00 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
眠り姫の目を覚ますには、とっておきの口づけが必要。
あたしにかけられた魔法を解くのは誰?
ここから助けだしてくれるのは誰?
その日は朝からどんよりとした天気だった。
窓際の席のあたしは、休み時間の間ぼんやりと外を眺めていた。窓の外には何が見えるでもなく、ただ高等部の校舎がどんと構えているだけで、景色を楽しんでいるわけではない。三年間も中等部の校舎にいれば見慣れるどころかあきる風景だ。
いちおうあたしは中学生である。童顔よりも幼い顔立ちの為、クラスメイトからは小学生だなんてからかわれてしまう。だけど、あたし『楢崎美鈴』はもう立派な中学生だって。
「ミリィ、傘持ってきた?」
ぽんと肩を叩かれて、クラスメイトの朝倉杏子の声が聞こえてくる。
『ミリィ』とはあたしのニックネームで、本名の『美鈴/ミリン』では、調味用のお酒(味醂/ミリン)と間違えてしまうと、杏子がつけてくれたものだった。あたしとしては、『ミリン』の方が気に入っているのだけどね。でもまあ、せっかくつけてくれたのだからと、呼ばれてあげていたりなんかする。それほど悪い愛称じゃないしね。
「あたしは、いつも折りたたみよ」
ちょっと機嫌が悪かったものだから、ついそっけなく答えてしまった。
杏子とは中一からのなじみなので、いまさら作った笑顔を見せてもしょうがない。
「あんた最近冷たいんじゃない?」
冗談まじりでそう言いながら、あたしの背中によっかかってくる杏子。ぐずついた天気で、ただでさえ気分が滅入っている時にうっとおしいマネはやめて欲しいと思う。
だけど、もう、それを振り払う気力さえ残ってなかった。
01 -- SIDE.B 【佐々間綴】
参ったな。
傘はきちんと持ってきたのに、学校に忘れてきてしまうとはなんたる不覚。
私の予想じゃ、降り出すのは夜になってからだと思ったのだが……ああ、読みが甘かったわ。佐々間家の中じゃ、夕と同じくらいに勘が良いと思ったのだが。
私は心の中で少しだけ反省しながら、近くのバーガーショップへと駆け込む。
素直に駅までバスで帰れば良かったのだが、琴音に付き合って本屋なぞに立ち寄るからこんなことになってしまったんだ。
そういやあの子、傘持ってたっけな?
「いらっしゃいませ。秋のヘルシーセットはいかがですか?」
わざとらしいような、はきはきとしたメゾソプラノ。ここには、クラスメイトの美恵がバイトしている。
「コーラ」
私は、ぶっきらぼうにそう注文する。
「ご一緒にポテトはいかがですか?」
妙に慣れた口調。私はコーラ以外は飲む気がしないんだ。
「コーラ一つ、美恵のおごりね」
私がにやっと顔を緩めると、彼女は仕方がなさそうに声のトーンを少し落とす。
「そりゃ、綴ならコーラぐらいおごれないことはないけど……」
「じゃ、おごって」
「ゲンキンな奴!」と言いたげな顔で私のことを見る。
「岬ちゃーん。コークのM、満杯! でお願いね」
美恵は奥にいる従業員に声をかけると、私のほうを振り返りまじまじと見つめる。
「綴ちゃん。今日は何のようでちゅか?」
私は幼稚園児か?
「急に降り出してきたから雨宿りよ」
「あれ? 傘持って来なかったっけ?」
「学校に置いてきちゃってさ」
美恵は「ドジ」と小声で言うと私を哀れげに見つめる。あんたに哀れんでもらいたかないよ。
「お待たせしました。コーラのMサイズです」
コーラが目の前に来たとたん、口調が一転して営業用スマイルが表れる。
「さ…さすがプロ」
私は苦笑しながらストローとコップを受け取る。しかし、何かいやな予感にみまわれた。コップの感触が変なのだ。
道路側の雨の良く見える席に座ってコップにストローを挿そうとする。が、ストロ
ーが挿さらない。
「げ!」
蓋を開けてみると、氷がぱんぱんに入っていて液体の部分が少ししかない。
美恵、あんたはそういう奴だったんだよね。と、私は頭を抱え込む。
氷を灰皿に少し出しながらなんとかストローを挿すと、中身をケチケチとすすりながらしばらく、ぼけーっと外を眺める。
外には、憂欝な雨がしとしとと降り注ぐ。
「いやな雨……」
なにげにそうこぼす。
この雨がただの雨なら、私の気分もそれほど憂欝にはならないだろう。もともと、雨が嫌いではないのだから。
ショップに備え付けのペーハー計がかなりの酸度を示している。
酸性雨。
いまや雨は天の恵みではなかった。
02 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
雨の放課後。
ユーウツすぎるほどの天気はあたしの心と同じ。
思わずため息がこぼれてしまう。
「ミリィ」
後ろから杏子が声をかけてくる。
「アンコ…」
あたしは条件反射的に杏子の愛称を呼ぶ。
「わたしをおいて一人で帰るなんてずるいぞ」
息をきらせながらあたしに文句を言う杏子。どうやら走ってきたらしい。
「あ、ごめん。ぼぉーっとしてたから……」
あたしの言葉に偽りはない。ただでさえユーウツな雨に加えて、あたしはあの人の事ばかり考え込んでしまっている。他のことにかまう余裕なんか今のあたしにはないのだ。
逢いたいのに逢えないのは、とてももどかしく悲しいもの。何かの悪意があたしの心を痛みつけているみたい。
「まーた、あの人の事考えてたの?」
杏子の問いに、あたしは何も答えず空を見上げる。そういえばさっき、酸性雨注意報が発令されたんだっけ。そんな事を思いだして、今度はおもむろに鞄から傘を取り出す。
そして、傘を丁寧に開きながらあたしは心の中で呟いた。
この雨は悪意に満ちている。
03 -- SIDE.B 【佐々間綴】
「やまないね。雨」
後ろから急に声がしたもので、私は一瞬どきっとした。
「ほら、傘貸してあげる」
窓の外の雨をのぞき込みながら、美恵は私にオレンジ色の傘を差し出す。
「いいの?」
私は美恵の顔を窺う。
「いいって、どうせ店の傘だし」
「なんだ、美恵のじゃないのか。せっかく、久しぶりの友情を実感できると思ったのに」
私は冗談まじりでそういって笑いだした。
「なぁに言ってんのよ。わたしがあんたの為に、自分を犠牲にすると思った?」
美恵も、うふふと笑い出す。
ぱっとその場が明るくなり、私の中の憂欝さも少しはまぎれたようだ。
「嫌な雨だけどさ、わたしはけっこう気に入ってるのよ」
ふいをついて美恵がそう呟く。
「え?」
私は美恵が何を言ったのかが一瞬理解できなかった。いや、言った言葉がなんであるかは聞き取れたのだが、そこに込められた意味を理解するのに時間がかかってしまったということだ。
「傘返すのはいつでもいいよ」
美恵はごまかすようにそう言うと、店の奥へと行ってしまった。
私は立ち上がると、もう一度窓の外の雨を見る。
汚らしさを知りつくしてしまったかのような酸性雨。
おもえば、この街で一番素直なものなのかもしれない。
私は感慨深さを抱きながら、出口へと向かった。
降りしきる雨。
あなたをのけ者にするつもりはないの。
ただ、私にはあなたを受けとめられるほど強くない。
だから今は、しのげる程度にあなたを感じていたい。
そして、この街もあなたも私も、すべてが優しくなれることを願いたい。
私は、傘を開く。
”世界のバーガーショップ ファースト・バーガー”
青い大きな文字で傘にはそう書かれてあった。
「美恵!!! あんたって子は……」
04 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
家の近くのバス停であたしは先に降りる。
杏子に「バイバイ」と手を振り、そのままバスを振り返らずに家路を急ぐ。
悪意の塊である雨の中にいるのは気分が優れない。家に帰ったら、お気に入りの音楽でも聞いて心を落ちつかせよう。そう思いながら足を早める。
角を曲がった所で、あたしの視界に一つの人形が映る。
公園の塀の所にフランス人形が雨に打たれながら座っている。
誰かが忘れていったのだろうか?それとも捨てられてしまったのだろうか?
あたしは、なぜか吸い寄せられるようにその人形のそばまでいき、その顔を眺めた。
雨を浴びて、少しうす汚れてはいるが、かなり美人なフランス人形だった。
手に取って顔を撫でてみると、人形はなにげに喜んでいる表情をしているかのように思えた。自己満足の表れかもしれない。だけど、このまま雨ざらしにしておくわけにはいかない。
だって、この雨は悪意に満ちているのだから。
人形を胸に抱えると、あたしは家路を走りだした。
☆
あたしを裏切る天使たち。
大空には汚いものなんかない。
そう信じていた頃。
空の上にはきっと天使がいると信じていた。
田舎のおばあちゃんの所で見たきれいな星空。
降りだしそうな星の輝きはあたしの心を躍らせていた。
いつか天使が舞い降りてくるのだと思っていた。
だけど、この街に来てそれは偽りであることがわかった。
ここでの天使は、あたしに悪意を抱く。
灰色の空の灰色の天使は、灰色の雨とともにあたしたちを痛めつける。
きれいなものなんて何もない。
タオルで丁寧に人形の顔を拭き、その髪をとかす。
あの雨のせいで、頬紅や口紅の朱が落ちかかっている。
「かわいそう」
思わず人形を抱きしめてしまう。
あなたはあたし。
あたしはあなた。
悪意の雨にうたれて、きれいなものを見る瞳をどんどん削られていく。
壊れてしまった微笑みはもう元には戻らない。
ふと、心をよぎるもの寂しさ。
あの人に逢いたい。
あたしにほんのちょっぴりの希望をくれたあの人に。
05 -- SIDE.B 【佐々間綴】
眠れない夜というのは誰でもあるものだ。
ベッドに横たわって天井を見つめる。
幼い頃は思いもしなかった今の自分。
何かを得るよりも、失ってきたもののほうが多いような気がする。
でも、私はそんなに弱くはないはず。
どんなに傷ついたって、それより熱く抱きしめられるものがあれば私は満足。
幼い頃、どんなことがあっても大事な人形を放さなかったように、私自身の大切なものさえ放さなければ何を失ったって平気。
平気なんだけどね。
私は寝返りをうち、ベッドの横にある机の上の時計を見る。
午前二時三十八分。
平気なはずなのになんで眠れないのかなと、考えて込んでしまう。
やっぱ何かひっかっかってるのかな?
私は布団にもぐって再び悩み続ける。
うん、私って弱い人間だわ、と自分で納得してまた落ち込む。
そんな私の頭に、ある女の子が浮かんでくる。
あれは、たしか一週間前の学園祭。
私の描いた絵を、一途に見つめていたあの子。
タイトルの【朱(バーミリオン)】にあるように、バーミリオンをふんだんに塗
り込んだ私の夕焼け。これといって特徴はないけど、それを描いた頃の私のすべて
がその絵に込められていた。
そんな私の絵を見てくれたのだもの、ついつい声をかけてしまったのだ。
あの子は声をかけられた事に驚きながらも私の絵を褒めてくれた。
「あたしこの絵、とっても気に入りました。雰囲気とかすごい好きです」
私はうれしくなって、その子に笑みを返した。
「ありがと。この絵って私の分身みたいなものだからね」
そしたら、あの子ったら私のこと熱い眼差しで見つめてだして、
「絵のイメージとぴったりですね。とっても……その……きれいで」
私ったらすっかり照れてしまったわ。
私のことを「きれい」と言ってくれるのは嬉しいけど、あの眼差しは尋常ではなかったぞ。
ま、好いてくれるのはありがたいけどね。
でも、あの子もわりとかわいかったと思う。素朴なかわいさは、同性から見ても嫌味がなくて好感はもてるタイプだった。
今、どうしてるのかな?
06 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
朝はとってもユーウツ。眠い躯をむりやり起こして出かける支度をする。
そして、ユーウツな気分のままあたしは駅のホームに立つ。
ホームには通勤、通学のひとたちで溢れかえり、次々と来る電車に押し込まれていく。まるでオートメーション化された工場のように毎日毎日それが繰り返される。
本当は逃げ出したい。
だけど、今のあたしには逃げる場所さえもありはしないの。
誰か助けて。
あたしをここから連れ出して。
そう思いながら一日が始まる。
あたしは、朝という時間があまり好きではない。人によっては、その一日の始まる雰囲気が好きだという。そういう人はたいてい自分に満足し、未来に希望を持っているのだろう。
あたしだって、本来なら華やかな未来を夢見る乙女のはず。だけど、この街がそうさせてくれないのだもの。
だから、あたしにとって朝はとってもユーウツなの。
今日も、いつものように電車に押し込められて、一日が始まる。
希望なんて持ちたくてももてない。
静かに目を閉じ、時を待つのも楽じゃない。
電車の中であたしはじっと耐えている。
果てしない時間を、そして泣き出しそうな心を。
あたしは、そんな心を何とか癒そうといろいろ工夫をする。
ただじっとしていただけでは、本当におかしくなってしまうだろう。
あたしはいつも先頭車両に乗り、非常用の乗務員出入口の窓から進行方向の景色を眺める。とはいっても、地下鉄なので外は闇の世界である。
それでもあたしが覗いているのは、電車が駅につく瞬間に目の前がぱっと明るくなる安堵感に期待しているからだ。堪え忍ぶ心を、一瞬の安堵感がごまかしてくれる。
逃げられないのなら、ごまかすしかないもの。
今日も、闇の中に安息の地を求めて進行方向を眺める。
目的の駅までは七駅。
あたしは、七回目の光で闇からとりあえずの解放を受ける。ただし、それは見せかけの解放。再び学校という名の闇に取り込まれる。
四回目の光が闇を引き裂く。
条件反射のように、あたしの胸に偽りの安堵感が生まれる。
だが、その光はいつもと違った。
ひとがいる。
光の中にまっさきにひとが見える。
よく見るとあたしと同じくらいの年の女の子だ。
生気のない瞳でこちらを見つめている。
「あ…」
思わず声がこぼれる。目が合ったと思ったのだ。
本当は、あたしを見ているわけではなく、ただ電車を見ているだけなのだろうけど。
ごまかしも含めて、その子を冷静に見つめ「白線より前に出て危ないなぁ」と思った瞬間、あの子は跳んだ。
考える暇もなく、電車に急制動がかかる。
耳障りな金属音。
老朽化した線路と車輪が悲鳴をあげる。。
あたしの身体は慣性の法則に従って、乗務員室との境の壁に押しつけられる。
同時に何か、不快な感覚が車体からあたしの躯へと伝わる。
鈍い悪寒を背筋に感じて、少し吐き気がしてきた。
電車は、ホームの半分ほどまで来てやっと止まった。
一瞬、頭の中はパニック状態に陥る。
車内放送が流れる。
ひどく落ちついた声で、人身事故との事を伝える。
乗客たちもその車内放送を冷静に受けとめている。
あたしはやるせない気持ちでそれを聞いた。
電車は数分ののち、停車位置を直すために再び動きだす。
途中、微かな鈍い音が耳に届く。
電車は止まり、扉が開き、再び車内放送が流れる。
後処理を行う為、二十分ほど遅れるということだ。
その放送でそれまで、静かすぎるほどだった車内の人たちがざわめきだす。
舌うちしながら露骨に嫌な顔をする人。
何事もなかったように目をつぶり座席に座ったままの人。
時間を気にして、そわそわと腕時計を見る人。
駅員の慣れた対応は、飛び込み自殺の多い事を物語る。
みんな何が起こったのかはわかっているはず。
だけど、それに対して何も感じていないのだろうか?
あたしはいたたまれなくなって電車を降りた。
降りる途中、涙が電車とホームの隙間に吸い込まれていった。
泣きたくなんかなかった、でも、泣かないと気分が悪くなって吐きそうだ。
あたしは一瞬だけどあの子を知っていた。
あの子の顔が頭にこびりつく。
なんで?
あたしは呆然としながら心の中でそう呟く。
「まったく何考えてるんだか…」
すぐ横でサラリーマン風の若い男の人が愚痴をこぼす。露骨に嫌な気持ちを吐き出すような感じだ。
「まあ、電車通勤やってりゃ一度や二度はあることさ」
若い男の同僚らしい人がそう応えた。
「しかしよぉ、何も朝の通勤時間を狙ってやるこたぁねぇと思わないか?」
あの子がどんな気持ちでいたかなんて考えようとはしない、自分の都合しか考えられない。もう一人の嫌なあたし。
「近ごろのガキはすぐ自殺するからなぁ。あいつら死ぬことなんてなんとも思ってないんだよ」
死を選んだ人間が何も考えないわけがない。あの子だって強く生きたかったに違いない。あたしだって、いつまで耐えられるかわからない。
「…ったくよぉ。今日は大事な会議があるってのに」
若い男はしきりに時計を気にする。
「人が一人死んだんですよ。…どうしてそんなに落ちついていられるんですか?どうして自分たちの事しか考えられないんですか?」
思わず声に出してしまった。
やるせない思いを自分の殻に閉じこめておくことはできなかった。
若い男は最初は驚いていたようだが、あたしの様子を見て冷静に呟く。
「お嬢ちゃん。人が死ぬのがそんなに珍しいか?」
一瞬、言葉につまる。
人の死はニュースや新聞でよく見かける。それほどめずらしいものでもない。
この瞬間、どこかの場所で見知らぬ誰かが亡くなっている。そんな事はわかっている。
だけど、実際に目の前で人の死を見るの初めてだった。
「め…めずらしいとか……そういう問題じゃないと思います」
「そういう問題さ」
若い男はそう言い切ると、続けて語り出す。
「いちいち、他人の死に干渉していてどうする?そんな事をして、おれたち生きている人間に何のメリットがあるんだ?いくら同情しても、それは自己満足的な感傷にしかならない。死んだ人間がおれたちに何を与えてくれる?『迷惑』以外のなにものも与えてくれやしないだろ」
一瞬だけの時間しか知らないけど、あの子は他人なんかじゃなかった。
「あたしは自分の感情に自己満足なんかしてません」
「いいや、あんたは自分の感情に酔っている。現実から目を逸らしている。まわりをよく見てみな。少なくともこの自殺は、多くの人に迷惑をかけている。まさか、それがわからないほどあんたはバカじゃないだろ?」
そんな事はわかってる。あたしが言いたいのはそんな単純な問題じゃない。
「たしかに自殺の仕方によっては多くの人に迷惑をかけてしまうかもしれません。でも、だからといって人の死を軽視していいんですか? ただ『生きていく』ということがどれだけ大変なのか、あなたにはわかっていると思いますけど」
「ほぉ、年下のあんたに生き方について説教されるとは思わなかったな。でもな、おれだってのほほんと生きてきたわけじゃないんだ。『生きる』ことの苦痛はよく知っている。だからこそ『自殺』なんてする大バカには、『迷惑』以外の何物でもないレッテルしか貼ってやらねぇんだよ」
完全に意見の相違。いや、根本的な捉え方自体が異なるのだろう。
こんな人に自分の気持ちをわかってもらおうとしたあたしがバカだった。
自殺したあの子とあたしは赤の他人とは言い切れない。一瞬だけど、あたしは生前のあの子を知っていた。その事が心の奥底でずっと引っかかっている。
この心のもやもやはすぐに晴れるものではない。
できることなら忘れてしまいたい。
「わかりました。もういいです」
いささか身勝手だとは思ったが、これ以上この人と話を続けても意味はないと判断し、その場を立ち去ろうとした。
「待てよ」
若い男はあたしの腕をつかむ。
「あんたはわかっちゃいない。死がどれだけ醜いものかをわかろうとしない」
わかってないのはあなたの方だ。あたしがどんな気持ちで自分の気持ちを訴えようとしたかわかろうとしない。言葉が足らなかったのは反省している。でも、あなたとあたしじゃ、根本的な感じ方が違うんだから。
「放してください」
「いいから、ちょっと来い!」
ほとんど強引にあたしを引っ張っていく。
あたしが一番嫌いなもの。それは周りの見えない自信家と、周りを見ようとしない傲慢な人。
男の同僚が「やり過ぎじゃねぇか?」と苦笑しながらあたしを見送る。
引っ張られてはホームの端まで連れて行かれた。先頭車両が見える。
車体には血がこびり着いていた。その下の線路の上では、幾人かの職員と警察官が事故処理をしている。
「見てみな」
男は右下を指で指す。
ぼろぼろになり、血にまみれた鞄。
一瞬、頭がふらっとする。
比較的損度の少ない切断された腕。
胃の中の物が逆流しそう。
職員が飛び散った内臓を拾ってバケツに入れている。
思わず目を覆う。
「死ぬ事がどんなに醜いかわかったか?おれはな、自殺を美化する奴が大嫌いなんだよ」
そんなことは言われないでもわかっている。あたしだって、自殺を羨ましいなんて思ったことはない。あたしが気にしてるのはそんな事じゃないのよ。
そんな事じゃ……。
でも、今はだめ。言葉にならない。
男がぶっきらぼうにあたしの肩に手をおく。
優しくしてるつもりなんだろうか?
あたしはもう一度勇気を奮って惨状を見る。
職員たちの半分は嫌な顔を見せることもなく、事務的に後処理を行っている。
――痛い。
ふと、あたしの心に何かの視線がぶつかった。
なにげにその方向を見る。
あたしを見つめる顔。
その瞬間、あたしの思考回路は遮断された。
瞳は、目の前に映る事実を脳に伝えるだけ。それ以上の事は考えられなかった。
視界に入ったのは、ひとつの顔。
車輪に絡みついた長い黒髪の持ち主。
酷く損傷した顔。
あたしはただ呆然と立ち尽くしてその顔を見つめ返す。
どこかで見た顔なはずだと、感覚がそう呟く。
視界がぼやけてくる。
露骨な嫌悪感があたしを襲う。
――怖い。
あたしの中のもう一人のあたしがそう呟いたように聞こえた。
冷たい空気が呼吸を息苦しくさせる。
気持ち悪い。
膝ががくがくして吐き気がする。無意識に口に手を持ってきていた。
誰かがあたしの背中をさすっている。
誰かが何かを言っている。
-「あんた何考えてるのよ!」
-「おれは…ただ、世間知らずのこいつをこらしめてやろうと……」
-「いらいらしてるのはわかるけど、だからって人に当たることはないじゃない。
ましてや相手は年下の女の子よ!」
-「わ、悪かったよ」
-「謝らなくてもいいから、さっさとどっかに消えて! でないと痴漢で訴えるわ
よ!」
めまいがする。
ふらっとしたあたしの躯を、誰かが支えてくれる。
温かい感触。
「大丈夫?」
張りのあるソプラノヴォイス。なんだか気分が落ちついてくる。
ようやく思考回路が正常に動きだす。
視界には見知った一人の女の子。
「あ!!」
一瞬、目を疑った。
いや、疑うというより、この事実が嘘でない事を祈ったといったほうがいいかもしれない。
制服姿の少し大人びた顔立ちは忘れるはずがない。
あたしが一番、逢いたかった人。
ついつい返事も忘れて見とれてしまう。
「お手洗い行く?」
優しい声は、あたしを温かく包んでくれる。
「だ……大丈夫です」
やっと言葉がでた。少し声がうわずってしまったけど。
今まで無理してしまい込んでいた感情が、一気に流れ出す。
とっても逢いたかったのだと。
「あら?もしかして、うちの学園祭来てくれた子じゃない?」
あの人の笑顔がとっても心地良い。
「覚えていてくれたんですか?」
あたしはうれしさのあまり我を忘れそうになる。
「そりゃね。私の絵を気に入ってくれたんだもん。忘れるはずがないって」
あの人は照れたように答える。
「なんか感激しちゃうなぁ、あたしもう一度あなたに逢いたかったんです」
あたしったら完全に舞い上がってたみたい。今まで何が起こってたかなんて、完全に忘れてしまったようだ。
「それはそれは、とっても光栄なことだわね」
あの人はあたしの反応を見てくすりと笑う。
あたしったら何を言ってるんだろう?
実際あたまの中はからっぽ、そういや何があったのかしらって感じ。
何か大事な事を忘れているような……。
ふと、あの子の顔が浮かんでくる。それと同時に血の気がさっとひく。
あたしの中に刻まれた記憶。もう一生消えないかもしれない。そう考えると再びめまいがしてくる。でも、あの人の前でもう醜態は見せたくない。
「もう、大丈夫そうね。あ! 遅刻しちゃう。それじゃあ」
あの人は時計をちらりと見ると急いで駆け出そうとする。
-『あたしをおいていかないで!』
もしも、あたしが正気を保てなかったなら、あの人に向かってこう叫んでいたかもしれない。
鼓動は高まり、あたしの想いは膨れ上がる。
そんな想いがあの人に通じたのだろうか。途中でくるりと向きを変えて、再びあたしの所に戻ってくる。
「そうそう、冬頃にまた展示会みたいなのやるから見に来てね。それと…さ」
あの人はその宣伝を言い終わると、次の言葉を続ける前に吐息を一つこぼす。
壊れそうなぐらい繊細なガラスの吐息。
そして、最上級の優しい瞳。
ポンっとあたしの肩にあの人の手が触れる。とても心地よいぬくもり。
「あなたは、負けないでね」
そう呟くと、あの人は再び忙しげに駆け出していった。
唇からこぼれたその言葉は、あたしの中の何かを奮い立たせる。熱い想いがこみ上げて、別な意味で涙がこぼれてきそうになる。
生き生きとした後ろ姿を見送りながら、熱い想いを抱きしめた。
07 -- SIDE.B 【佐々間綴】
「綴!」
後ろから琴音のキンキン声が聞こえてくる。
「私は、あんたと漫才やるほど今日は暇じゃないのよ」
放課後、校門への道のりを一人さびしく下校する私は、哀愁を漂わせながらおもいっきり暗い口調で言ってやった。
「綴。なに人生に疲れてるの?」
脳天気な琴音の言葉はすでに漫才の域に達していた。
「あんたといると確かに楽しいよ」
こちらも負けずとばかり、あきれた声でそう言い返す。
「やっぱさぁ、あたしたち色物の才能あるよね」
こらこら、マジな顔で言うんじゃないって。
「それはそうとさぁ。綴、今日はどうしちゃったの?めずらしく授業終わったらさっさと帰ろうとしちゃってさ。あの美恵だって、まだ教室でダベってるのに」
「今日はちょっと用事があってね」
「ふーん。じゃあ、しょうがないね」
琴音はそれ以上追求しない。べつに、聞かれたら答えてあげてもよかったのだけど、この子なりに気を使ってくれたのだろう。
「ごめんね」
私は、いちおう悪気を感じて素直に謝る。
「じゃあね」
琴音の明るい声がこだまする。
わたしたちは校門の前で別れた。
☆
真っ白なデイジーの花束を抱えて私は橋の上にいた。
デイジーは、またの名を『ときしらず』という。
永遠の時間を暗示させるような花。
私は、湾内の埋め立て地を結ぶ一つの大きな橋の上で風に吹かれていた。
とてもさびしい場所。
それもそのはず。だって、橋のうえには私しかいないのだから。
ここは、もう二年くらい前に封鎖された場所。
手抜き工事がたたってか、少し前の震災で中途半端に崩壊した橋。
おまけに、封鎖といっても、簡単に飛び越えられる柵があるだけ。
工事にしても、警備にしても、人が足りないのだろう。
橋の状態からして、それほど危険な場所ではないと思う。ただ、道路の状態がかなり悪い為に、車での通行は不可能なのだ。
表面にでっぱったアスファルトの破片は、歩行者にも多少ながら影響を与える。
おまけに、橋の上なので雨をしのぐ施設もない。浮浪者どころか暴走族の溜まり場になるほど、居心地の良い場所でもない。
好き好んでこの場所に来たがる人はいないだろう。
復旧のめどさえたたない見放された橋には、たださびしげにその存在をさらしているだけだ。
私は、風にのせるように、花束を水面に投げ入れる。
大型船舶の航行を考慮にいれてか、橋の大きさはかなりなもの。橋の上から水面まではおよそ百メートルはあるだろう。
この高さでは水面はほぼコンクリートと同じ。飛び降りても、水のクッションは期待できない。
一年前、夕はここから飛び降りた。
私と同じ感覚を共有したたった一人の妹。
いや、結局、共有はできなかったのだろう。私とあの子は根本的には違っていたのかもしれない。
もし本当に、あの子と同じ感覚を共有してたのなら、あの子は死のうなんて考えることはなかったのだから。
そんな愚痴は、今となっては無意味に近い。
あの子は負けたのだ。
甘えることのできなかった自分に。
あの子の優しさは他人への甘さだった。
その事が、だいぶあの子に無理をさせていたのかもしれない。
私たち四人の姉妹の中で一番近かったと思った二人が、本当はかなりかけ離れた感覚の持ち主だったなんて、あの子が死ぬまでは気づかなかった。
実際、最後の最後まで、私は夕の死を信じられなかった。
あの子の亡骸を見て、私は知ったのよ。ああ、私はこの子とは違う世界の人間だったって。その時わかったんだと思う。自分と同じ人間なんてこの世にはいないんだって。
この世でたった一人の自分。感覚を共有することはできないけど、自分の感性を他人に伝えることはできる。
私の生き方が変わったのは、その時からだったかもしれない。
それまでは夕と同じように、感覚を共有できるものにしか心を開かない性格だった。実際、六つ以上離れた姉たちともあまり口をきかなかったのだ。一年前までは。
答を見つけかけてからの私はひたすら変わった。変わるしかなかった。
それまで頼りにしていたもう一人の私=夕が、本当の私でないと気づいてしまった時から。
優しい風はあの子のように、甘ったるく私にまとわりつき流れていく。
私が今日ここに来たのは夕を供養する為ではない。実際あの子だって、それほど信心深い子でもなかったし、あの子が望んで死を選んでしまった以上、現世になど未練はないはずだ。
そう思いたい。
たった一人の妹だもの、情けなんてかけたくない。
私が来たのは私自身の為。
きちんとした答を見つける為。
けして負けないと誓う為。
風に向かう。
空は茜色に変わり始めた。
もうすぐ夕暮れ。
私の大好きな時間。
そして、あの子も大好きだった……時間。
08 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
言葉は錆び付いたオルゴール。
誰かが言っていた。
伝えたい事がなかなかうまく伝わらない。
とてももどかしくて、やるせない気持ち。
その日は一日中、あの子の事で頭がいっぱいだった。
一瞬の時しか知らないあの子。
だけど……
あたしもあの子と同じでないとはいえない。
生きるという勝負に負けてしまったあの子は、あたしとどう違うんだろう。
きっと、さびしさから逃れたかったにちがいない。
誰かに助けてもらいたかったにちがいない。
傷だらけになってぼろぼろになって……
楽になりたかったのだろう。
死は安楽へと通ずる道なのか?
悪夢から目覚めさせてくれる唯一の手段なのか?
だめ……変なことばっかり考えてしまう。
今の生活が夢の中だったらいいなんて……
・
-『あなたは、負けないでね』
ふいに心の中によみがえる言葉。
あたしにくれたあの人の言葉。
あの言葉には実感がこもっていた。
まるで、負けたことがあるかのように。
負けてしまった経験があるかのように。
でも、負けた人間が生きていられるわけがない。
きっと、あたしの思い過ごしだろう。
あの人みたいに強くなりたい。
壊れてしまった微笑みはもとに戻るのだろうか?
思わずため息がこぼれる。
09 -- SIDE.B 【佐々間綴】
茜色の空は、時間の感覚を曖昧にする不思議な輝き。
闇と光の狭間の混沌とした曖昧さはとても好き。
私は、幼い子供の立ち去った公園で、ブランコに揺られながら茜色の光を全身に浴びていた。
ブランコに座っていることに意味はない。
ただ、なんとなくこの公園に誘われてしまったのだ。
このなんともいえない雰囲気に浸っているのが好きなのだ。まあ、たまにやるのがオツなんだけどね。
ぼんやりと静かに揺れる私の視線に一人の少女が映る。どこかで見かけた顔だ、としばらく考えてはっとする。
そうだ、あの子じゃないか。
「やっほぉー!」
私は立ち上がってあの子に声をかける。少し陰鬱な気分をまぎらわす為に、わざと脳天気な口調で呼びかける。
「え?」
あの子はこちらを振り向く。少し幼げな顔立ち。やっぱりあの子だ。
「あ! ……あ…あの、今朝はありがとうございました」
あの子は少し驚きながら返事をする。
「今、暇? よかったらこっちこない?」
「あ、はい」
私の気まぐれな誘いにあの子は素直に答える。なかなかかわいいではないか。
名前……?
そういや、あの子の名前知らなかったな。ちょうどいいや、聞いてみよ。
私はそれとなく質問する。
「そういえば名前聞いてなかったよね?」
10 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
こんな所でまたあの人に逢えるなんて、あたしはとっても感激してしまう。
あの人と言葉を交わせるなんて夢のよう。
「そういえば名前聞いてなかったよね?」
ほんと、そういえばあたしったらあの人の名前も知らなかった。
自分の名前も名乗ってなかった。
せっかく、神様が再びめぐり逢わせてくれたのだもの。あの人のことをもっと知りたい。そして、あたしを知ってもらいたい。
そう、まずは自己紹介ね。
「あたしは楢崎美鈴。美しい鈴と書いて『みりん』ていいます」
美しいなんて言葉、自分に使うのは気がひけるから、言いながら照れてしまう。
「へぇー、『みすず』って読むんじゃないんだ。『みりん』ちゃんなのね」
あの人は本当に関心している様子でそう答える。
「友達には、調味用のお酒の『味醂/ミリン』と同じ呼び方で、変とか言われるんですけどね」
あたしは説明しながら苦笑する。
「そう? 私はなかなかチャーミングな名前だと思うわ。『みりん』って響きがとってもいいわよ」
チャーミングな人にチャーミングだと言われるのは、なんだか複雑な気持ち。だけど素直に喜びたい。
「あの、お姉さまは…」
あたしの問いかけにあの人はけらけらと笑い出す。
「お姉さまはやめて……お姉さまは…」
我を忘れて笑い転げるあの人もなかなか素敵。だけど、どう呼べば?
笑いを押し殺しながら、あの人は自己紹介をはじめる。
「私はね、佐々間綴。言葉を綴る、文字を綴る、のアレね。わかる?」
頭の中にぱっと『綴』という文字が浮かび上がる。
「うわぁ、かっこいい」
イメージ通りの名前にあたしは目の前のあの人―綴さんを惚れ惚れと見つめる。
「かっこいいだなんて……美鈴ちゃん、ちょっと大げさよ」
綴さんは照れたような笑みを浮かべる。
「いえ、ほんとに。その……素敵なお名前です」
あたしは再び出逢えたうれしさで、完全に舞い上がっているみたい。
「そこまで言われると、私は照れてしまうぞ」
綴さんは、ほんのちょっぴり頬を赤らめたように思えた。
夕焼け空のバーミリオンの光のせいかもしれない。
でも、そんな綴さんの姿は夕陽によく映える。
「美鈴ちゃん。立ち話もなんだから座らない?」
綴さんは近くをぐるりと見渡して、座れるような所を探している。
「あ、ブランコ……」
子どもの頃の想い。そんなものが心の中に浮かび上がってくる。
「ねぇ、綴さん。ブランコに乗ってみません?」
11 -- SIDE.B 【佐々間綴】
夕暮れの曖昧な空間は人々の心に影響を与える。
「ねぇ、綴さん。ブランコに乗ってみません?」
あの子が発した言葉に、私は直感的にそう思った。
「あ……あたしってば、今、とってもおバカさんなこと言いましたね」
あの子は、ぽろりと口からこぼれてしまった言葉に恥ずかしがって頬を朱く染める。
「そんなことないよ。たまには童心にかえるのも悪くないと思うよ。それに、さっき私だって座ってたんだもん」
私は再びブランコの所に戻る。
揺れる視線、躯に加わる妙な感覚。子供心に私はそんな不思議な感覚が好きだった。
「今日はきれいな夕焼けですね」
軽くブランコをこぎながらあの子はそう呟く。
「そうね。バーミリオンって自己主張の強い色だけど、なんか優しさがあるのよね」
「あの絵の夕焼けもこんな感じでしたよね。あたし夕暮れ時ってとっても好きなんですよ。はっきりした理由とかあるわけじゃないんだけど、感覚的に『好き』って思っちゃってるみたいなんです」
「あはは、わかるわかるその気持ち。私も夕暮れ時が好きだけどね。その気持ちって、やっぱ直感的なものなわけ。時々、友達に『なんで夕暮れなんかにこだわるの?』って聞かれるんだけど、いつもうまく答えられないのよね」
ほんと、いつからだろう?夕刻なんていう曖昧な時間にこだわりだしたのは。
「あの絵について聞いていいですか?」
あの子はためらいがちにそう質問する。
「何が?」
「どんな気持ちで描かれたかを……その……」
私の表情を窺いながら、あの子はそう呟く。
そんなあの子の仕草がかわいくなって、私はくすりと笑う。
「美鈴ちゃん。夕焼けはなんで赤いのか知っている?」
「知らないです」
あの子は目をきょとんとさせて首を振る。
「夕焼けってたしかにきれいよね。でも、それは私たち自身の感覚としての『きれい』なのよね」
「どういうことです?」
「夕焼けの朱は、地上から舞い上がったチリや水蒸気のせいなわけ。だから、極端に言えば、曇ってさえなければ汚れた空ほど夕焼けの朱は映えるの。皮肉っていえば、皮肉でしょ。私たちが『きれい』と思ってた夕焼けの朱が、実は汚れたものだったなんて」
「そんなぁ」
あの子は私の話に少しばかりのショックを受けたようだ。
「まあ、汚れてなくても大雨なんかの後とかは湿度が高いから、それなりにきれいな波長の朱の光が映えるけどね」
私は少し補足するように説明する。
「私が言いたいのはね、美鈴ちゃん。そんな夕暮れの空ってのは似通っているようでいて、実はかなり違う美しさをそれぞれ持っているんじゃないかってことなの。
あの絵にはね、そんな想いが込められているわけなのよ。この街のような汚れた所にも、美しさはあるんだって。人間の心のように、純粋のままでいられないものにも、それなりに美しさはあるんだって」
私は心の中の静かな想いを語る。あの絵は、もう一人の私への見切りをつけるために描いたもの。
夕暮れが好きだった夕と私は、そのバーミリオンの光の中に別々のものを求めていたのだろう。それをはっきりさせる為に、私はあの絵を描いたのだ。
「綴さん」
潤んだ瞳で見つめ、あの子がぽつりと私の名を呼ぶ。
「なに?」
「あたし、どうしてもこの街は好きにはなれないんです。でも、好きになれたらいいなぁっていつも思っているんです。そんな矛盾した気持ちがもどかしくて、せつなくて、なんだかいつも心の中が窮屈になるんです。あたしにはわからないんです。
好きにはなれない気持ちが本当なのか、好きになりたい気持ちが本当なのか……でも…でも、どっちも本当の自分の気持ちでない気もする」
訴えかけるようなその言葉に私は言葉を失った。
あの子の言葉は適切に使われてないかしれない。だけど、その想いはひしひしと伝わってくる。
そう。
私もこの街が嫌いだった人間の一人。
「あたしも綴さんのように強くなれたらいいな」
あの子のなにげない一言が耳の奥で響く。
私はそんなに強くない。
私が生きているのは、強さじゃない。
誰かに何かを期待しているからよ。
「私はそんなに強くないよ」
思わず目を逸らす。
私に何かを期待しないで。
「さっきの夕焼けの色の話を聞いていて思ったんです。綴さんは、あたしみたいに嫌なことから目を逸らそうとしないんだって」
「それはかいかぶり過ぎよ」
「少なくとも、あの絵っていうのは、視覚的に『きれい』なだけの絵ではないんじゃないですか? 汚さから目を逸らさずに、それを知ったうえで描いたものじゃないんですか?」
「うふふ、どうなんだろうね?」
私は、ほっと吐息を吐いた。
「あ、ごめんなさい。あたし、なんだか、わかったような口きいてしまいましたね」
あの子は、私を怒らせてしまったかと思ったのか、うつむいてしまった。
「たしかに、あの絵の夕暮れには汚さとか醜さも込められているわ。だって、私の分身だもん」
私は言ってしまってからはっとした。ほとんど愚痴に近いようなことを、あの子に漏らしてしまったからだ。
まるで、幼い駄駄っ子のよう。
もしかしたら、あの絵は自分自身に対する愚痴のようなものだったのかもしれない。
「あたしは好きです。あの絵」
あの子はブランコから降りて私の横に立つ。
「ありがと」
それしか答えられなかった。
本当に強い人間ならもっと気のきいた事を言ってあげられるはず。
「あたしが感じた美しさって、偽りじゃないですよね? 夕焼けの美しさだって、それ自体は汚れたものかもしれない……けど、そんなのに関係なく『きれい』って思える美しさがあるからですよね」
あの子は力強くそう主張する。
なんか立場が逆転してしまったみたい。
あの子を慰めるつもりが逆に慰められてしまったようだ。
「もしかしたら美鈴ちゃんって、自分が思っているよりずっと強いかもしれないよ」
「ううん、あたしは弱虫なだけですよ。すぐにつらい所から逃げてしまうんです。ほんと、自分でも情けなくなってくるときがあります」
そういってあの子は小石を軽く蹴る。
「そうかな?」
私はあの子の一つ一つの仕草を見守りながらそう呟く。
「あたし怖いんですよ。逃げ場を失ってしまった時の自分の行動が……それまでに、なんとか強くなりたいとは思うんですけどね」
あの子はけなげに作った笑顔をこちらに向ける。
そんなに無理する必要ないよ。
意地を張って一人だけで生きようなんて思わないほうがいいよ。
それじゃ、もう一人の私=夕と同じじゃない。
「美鈴ちゃん。そんなに自分を追いつめないほうがいいよ」
それは自分自身にも言った言葉。夕に言ってやりたかった言葉。
「わかってます……わかってます」
あの子の偽りの笑顔がだんだんとくずれてくる。
私はなんと言い返したらよいかわからず、ただ困った笑みを浮かべるだけだった。
12 -- SIDE.A 【楢崎美鈴】
「美鈴ちゃん。そんなに自分を追いつめないほうがいいよ」
綴さんの優しげなその言葉が、なぜか心に突き刺さる。
頭ではそれを理解できても、心がそれを納得してくれない。
今朝の女の子の顔が再び記憶によみがえる。
自分で自分を追いつめるのが、どんなにむなしいことかよくわかっている。
「わかってます……わかってます」
あたしは呪文のように繰り返す。
追いつめられるのと、自分で追いつめるのは違う。
わかってるはずなんだけど……。
感情をごまかすのが下手なあたしは、せっかく作った笑顔をくずしてしまう。
泣いちゃいけない。
綴さんはあたし態度に困ったような笑みを浮かべる。でも、そんな笑みにも優しさがこもっている。人柄なのだろうか。
その柔らかな笑みが甘えを許してくれそうな気がして、あたしはもたれかかるように綴さんに抱きついた。
「こらこら美鈴ちゃん」
あたしの背中を、綴さんはぽんぽんと叩く。
「綴さんってあったかい」
媚薬のような綴さんの甘い香りに顔をうずめて、あたしはこのまま時間が止まってくれないかと願った。
すべてを忘れさせてくれないにしても、偽りのない安堵感があたしは欲しかった。
「美鈴ちゃん?」
綴さんの優しい声。
本当は迷惑だってわかってる。でもね、もう少しこのままでいさせて。
「ねぇ、綴さん」
「ん?」
「ちょっとくらいの雨宿りは『逃げ』じゃないですよね」
寂しさを紛らわすために、人の温もりを求める。
雨がやまなければ、いやでも歩いて行かなければならないけど。
ほんのちょっぴりの安らぎの時間さえあれば、再びつらい道のりを歩いていけるはず。
「そうね」
綴さんは落ちついた声でそう答える。
しばらくの間、時間が停止したかのような静寂があたしたちを包んだ。
ずっとこのままでいるわけにはいかないことは、十分過ぎるほどわかっている。
でも、綴さんの温もりはとっても心地よくて、ついつい離れるのが億劫になってしまう。
「さあ、雨宿りはおしまいよ」
綴さんはあたしの背中にまわしていた手を肩に持っていき、抱き合った躯をなめらかに引き離す。それは、けして力まかせの強引な方法ではなく、あくまでもごく自然に。
あたしは抱き合った余韻に浸りながら、綴さんのつややかな唇を見つめる。
薄くリップを塗った艶やかな唇はとても魅力的。
眠り姫の目を覚ますのに、なぜ口づけが必要だったのだろう。
「こらっ、今おバカさんな事考えてたでしょ?」
あたしの心を見すかしたかのように、綴さんの軽いツッコミが入る。
「なんでわかったんですぅ?」
「物欲しそうな顔してるからよ。うふふ」
あたしってそんなに物欲しそうな顔してたかな? でも、半分は当たってるかも。
「だめよ。私に対する想いを恋と勘違いしちゃ。いいこと、唇はね、本当に愛する人の為にとっておくのよ」
でも、あたし、綴さんに恋をしているのかもしれない。女同士じゃだめなんて、そんなことないでしょ?
だけど、こんなこと口に出して言ったら、変に思われるに違いない。
でも、この想いは胸にしまっておくには膨らみすぎている。
「あたし、綴さんのこと好きです」
なんとか「好き」おしとどめる。それでもまともな言葉ではないや。
「私も美鈴ちゃんのこと好きよ」
のほほんとそう言い返される。ほとんど真に受けてもらえてないようだ。
が、綴さんの視線が一瞬それた。
その瞬間、髪の毛ごしに額に熱い感触が。
「額のキスは友情のキスってね」
一瞬の隙をついて、あたしの額に綴さんの唇が触れる。
しばらくの間、何が起きたかわからずにいたあたしは、綴さんの半分堪えた笑いを聞いて我に返る。
「あ、ずるーい」
「唇は大切にとっておきなさい。ねっ」
綴さんは、人差し指であたしの鼻に触れると、くるりと横を向いて八割方沈んだ夕陽を仰ぎ背伸びをする。
なんだか拍子抜けしてしまった。
そりゃ、期待するのも変なんだけどね。
「そろそろ夕暮れの時間もおしまいね」
綴さんはそう言って、ウインクをする。
「また逢いましょ」
瑠璃色になりかけた空は、夕陽の輝きをだんだんと浸食していく。
「ほんとにまた逢えます?」
少しだけ不安になりながら、綴さんに質問する。
「約束する?」
「うん」
綴さんはあたしの小指に自分の小指をからめる。
「じゃ、や・く・そ・く」
夕刻の時間はとても曖昧な境目。
いつまでが昼で、いつからが夜かの区別がつきにくい。
普通、光と闇は同時に同位に存在できない。それは昼夜とわず夕刻も同じ。
だけど、夕刻の不思議な空間は、光と闇がさも入り混ざって存在しているかのような錯覚をあたしたちに見せつける。
そう。まるで、心の構造と同じ。
陰と陽とが複雑に絡み合い、同位に存在するさまは心と同じ。
あたしが夕刻という時間にこだわるのは、そんな曖昧な感覚が心の構造と似通っているため、その不思議な空間をまるで共有しているかのように思ってしまうからかもしれない。
そして、綴さんの描いた絵を好きになったのも、そんな理由からなのかもしれない。
今日、あたし自身に対する答は出なかったけど……でも、綴さんに逢えて良かったと思う。
まだ、強くはなれないけど、きっといつか強くなれる気がする。
眠り姫はまだまだ眠り続ける。
いつか自分で起きられる日まで……
(了)