坂上家の次女として生まれた紀子。
この子が、3歳にして興味を持ち始めたのはなんと『ポケット』であった。
『ポケット』といっても、おもちゃでもお菓子の名前でもなんでもない。
そう、洋服についてるあの小さな袋だ。ズボン、シャツ、上着と合わせれば8つ以上のポケットがついているはず。
不思議そうに自分の手を出し入れしながら、そこに物を入れられることに気づいたのが、紀子が3歳の時だったのだ。
だけど、そのことを彼女のお母さんはあまりよく思わなかった。なぜなら、洗濯の度にポケットを調べて、中に入っているものを出さなければならなかったからだ。
紀子はポケット好きということで、お父さんの釣り用ベストが大のお気に入り。大小数十種類のポケットに、この子は幸せを感じている。お母さんが目を離せばその隙をみて、タンスからお父さんのベストを取りだして着ている。ぶかぶかで足の部分まで隠れてしまうが、それをひきづりながら家の中をうれしそうに歩き回っている。
しょうがなく思ったお母さんは、ある約束をして紀子に子供用のベストを買ってあげた。その約束は簡単なものである。ポケットに入れたものは、服を脱ぐときにかならず出すこと、というものであった。
だが、10個以上のポケットを3歳の子供が管理できるわけがない。一時のように、ポケット全部に何かが入っているという事はなかったものの、出し忘れがたびたびあった。
5歳になって、ようやくポケットの物を出し忘れることはなくなったが、相変わらずその変な興味の方向は変わらなかった。理由を聞いても「だって好きなんだもん」という答えしか返ってこない。
紀子がポケットに突っ込むものは、バラエティにとんでいる。
家から持ち出すおやつの数々は、飴やチョコレート、ビスケットやお煎餅など、比較的大きめのポケットにしまい込み、お母さんに貰った交通安全のお守りは胸の中、そしてお父さんに買ってもらった小さなかわいい財布は中身が入ってなくても、ズボンのポケット、友達のミカちゃんに貰った香りのする消しゴムなどの小さな小物はベストについている小さなポケットへと、その用途に合わせて紀子はしまい込んだ。
そんなポケット管理を小さいながら紀子は、得意がって友達や近所の人に自慢してまわったのだ。
時々、道で見つけたおもしろい形の石など拾ってなにげにポケットへと入れる。
当然、出し忘れてお母さんに叱られたこともあるのだが、そんなことは気にせず、遊びにいくたびに何かを紀子は拾ってくる。
言い訳はもちろん、「ポケットがさびしいんだもん」のおきまりのせりふ。
もちろん、お母さんは叱ります。
「ノンコ。道に落ちている物は汚いから拾ってくるんじゃありません」
お母さんは紀子を呼ぶ時、「ノリコ」ではなく「ノンコ」と呼ぶ。お姉ちゃんの裕子もそうやって「ノンコ」と呼ぶ。
初めは、自分は「ノリコ」なのになんで「ノンコ」と呼ぶんだろうと不思議がってはいたが、今ではすっかりそう呼ばれるのがお気に入りのようだ。
「ノンコ」と呼ぶと、まるで犬が尻尾をふって来るように、紀子はうれしそうに寄ってくる。
「ノンコちゃん、あそぼ」と、友達のミカちゃんにまでそう呼ばせているくらいなのだから、相当気に入っているのだろう。
紀子は少しとろいところがあると、お姉ちゃんにからかわれているが、本人はポケットと自分を「ノンコ」と呼んでくれる人さえいれば幸せなのだ。
ある日のこと。
紀子がミカちゃんと遊んでいる時、近くで犬の鳴き声がするのが聞こえてきた。
耳の良いミカちゃんは、その鳴き声の方向へと走っていき、紀子はそのあとをとろとろと歩いていく。急ぐことが嫌いな紀子は走るのが苦手なのだ。
「ねぇ、ノンコちゃん。こいぬみたい」
ミカちゃんは子犬を抱き抱えて紀子の方を向く。
「すていぬかなぁ?」
紀子は首を傾げながら、犬の顔を見つめる。
クゥーン、クゥーンとなにか餌をねだるような態度を子犬は紀子に見せる。
「おなかすいてるみたいね」
「ちょっと待ってて、食べられるもの探してみるから」
そう言って、紀子が最初に出したのはミント味のガムであった。
「うーん、ちょっとそれはたべないんじゃない」
さすがに5歳ともなれば、犬がガムを食べないことは承知している。
「じゃあ、これは?」
ガムをしまい込むとおやつ用のポケットを無造作に探りながら次の物を出す。
「あ!これもたべるわけないか」
紀子が出したのはいちご味のキャンディーだった。気を取り直してポケットを探っていたこの子が、何か思い出したかのようにベストの比較的大きなポケットを探る。
「じゃん! これならよろこんでたべるわよね」
紀子が取り出したのは、コンビーフの缶詰であった。
「ノンコちゃん。なんでそんなものまでもっているの?」
ミカちゃんは、不思議そうに問う。
「わたしのポッケ(ポケット)はまほうのポッケなのよ」
紀子は得意げにそう答えた。だが、実は昔お父さんに連れられてパチンコに行ったとき、景品で貰ったものをこの子が欲しがったので与えただけであった。欲しがったといっても、ただ単にポケットが寂しかったので何か物を入れたかったに違いない。
ポケットを叩けば ビスケットが一つ
もひとつ叩けば ビスケットは二つ
すっかり自分のテーマソングにしてしまった歌である。何か機嫌がいいことがあるとかならず紀子は歌い出す。
「あら、何かいいことあったのかしら?」
お母さんは紀子のその歌を聞くとそう呟く。
ほんとは、いつもポケットを膨らましてみっともないと怒りたいのだが、この子のポケットを誇りに思う姿を見ると、そういう気も失せてしまうのだ。幸せに生きて欲しい、それがお母さんの願いなのだから。
紀子が7歳になって小学校に上がると同時に、お母さんは近所のスーパーにパートで出るようになった。子供に手が掛からなくなったのと、家庭の経済的理由だ。
そういうわけで、紀子には一つの合い鍵が渡された。
「いい? 紀子。これを無くしたら家には入れなくなるわよ」
今までにはない大切なものがポケットに入ることで、紀子はなんだかうれしくなった。胸の中が熱くなるようなそんな気持ちを感じていた。
買った当時は少し大きめだったポケットのいっぱいついたベストも、今ではちょうどよい。長年愛用したポケットは所々すり切れているが、紀子はこのベストを捨てられなかった。
紀子はお母さんから貰った合い鍵にピンクのリボンをつけ、ベストの左胸のポケットにいれた。自分の心臓がそこにあることを幼いながら知り、大切なものを無くさないようにとお守りと同じ扱いで入れたのだ。
小学校2年まで何事もなく過ぎていった。幼なじみのミカちゃんと同じクラスにはなれなかったけど、友達はいっぱいできたのだ。ショウコちゃんにミユキちゃん、それにアンコちゃんと。
紀子は幸せな毎日を送っていた。この子の人柄が周りまで影響するようだ。
だが、もう秋も半ばのある日。一つの事件が起きた。
それは、紀子個人の問題であり、結果としては大事にはいたらなかった。だが、深いショックを受けてしまったのだ。
仲の良い友達と下校途中で何か嫌な予感がした紀子は、とっさに手を胸にもっていく。左胸のポケットを探り、お守りが無事だったことで一瞬ほっとした紀子だが、あんなに大事にしていた鍵がないことに気づく。
下校通路を逆戻りし、道路を探しながら行くと陸橋の階段の所にピンクのリボンが落ちているのに気づく。さすがにこのときばかりは、急ぐのが嫌いな紀子も駆け出していった。
幸い、鍵は紀子の家のもので一安心したものの、それをポケットに戻そうとした紀
子は底が半分ぐらい糸がほつれて穴が空いているのを確認した。
長年大切にしてきたポケットに穴が空いている。
紀子はなぜか悲しくなってきた。鍵は見つかったのに、とてつもなく悲しかった。
特別なわけなんかあるわけでもなく、ただ涙が流れるままに任せながら家路を歩いた。
途中で、待っててくれたのであろうアンコちゃんが、笑顔で紀子を迎えた。
「カギ見つかった?」
「うん」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
アンコちゃんは紀子の涙に疑問を抱く。
「わかんない。でもとてもかなしいの……むねがくるしいの」
紀子は自分の気持ちをうまく伝えられなかった。
「泣かないでノンコちゃん。わたしがいいことおしえてあげる」
アンコちゃんは紀子に特上の微笑みを向ける。それは、友達として何かしてあげたいという彼女のけなげな気持ちであった。
「アンコちゃん…?」
「ノンコちゃんはまほうのポケットをもっているでしょ。わたしはね、まほうのおまじないを知っているのよ。しあわせになるおまじない」
紀子の涙が少しおさまり、アンコちゃんを不思議そうに見つめる。
「ノンコちゃん。笑ってごらん、かなしいことなんか忘れて笑ってごらん。まほうがかかったみたいにイヤのことも忘れてしまうよ。ほんとだよ」
アンコちゃんにつられて、紀子の頬もゆるみだす。
「ノンコちゃんのまほうのポケットもママにたのめば直してもらえるよ」
「そうなんだよね。アンコちゃん」
紀子の泣き顔が笑顔に変わる。もともと単純な子なのだ。
☆
「あのときはね、今まで信じていたものに裏切られたって気がして悲しくなってきたのよ。他の人にはなんでもない……たかがポケットだけど、わたしにとってはかけがえもない物だったの。だから、ポケットの穴は自分の胸の穴になって、寂しくなったの。わたしってとことん凝り性だから、そんなたいしたことがない事実に影響されちゃったのよ」
ノンコこと坂上紀子は現在、中学3年。幼き面影を残しながら大人への成長過程。
親友たちを囲みながら幼少の思い出を語っている。
「へぇーそんなことがあったんだ」
中学に入ってから知り合ったミリィこと楢崎美鈴は関心してそう呟く。
「そのときに笑顔の魔法のおまじないをアンコに教わったのよ。でも、アンコったらすっかり忘れていたみたいだけど」
紀子は少し不満げにアンコこと朝倉杏子の顔を見る。
「わたしも年だからねぇ。記憶がだんだんと……」
「あたしらまだチューガクセイやろが!」
アンコのボケが終わる前にミリィのツッコミが入る。
「あんたら、せっかくのノンコの良い話に茶々をいれるんじゃないってば」
ユミこと三浦有魅は二人のやりとりの釘を刺す。
「わたしってさぁ、やっぱり欲張りなのよね。だから、なんでも入れられるポケットが大好きで、その数をたくさん欲しがったのよ。実質的な興味の方向はポケットから外れたけど、でもいまは本当の魔法のポケットを手に入れたからいいの」
めずらしく、ノンコが熱い口調になってきた。
「わたし、わかるわ。ノンコの今のポケットは心の中でしょ? どんな夢でも無限に入れられるって……きゃーロマンチスト! ひゅーひゅー!」
さすがに紀子との長い間の親友、アンコは心の中を覗いたかのようにぴたりと当てる。だが、最後の茶々は照れ隠しであろう。
「わたしは欲張りだからね。限界がある普通のポケットじゃ満足できないのよ。世の中の鈴なりの夢をつかみ取りして、魔法のポケットにたくさん詰め込むの。穴の空く心配なんかないからね」
紀子は胸をぽんっと叩く。
ポケットを叩けばビスケットが一つ
も一つ叩けばビスケットは二つ
いくらでも入るよ。わたしのポケット。
(了)