<戦争とニッカ その1>
「余市町でおこったこんな話」からご紹介
終戦記念日にちなんで、「余市町でおこったこんな話」から<戦争とニッカ>をご紹介します。
その109 戦争とニッカ(その一)
ニッカウヰスキー(大日本果汁株式会社、当時) は太平洋戦争中、軍の監督工場となっていて、将校への配給用のお酒を製造していました。このため優先的に原料が割り当てられ、物資不足の影響を受けずにウイスキー製造を継続していました。
戦中、順調にウイスキー製造を続けたニッカウヰスキーでしたが、これにはイキリスからのスコッチウイスキー輸入が途絶えたことも背景にありました。
ウイスキーのおもな納入先は小樽にあった陸軍輸送部船舶部隊(通称、暁部隊)でした。なかにはアリューシャン列島へ出撃する同部隊からの注文で、缶入リのウイスキーを製造したこともありました(『ヒゲのウヰスキー誕生す』)。
軍指定の工場になったニッカでしたが、スコットランドからやってきた竹鶴さんの妻、リタさんへの周囲の目には厳しいものがあリました。
竹鶴家にあったラシオの雑音がひどくて聞きづらいので、従業員が見兼ねてアンテナを立ててあげたところ、敵国との秘密の交信をしていると疑いを持たれたのか、特高警察(反政府的な活動などの監視をする警察組織のひとつ)が踏み込んできたことがあリました(前掲書)。
汽車に乗って小樽や札幌に向かう時も尾行がつき、竹鶴夫妻が上京しようとした時には、青函連絡船に乗り込む間際のリタさんが特高警察に取り囲まれ、リタさんだけが余市に送リ返されたこともありました。
太平洋戦争か終わった昭和20(1945)年10月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれました。
同年の秋のこと、米軍のジープ数台か土ぼこりをまきあげて、大日本果汁の敷地に 乗り込んできました。突然やってきた米軍に、工場の皆は何事が起きるのかと心配しましたが、竹鶴さんは流暢な英語でひるむことなく対応しました。
彼らはスコットランド人のリタさんが余市に住んでいることを知っていて、戦後の混乱に彼女が巻き込まれないようにと、護身用の鉄砲を持ってきてくれたのでした(同)。
その2年後、仙台にあった第四兵団司令部から 4人の米軍将校が、うち2人は奥さんを伴って北海道へ熊撃ちにやってきました。一行はリタさんの体調を心配してニッカへ立ち寄リ、薬やビタミン剤を届けてくれました。