人々は丘陵を前に足を止めてばかりいたわけではありません。
さまざまな時代、さまざまな地域から丘陵に足を踏み入れる人々もいました。
彼らは離れた場所のモノや情報をもたらし、丘陵はそれらをさらに別の場所へと送り出す出発点になることもありました。
遺跡の出土品からは、人々が丘陵を複雑に行き来する様子をうかがうことができます。
異なる地域の人々が行き交い、出会う場所。丘陵の「道」としての顔です。
約2,000年前、境川を臨む多摩丘陵西縁に住んでいたのは、東海地方の影響の強い宮ノ台式と呼ばれる土器を主に使う人々でした。
しかし彼らの残した遺跡からは、長野や山梨等、山を隔てた中部高地系統の土器もわずかながら見つかります。
さまざまな地域を結ぶ「道」が「境」を越えて通じていたことをうかがわせます。
弥生土器 甕(宮ノ台式)
弥生土器 壺(宮ノ台式)
弥生土器 甕(中部高地系)
弥生土器 壺(中部高地系)
弥生時代後期になると鶴見川流域(横浜市域)で中部高地の影響を受けた朝光寺原式土器が成立します。
こちらは北上して多摩ニュータウン付近にまでもたらされます。
a. 弥生土器 甕(朝光寺原式)
b. 弥生土器 甕(朝光寺原式) 破片
aは頸の部分がゆるやかにすぼまり、口縁がわずかに外反しており、朝光寺原式の甕の典型的な器形を示しています。
aには文様が描かれていませんが、通常、頸の部分に櫛状の工具でbのような波状の文様等が施されます。
縄文時代の人々にとって、黒曜石は石器の材料として欠くことのできないものでした。
また、美しい翡翠は大変貴重なもので、遺跡から出土すること自体が稀です。
どちらも産地が限られ、特に翡翠は日本中でも北陸以外数カ所でしか得られません。
縄文時代中期には、北陸の翡翠と中部高地(長野)の黒曜石を関東地方まで運ぶ「道」が成立しました。
フォッサマグナ西縁の谷沿いに、新潟県の糸魚川から諏訪湖を経由して、関東各地へ至るルートです。
多摩丘陵はその「道」の中で重要な拠点となっていたようです。丘陵の中心的なムラであるTN No.72遺跡からは、大珠と呼ばれる翡翠製品が複数見つかっています。
翡翠大珠 4点
約1500万年前ごろから、それまで直線上に並んでいた日本列島は、中央部が裂けて沈むようにして歪んでいき、現在に近い形になりました。
沈んだ部分に当たるのがフォッサマグナで、新潟から静岡・千葉まで、深さ6km以上の大きな溝状の地形を、土砂や火山の噴出物等が埋めています。
フォッサマグナ西縁はユーラシアプレートと北米プレートが衝突する地帯にあたり、黒曜石と翡翠の道はそこに形成された断層の谷を利用しています。
日本列島の回転運動とフォッサマグナ形成
フォッサマグナ断面イメージ(南側から見る)
https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/196705.pdf を基に改変・作図
フォッサマグナと「黒曜石と翡翠の道」
https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/196705.pdf を基に国土地理院ウェブサイト提供の航空写真および基盤地図情報を用いて作図・加筆古墳時代末期以降、全国が律令(法律)によって「国」という単位に分割されましたが、国の境は活発な人の動きを止めることはできなかったようです。
多摩丘陵からは武蔵国と相模国のものを中心に多様な土器が出土し、丘陵の「道」を人々が盛んに行き来していたことがわかります。
律令で設けられた各「国」は五畿七道という更に大きな行政区画に所属させられ、各道にはそれぞれに所属する国をつなぐ公道が設けられました。
武蔵国はもともと長野・群馬・栃木等を通る東山道に所属しましたが、771年には東海道に属すことになりました。
これにより丘陵には相模国から武蔵国へ至る「道」が正式に通ることになったのです。
土師器 甕(相模型)
土師器 甕(武蔵型)
土師器 甕(武相型)
土師器 坏(相模型)
土師器 坏(南武蔵型)
地質の違いから、多摩丘陵は町田ー登戸を結ぶ線の南北で多摩1面と2面に分けられます。
相模を経て武蔵国府に至る東海道は、多摩丘陵を越える際に傾斜の緩やかな多摩2面から入るようにルートをとっています。