれをカバーしているいい例よ。
だけどね、私は技術も情熱も100%以上じゃないと満足できないの」
園生女史はぼそりとわたしにこぼす。理想は誰でも自分の中にある。そして、普通の人は少しずつ妥協をしながら理想を削っていく。だが、彼女の場合は現状を厳しく見つめて妥協を許さない。ふと、ミリィの言葉を思い出す。才能があればあるほど、現状に満足できずそれ以上を望むと。
自分にも他人にも厳しくするのは当然のことなのだろう。でも、それは同時に抱えきれないほどのジレンマを生む。他人でさえ苛立たしいのに、自分自信に対する疎ましさは、もしかしたら常人が考えられる域を超えているのかもしれない。
そんなにまでして自分を苦しめて妥協を許さない彼女は、いったい何を求めているのだろう。
「園生さん、さっきの答えを聞かせて。どうして音楽を始めたか」
彼女はわたしの顔を見ず、そのままごまかすように答える。
「さっきも言ったでしょ。他人のきっかけなんて参考にはならないよ」
「自分の参考にするんじゃないの。園生さんに興味があるのよ」
「ライバルとして?」
園生女史は一瞬の嘲笑をわたしに向ける。それはぞっとするような感じのものだった。
「わたしと園生さんとじゃ、比べものにならないかもしれないけどね」
ため息まじりの答えは完全に彼女に圧倒されている。別に怖いわけじゃないのに。
「たしかに比べものにならないかもしれないね。でも、ライバルとして勝手に思うのはどうでもいいわ。あまり前向きな気持ちとはいえないけど」
園生女史は冷たく語る。だけど、まったくその通りのことだ。反論の余地もない。
数秒の空白の後、彼女の方から口を開く。
「いいわ、教えてあげる。私が音楽をやっている訳を」
「え?」
頑固だと思っていた彼女があまりにも簡単に話し始めたので、わたしは少しだけ拍子抜けした。まだまだ、わからない人だ。
「私が音楽を始めたのは物心つく前よ。両親ともに仕事上音楽に関わっていたからね。だから、きっかけなんてないに等しい。半ば強制的だもの。やっと物心がついて気づいた時にはもう、音楽に対するジレンマしか持っていなかった。他人の演奏に満足できず、自分にもそれだけの技術がない。私は必死で努力した。両親の期待に応えようなんて貧弱な考えじゃなくて、自分の技術に満足できなかったから。小さい頃はけっこうつらかったな」
「ねぇ、音楽をやめようとは思ったことはないの?」
「やめようとは思わなかったな。自分の技術に満足できなかったのが、つらかった理由。だから、やめてしまったらそこで技術は止まってしまうのよ」
やっぱり、わたしとは根本的に違う人間のようだ。でも、その気持ちはわかるような気がする。
「わたしの友達も言ってたわ『才能があればあるほど、それ以上を望む』って。そういうこと?」
「そうかもしれない。私が一番気にしてるのは今以上を望むこと。だから、わたしは音楽を嫌っちゃいないわ。本能的に『嫌い』という感覚が麻痺してるみたいなの。
そのかわり『好き』にもなれないのよ」
「それってなんか虚しすぎる……」
わたしはつい本心をほろりと出してしまった。しまったと思いはしたものの、もう遅い。下手な哀れみは彼女を侮辱することになる。
「あ……ごめん。そんなつもりじゃ」
「別にいいわ。私の本当の気持ちなんか誰にもわからないのだから」
園生女史は寂しそうに呟く。
そんな彼女を見ていて、自分とは別世界の人間であるということを改めて認識させられた。これでは、ライバルになんかになりえないはずである。
「たぶんね。私とあなたじゃ『音楽』ってものに対する価値観が違うのよ。わたしにしてみればあなたたちのやっていることは『遊び』でしかないんだから。ただ、本気になって遊んでいる人を非難する気はまったくないの。わたしの邪魔さえしなければね」
いつもよりかなり穏和な言い方だが、わたしにはどうしても納得がいかない意見だ。
「『遊び』なんかじゃない!」
それは心の叫びでもあった。『遊び』というレッテルを貼られることは、わたし自身を否定されているということ。黙ってなんかいられなかった。
「所詮シロウトはプロにはなれないのよ。あなたはプロになれなくても満足なんでしょ?」
だんだん、ささくれだった面を外に出す、もとの園生女史に戻っていく。
「あなたみたいに音楽を好きになれなくて、いったいどうやって観客の心をつかむのよ?」
わたしも負けてられないと、だんだん感情的になっていく。今度は絶対泣くもんかと心は強気。
「そんなもの、最高の技術と情熱があれば問題ないわよ。プロは好きな曲だけ演奏すればいいってものじゃないの。そんなときに好き嫌い言ってたら、それこそお客はしらけるわ」
「好き嫌いがあったっていいじゃない。嫌いなものがあるだけ、好きなものにかけられる情熱は誰にも負けられないような強いものがあるのよ」
わたしに対する唯一の自信は『好き』でいることしかない。迷い始めた元凶かもしれないけど、今だけは信じたかった。
「あなた『下手の横好き』って言葉知ってる? 『好き』ってことに満足しちゃって『上手』のほうには興味がいかないんだってね。そういう中途半端でも満足するのがシロウトなのよ。三浦さん。あなたみたいな人が典型的な例なのよね」
「そこまで言うことないでしょ!!」
「あら、人のことは言えないんじゃない」
わたしはムッときて、そのままそこを立ち去った。後から考えれば、リサイタルに連れてきてくれた礼を言わねばならなかったのに。
とりあえず、気持ちが落ちついてきたときにはもう、自分の部屋のベッドの上だった。
☆
「今考えてみれば、不毛な争いだったと思うの。園生さんに対して不当な攻撃をしてしまったのかもしれない」
次の日のお昼休み、みんなで机を囲んでお弁当を食べながら、わたしは昨日の事を淡々と語った。
「反省してるの?」
ノンコがわたしの顔をのぞき込む。
「ううん。彼女は強いからそういう攻撃にも十分慣れているのかもしれない。かえってわたしの方がダメージ受けてしまったわ」
ふうっとため息をつく。
「じゃあ、リターンマッチといきましょうか」
元気ハツラツのミリィは、何を思ったか突然そんなことを言う。
「なにするつもりよ」
アンコの笑顔がひきつっていく。
「それはもうアレしかないわよ」
ミリィは不気味な笑みを浮かべている。何か嫌な予感がしないわけでもない。
「あの園生さんにどんな方法があるってのよ」
アンコはあきれた声で呟く。
「もちろん目には目をよ。向こうが音楽でくるならこちらもそれにあわせるだけ」
ミリィはやけに威勢がいい。その自信はどこからくるのやら。
「音楽ったって、専門のユミでさえ歯が立たなかったんだよ」
ノンコもミリィの自信に不安を感じているようだ。
「ユミ! 園生さんを連れてらっしゃい。パーティー始めるわよ」
こらこら調子にのるんじゃないってばさ。
「パーティーってまさか……」
わたしの予感は当たったようだ。
「カラオケに決まってるでしょ!!」
「……カラオケねぇ」
やはりアンコも不安そう。
「ミリィ。あんた自分がやりたいからじゃないでしょうね?」
「へっへー。そんなことないってば。ちゃんとバトルシステムのあるとこにするんだから」
「なんか、とんでもないことになりそう……」
わたしはひとりごちた。
放課後、園生女史への切り込み隊長をつとめたのは、言いだしっぺのミリィであった。今、彼女は無敵状態にある。
「園生さん」
ミリィの邪気を秘めたような明るい声に、園生女史はいささか訝しげに振り向く。
「なに?」
「今日、暇? パーティーしない」
「いきなりなによ?」
マイペースの園生女史が少しだけうろたえる。
「嫌とは言わせないわ。こないだのオトシマエをつけてもらうのよ」
ミリィは無理してドスの効いた声を出そうとするが、はたから見てればかなり笑える。そんなもの、園生女史どころか、普通の人にも通用しないってのに。
園生女史は、ミリィのかなり後方にいたわたしの顔を見て小さなため息をつく。
「どうぞご勝手に。ただし、つまんなかったらすぐ帰るわよ」
怖いくらい素直に従う彼女の答えは、わたしたちを不思議がらせる。実際、もっと抵抗を受けるだろうと思っていたミリィは、拍子抜けして気の抜けたような顔をこちらへと向けた。
「どこへ行くの?」
園生女史が近づいて来てそう聞く。あきらかにわたしへの問いだ。
「幹事はこの子よ!」
わたしはミリィの腕をつかんで園生女史の前へと彼女を引っ張る。
「駅前の『J・BOX』へ、れっつごぉー」
ミリィはノーテンキに叫んだ。
たぶん、わたし以下アンコやノンコはすごく不安を感じていただろう。
☆
平日のまだ夕方近く、店も開店したばかりだったので待ち時間もなくわたしたちは部屋へと入れた。もちろん、ミリィの提案した通り歌唱力によって点数がつくバトルシステムのある部屋だった。
中に入ってミリィたち三人はわいわいがやがやとドリンクがどうとか、歌う順番とか話し合っている。だけど、わたしはそんな中に入り込める雰囲気ではない。
わたしの隣に静かに座る園生女史が気になってしょうがないのだ。
彼女がそんなに好奇心が旺盛とは思えない。
なぜ、素直にわたしたちの誘いにのったのだろうか。
考えれば考えるほど園生女史のことが不思議に思えてくる。
そうこう考えているうちに、照明が暗くなり1曲目が始まろうとしていた。
マイクを持ったミリィが真面目な顔になり、いつものごとく台詞から入る。
「演歌一筋十七年、日本の心を楢崎美鈴が伝えます。唄うは『雪月花』」
本人は真面目なつもりだろうが、わたしには『笑い』を取る以外なにものにも聞こえない。しかも、いきなりの演歌とは掟破り。
「ミリィ、いきなり十八番を歌うんじゃないってば」
当然のごとく、アンコのブーイングが入る。
「ひょっとしてミリィちゃん、勝ちを焦ってるのでは??」
ノンコが笑いをこらえながら呟く。
園生女史は怖いくらいの笑みをミリィに向けていた。
その場の違和感に気づいたのはわたしだけではないはず。
だが、とうのミリィは何食わぬ顔で歌へと入り込む。いったん歌が始まれば、地震が起きよう火災報知器が鳴ろうが歌い終わるまでこの場をうごかないだろう。
それから、ミリィはけして音痴ではない。むしろ、コーラス部にいてもおかしくないほどの美声の持ち主だ。ただ、完全に趣味と割り切っている為、音楽への興味は歌う事以外はないに等しい。
感情のこもった素直な声が室内に響きわたる。声の大きさも感情の豊かさに比例して大きくなっていく。マイクなんかいらないのではないかというくらい『通る』声。声楽に関しては、本気になったこの子にはかなわないだろうと思っている。
十八番というだけあって、力の入れ方が違う。しかも、完全に自分に酔っている。
たしかにうまいんだけど、少し過剰すぎるのが玉に瑕だ。
だけど、やっぱりミリィの歌には素直に感動できる。余計なことを考えない、邪心のない歌声は『好き』である。
歌が終わりみんなからの拍手をもらうミリィ。力の入れ過ぎなのか、感情の込めすぎなのか、瞳にはうっすら涙の膜が揺れている。
ふと、気になっていた隣の園生女史をちらりと見る。
彼女は関心したような顔で拍手を贈っていた。
曲が完全に切れたところで、照明が真っ暗になりドラムロールが聞こえてきた。
そして、機械的なファンファーレとともに、点数が表示される。
【91点】
すかさず両手を挙げて決めのポーズを取るミリィ。
だてに歌姫を名乗ってないね、この子は。
「楢崎さん」
ふいをついて、園生女史がミリィを呼ぶ。
「なに?」
歌い終わった後のミリィはとても機嫌が良いから、少々の事では動じない。
「あなたもしかして、歌手志望とか?」
「うんにゃ、あたしはただの歌好き。カラオケ界の歌姫よ」
ミリィのおどけと、園生女史のマイペースな言動、どちらが強いのだろう。
「惜しいわね。きちんと声楽やれば、伸びるのに」
「あたしゃ、これでプロになる気はないもん」
ひょうひょうとミリィは答える。
そんなミリィにわたしはちょっとだけ嫉妬した。普段なら、そんなことは考えもしないというのに。いや、考えるのをやめてしまってるだけなのかもしれない。
「さあ、今度は園生さんの番よ」
ミリィは自分の握っていたマイクを園生女史に差し出す。
「私は遠慮するわ。知ってる曲がないもの」
「学校で習ったような童謡だってあるし、それに園生さんプロ志望でしょ。一回聞けば歌えるはずよ」
「じゃあ、他の人から歌って。私は最後でいいわ。それならいいんでしょ?」
園生女史はやんわりとミリィにマイクを返す。
というわけで、次はアンコ、その次がノンコ。そしてわたし、園生女史の順番となっていった。
2人とも歌に関しては上手い方ではなく、わたしも自信があるわけではない。
結果はアンコ【72点】ノンコ【68点】。
ついにわたしの番が回ってくる。
少し照れながらマイクを握る。あまり音域が広くないわたしのアルトヴォイスは、歌うことにはあまり適していないようだ。だが、いきがかり上歌わぬわけにはいかない。
勝負をあきらめているわたしは、今自分が気に入っているニューミュージック系の、まだ歌ったことのない曲を選んだ。音域はかなり広い。おまけに、ヴォーカルは透き通るようなソプラノヴォイス。
歌を聞いて感動した憧れは、それを自分のものにしたくなる。わたしみたいな人間、いや、ほとんどの人間が聞き手のままで満足できるわけがない。だからこそ、カラオケなんてものが世の中に蔓延しているのだろう。
わたしは心の中から邪気を追い払った。憧れを結晶にさせて『声』としておもてに出す。
高音域の旋律は、わたしにはかなりしんどい。それでも、しぼり出すように心の底から歌った。音楽というものに含まれる『魔法』のようなものに身をまかせて。
サビの最高潮の部分を繰り返し、フェードアウトしていく。
わたしはにわかに汗をかいていた。
室内には『お約束』の拍手。
点数はファンファーレこそ鳴らなかったが健闘して【88点】。
「ひゅーひゅー、サイコー」
「うまいぞ、ユミ!」
「愛してるよ、ユミちゅわーん」
その親友たちの盛り上がりをよそに、園生女史は感想も述べずわたしに呟いた。
「私もその曲歌う」
一瞬のその場の沈黙の後、ノンコはおちゃらけたようにアンコに言う。
「これは本格的なデスマッチとなりましたね、解説の朝倉さん」
「そうですね。比較的不利である新しい曲に挑戦したユミ選手に対して、園生選手もまったく歌ったことのない曲。五分に見えるこの勝負。しかし、曲をよく知っていたユミ選手のほうが優勢ではないでしょうか」
いきなりスポーツ番組の解説のような漫才を繰り広げるアンコとノンコ。
人が真剣になってるのを茶化しよって。
「さて、お手並み拝見といきましょうか」
さすがミリィは、落ちついた口調でそうこぼす。
みんなそれなりに反応を示したが、わたしだけは何も言えずにいた。
照明が暗くなり、もう一度あのイントロが始まる。
そして第一声。
透き通ったきれいな声。
普段、話している時のような低い声ではない。
さすがにプロを目指しているだけのことはある。ジャンルは違えど、基本は忠実にクリアしている。一音一音、噛みしめるかのように確実に声をはめ込んでいく。
それも、自然な感じでだ。
やはり『才能』なのか。
音感という天性の『才能』を、またもや見せつけられる。
曲は終わり、みんなの感心した声で我に返るわたし。
「初めてにしちゃ、けっこう上手いじゃん」
ミリィは手放しで誉める。
だが、わたしはまた何も言えない。
点数が出る。
【88点】
わたしと同じ。とはいえ、所詮、機械が決めるものだ。あまりあてにはできない。
しかも、園生女史にはかなりのハンディキャップがあったはず。
点数を見た園生女史からため息がこぼれる。
「所詮、機械だからね。点数なんてお遊び程度の基準でしかないのよ。わかってると思うけど」
そう園生女史に、慰めにも聞こえる言葉を言ったのは、あんなにも彼女を敵対していたミリィだった。
園生女史は急に立ち上がる。
「もう帰るの?」
とアンコが聞く。
「ちょっとお手洗い行って来るだけよ」
そう言って、出ていく彼女。
「わたしも行って来るわ」
わたしは追いかけるように席をたった。とにかく彼女に何か言わなくちゃいけない衝動にかられていたのだろう。
お手洗いの扉を開けると、鏡の前で顔を洗っている園生女史が見えた。
室内ではわからなかったが、少しだけ頬が紅潮している。みんなの熱気にやられたのか、彼女自身のものなのかはわからない。
「たまにはいいかもしれないね。『遊び』で音楽やるのも」
わたしが入ってきたことを確認してか、園生女史はそう呟く。
「まだ言ってる」
わたしは少しだけくやしかった。ただ、この前のような彼女への憎しみはなかった。
「わかってる。あなたの音楽は『遊び』じゃないんでしょ」
鏡に映ったわたしに目を合わせる園生女史。
「ずるいよね、才能のある人は。わたしが一所懸命努力したことを、いとも簡単にこなすんだから」
「簡単じゃないよ。昔の私だったら、あそこまで歌えない」
「それって謙遜?」
「違う。レベルの問題よ。あなたがこだわる『才能』の」
「相変わらずきついよね、園生さんて」
「あなたがこだわってるのは本当のことでしょ。話をしていてよくわかる」
「だからなんなのよ。こだわって悪い?」
「なぜこだわっているのか考えたことある?」
「そ……それは」
「よく『ないものねだり』っていうでしょ。人は自分にないものを欲しがるって」
園生女史の容赦ない意見は、再びぐさりとわたしの心に刺さる。
「ほんと、園生さんっていじわるよね。わたしだって自分に才能がないことぐらいわかってる。でもね、認めてしまったらなにもかも崩れさってしまうのよ。わたしの存在証明である憧れのすべてが……」
わたしはまた涙を流していた。最近は情けないほど涙腺がゆるすぎる。
「三浦さん。私を悪者にするなら、最後まで話を聞いてね」
園生女史は、わたしの涙に気づいたのか困ったような顔をして話を続ける。
「才能ってのはね。ベクトルなのよ。それぞれ方向性を持っていてね。例えジャンルが同じでも、人によってそのベクトルは違うの。私は音楽の才能があるとよく人に言われる。でも、それは一方向だけ。私にしかない一方向。それをつい最近まで全部だと勘違いしていた。昨日レッスンの時、師匠に言われて気が付いたんだけどね。これって、私の中の『驕り』がそう勘違いさせていたのかもしれない」
「園生さん……」
最近の園生女史の素直な行動は理解するのが難しかった。だけど『園生女史』などと呼んで、彼女を堅物のように思っているわたしの情けない心の方がいけなかったのだろう。
彼女--園生さんだって、わたしたちと同じように人間味を持っているのに。
「だからね。あなたにどんなベクトルの才能があるかは私にはわからない。だけど、これだけは言えるのよ。私の『才能』のベクトルとはまったく違うってことを。だから、そんなものを欲しがらないで」
彼女は、鏡の方から向き直ってわたしを見つめる。そして、つけ加えるように再び語りだす。
「私はね。『音楽』は好きになれそうもないけどね、あなたたちのことは『好き』になれそうな気がするの。クラスの他のみんなと違って、あなたたちはどんなに些細な事でも『自分』らしさを誇りにしているから。そんなところに、私はちょっと憧れ始めているのかもしれないね」
園生さんの暖かみのある言葉がわたしの心を動かす。
「やっぱり、あなたをライバルと思うことにした。わたしってあきらめが悪いし、欲張りだからあなたの才能がうらやましいの。絶対、自分のものにしたいと思っている。たしかに園生さんとじゃ才能のベクトルが違うかもしれない。けどね、このうらやましさってものすごく純粋なものなわけ。あきらめるとかそういう次元の問題じゃないの」
開き直っているのか、強気に出ているのか自分でもわからない。ただ、今までつまらないことで悩んでいたことが馬鹿らしくなってきたのだ。
「私は現状維持はしない。どんどんレベルは上がるよ。それでも?」
「だからこそ、ライバルにしがいがあるんじゃない」
「ずいぶんと強気になったじゃない。まあ、また泣かれるよりマシだけど」
彼女は口元を弛めて笑みを浮かべた。
「それからね、園生さん。わたしもあなたを『好き』になれるかもしれないよ。考えてみればわたしにとって、わからない事が『嫌い』になる理由なんだと思うの。だから、ときどき音楽を嫌いになる時があったんだよね」
「そうね、私もあなたたちを心の底で嫌っていたのは、やっぱり知らなかったからなんだろうね」
「じゃあ、これからもよろしくって事で」
わたし左手を出す。いちおう、わたしからみればライバルだしね。
「わたしは右手でもいいんだけど」
と園生さんは言いながら、左手で握手を交わした。
と、その時、ガチャリとドアが開き知らない人が入ってくる。
まずい、わたしたちはお手洗いにいたのだった。
気まずい雰囲気で急いでそこを出る。
が、気分はかなり爽やかになりつつある。わたしはニコニコしながら鼻歌を唄った。
そんなわたしを見て、園生さんはぼそりと言った。
「もう1曲歌うからね」
わたしは初めて彼女に微笑みかけた。
(了)