多摩丘陵は、武蔵野台地と相模野台地を分け隔てる「境」となっています。
平坦な台地を歩んできた人々にとって、多摩丘陵はあたかも移動をさえぎる壁のように感じられたのかもしれません。
特に、西からきた人々が丘陵の縁で歩みをとめてしまったかのような現象がさまざまな時代に見られます。
ここでは、縄文、古墳、古代という3つの時代の例をご紹介します。
縄文時代の早期後半(約8,500年前)の時期に、「清水柳E類」と呼ばれる土器が現れます。
この土器は、絡条体圧痕(棒状の軸に絡めた縄(条)を押し付けたときにできる痕)と呼ばれる縄目の模様を付けることが特徴で、静岡県東部から神奈川県を中心に分布します。
多摩丘陵では、TN No.192遺跡をはじめとする遺跡で見つかっており、丘陵の縁に位置する町田市相原・小山地区周辺に分布がとどまる現象が見られます。
縄文土器 深鉢
弥生時代末期から古墳時代前期という時代の過渡期にあたる古墳時代初頭(約1,650年前)では、特に町田市相原・小山地区で遺跡が集中して見つかっています。
この中で、TN No.916・917遺跡では東海地方西部、TN No.918遺跡では畿内や伊勢湾方面で作られた土器が見つかっています。
これらの土器は、西から来た人々と共に搬入されたものと考えられますが、平坦な相模野台地の先に現れた多摩丘陵を前に歩みを止めたのではないでしょうか。
土師器 高坏
奈良から平安時代の頃(約1,300~1,000年前)には、多摩丘陵の内部にも遺跡が分布します。
しかし、相原・小山地区に所在するTN No.243遺跡では「駿東型」と呼ばれる胴部が大きくふくらみ、内側には指で押された痕跡が際立って残されている土器が見つかっています。
この特徴を持つ土器は、静岡県東部地域を中心に広がっています。
この土器もまた、西から移動してきた人々によって運ばれてきたもので、丘陵の縁でとどまり、丘陵内部の遺跡からは見つかっていません。
土師器 甕
縄文時代、古墳時代、古代とそれぞれ遠く離れた時代でありながら、西から来た土器(図中赤丸印)が多摩丘陵西縁で
分布を遮られるという共通した現象が見られます。