近代以降の科学技術の発展によって、人々は土地に縛られることが少なくなり、これまで見てきたような丘陵の個性も影を潜めたかのように見えます。
一方で、注意深く見てみると、比較的新しい時代にあっても多摩丘陵がこれまで見てきたような3つの顔(「境」「道」「恵」)をふいに覗かせる瞬間を見つけることができます。
多摩丘陵のほとんどは江戸期まで武蔵国に属していましたが、明治期の廃藩置県後、一転して神奈川県(旧・相模国が主体)に属することとされました。
ところが明治26年には、現在の多摩地域全域が東京府に編入されることになり、現在に至ります。
「境」という特質が近代になって再び顔を出したと言えるかもしれません。
1960年代以降、高度経済成長に伴う住宅難の解決策として、多摩丘陵にはニュータウンが建設されます。
東京都心からほど近く、現代の開発の手が及んでいなかった多摩丘陵。
近代的な住宅の供給を望む人々は、広大な土地を「恵」と見たのです。
幕末以降の丘陵には、遥かな西、西洋への「道」が開かれました。
開国以降、生糸(シルク糸)は主要な輸出品となりました。
多摩丘陵で紡がれた糸を江戸時代以来織物業の盛んだった八王子から横浜までつなぐ「絹の道」が栄え、鉄道の開通によって廃れるまで、丘陵に繁栄をもたらしたのです。
絹の道は生糸を送り出すだけでなく、西洋の文化を丘陵にもたらす役割も果たしました。
八王子市松木に所在する遺跡からは西洋磁器が見つかっています。
A. 西洋磁器
底裏銘(1)
底裏銘(2)
B. 西洋磁器