余市町地域おこし協力隊員
田口 りえ さん  


2021年10月に、余市へJターンして地域おこし協力隊員としてご活躍中の田口りえさんにお話をお聞きしました。

赤井川カルデラ展望台にて 

余市とのご縁をお聞かせください 

田口さん

私は札幌生まれ、小学校から高校まで旭川で育ちましたが、夏休みや冬休みになると、余市の登に帰省していました。そこは母の実家で祖父母や伯父夫妻が営む山本観光果樹園があり、夏は畑を走り回って虫を採り、冬は歩くスキーで遊び回っていました。余市への帰省は大人になってからも続き、楽しい思い出と安らぎに満ちた町でした。 その後進学で大好きな北海道を離れてからは静岡・岡山・東京 などに20年以上暮らしておりました。 

何故、余市にJターンしようと思ったのですか 

田口さん

2019年に伯父(故山本幸章さん)が亡くなり、残された伯母も余市から転出しました。このままでは 余市と疎遠になってしまう。私にとっての故郷は余市であり、伯父が育てた果樹園だったんだと、その時はじめて気が付きました。 2021年の春、夫が数年以内に札幌へ転勤する話が浮上しました。ニッカウヰスキーと余市とカフェが大好きな夫は、「札幌に転勤したら余市に住む。眺望の良い土地を買って平日は札幌へ通勤して、週末はカフェをやる」と突然宣言したんです。 驚きましたが嬉しくもあり、すぐに土地探しと情報収集を始めました。夫は、宣言したからにはと本格的なお菓子作り教室に通い始めました(笑)。


最も心強い理解者が背中を押してくれたんですね! 

田口さん

6月に余市へ土地探しに行きましたが、なかなかイメージに合う場所がなく考え込んでいた時にたまたま入った仁木のお蕎麦屋さんで、運命が動きました。 そこは同じように東京からJターンし、前年にお店を開業されたnaritayaのご夫妻のお店でした。私がいきさつを話したところ、お二人は「自分たちとまったく同じ経緯をたどっている。人ごととは思えない。何でも聞いて!」とおっしゃいました 。 そこで、『地域おこし協力隊』として移住してから人脈を広げ理想の場所探しをするという選択肢もあることを教えて頂きました。

早速問い合わせた結果、幸いにも余市町の方からご連絡を頂き、7月下旬に再び余市 へ行きました。 

素晴らしい巡りあわせがあったのですね。それですぐに土地や仕事は見つかったのですか 

田口さん

役場の皆さんにはとても親切に説明して頂きました。やはり土地などの細かい情報を得るためにも移住するのが望ましいということでしたが、「地域おこし協力隊」については「今募集をかけている業務は、なかなか採用に至らなくて」という事でした。実は、その日は余市が最高気温36℃を記録した日で、室内があまりに暑くぼーっとしていたことから、肝心の地域協力隊の話を詰めることなく東京に戻ってしまいました。

結局、エアコンの効いた自宅で募集中の協力隊の業務内容を見て驚きました!

『余市 観光協会のECサイト(公式)余市観光協会オンラインショップ エルラプラザ (yoichicho.com) の運営管理、デザインソフトを扱える人』という条件でした。

これはまさに「今の私がやってる仕事の一つだ!」と驚きました。 


当時東京でされていたお仕事に支障をきたす心配はなかったという事ですか 

田口さん

私は長く会計人事のコンサル会社や官公庁に勤務してきましたが、その後は、色彩コンサルに特化した会社から独立し、コンサル業や研修業、ライティング、デザインの仕事を していました。パソコンさえあれば場所を選ばない為仕事が増えていました。

そこで、私が一足先に余市に行って仕事をしながら土地探しをし、たまに上京して東京での仕事をすることを夫に相談したところ、「ぴったりの仕事だね。先に行っていい土地を探してきて!」と笑顔で背中を押されました。早速余市の「地域おこし協力隊」に応募したところ採用に至り、2021年10月、余市へJターンしました。


子供の頃の余市の思い出をお聞かせください 

田口さん

香りや色とともに鮮やかに残っています。小さな頃、秋には町中がりんごの爽やかな香りに包まれ、曇り空にりんごの赤がほんのり映っているように感じたことを覚えています。登の納屋で竹カゴや木箱に囲まれながら、選果の手伝いを少ししながら遊んでいました。今も仕事で活きている色彩や匂いに対する敏感な感覚は、余市での原体験が源になっていると実感しています。 余市で過ごす日々は、濃密で豊かな時間でした。

祖母と時折5号線沿いにあったエスカレーター付きのシガさんのお店を「デパート」と呼び、バスで登から買い物に行ってました。祖父が晩酌していたブラックニッカの瓶を格好いいなと思ったことや、薪ストーブ にくべられたりんごやさくらんぼの枝が燃えるいい匂いも記憶に残っています。 夏の夜は山から垂直に登るように見える天の川は印象的で、とても贅沢な時を余市で過ごしていたと思います。 

伯父(故山本幸章)さんとの思い出をお聞かせください 

田口さん

忙しい仕事の合間を縫い、伯父は小さい私や兄とよく遊んでくれました。夏に私と兄を海水浴に連れて行き、私を海中の岩に乗せたまま「ちょっと待ってろ!」と言い置いて沖へ泳いで行ってしまいました。しばらくしたら貝などをどっさり採って戻ってきましたが、待っている間は、魚や海蛇が回りを泳いでいてそれが怖くて、以来、海の沖はちょっと苦手です(笑)。 伯父はいつも出張で日本全国や海外を駆け回っていたので、私が大人になって帰省してもじっくりと話した記憶はほとんどありませんが、伯父の「いい土を残すことが全てだ」という言葉がいつも胸の奥にあります。ゆっくり話せたのは、伯父が入院してからでした。そんなところも伯父らしいな と思いました。 

現在は余市でどんなお仕事をされていますか 

田口さん

 移住後は定期的に東京でも仕事をこなしながら、余市観光協会から業務を受託し、様々な事業を担当させていただいています。主なものは4つです。


1.< ECサイト事業>

 「余市観光協会オンラインショップ エルラプラザ」のサイト運営、デザイン、商品撮影、特集企画、マーケティングなどを担当しています。商品の魅力だけではなく余市の人や風土の魅力を伝えるコラム「余市ストーリー」を始め、取材・撮影・執筆を手がけています。読んだ方が「余市にこんないいものがあったんだね、知らなか った」と喜んでくださったり、取材した事業者さんに雑誌やテレビの取材依頼が入ったり して嬉しく思っています。


2.<サイクルツーリズム事業>

 私自身スポーツ自転車のロードバイクに乗っていて、観光協会でもサイクルツーリズムを盛り上 げようという動きがあり、サイクリングルートの検証と設定を行いました。今は町内の高校生と協力してサイクリングマップ作りに取り組んでいて、これからも色んな皆さんの希望やアイディアを伺いながら本格的な作成に入ります。


3.<YOICHIタータン事業 >

観光協会が企画し、町内の小学生がデザインして町民投票で選ばれたタータンの認知向上と商品化の仕組み作り。スコットランドのタータン登記所に正式に登録されていて、余市のりんごやさくらんぼの赤、余市湾の空と海の青、空の雲の白をイメージしています。 今年の春、播州織の産地、兵庫県多可町と「タータンサミット」をきっかけにご縁が繋がりました。10月に本格的な織り生地のタータンができあがり、今後、生地の販売や町内の作家さんと協力しながらオリジナル商品を展開予定です。 いずれ「余市といえば赤くて可愛いタータンだね」となるように認知を高め広げていきたいですし、幅広い層に愛着を持ってもらえるよう動いています。


4.<デザイン・空間コーディネート提案>

 観光パンフレットやPRツールのデザイン、余市駅の店舗エルラプラザのレイアウト提案 をしたりしています。2021年の冬には、YOICHIタータンをインテリアの一部に取り入れ ています。空間においてはお客様に好印象を与えるのはもちろんですが、働く人達の心地 良さも大切にしたいので、現場の方々の希望やコミュニケーションを大切にしています。

 

また、道新通信員としても町内を取材したり、観光関連の記事を作成したりと、日々あちこち出歩いています。


タータンサミットin多可 

鹿児島山形屋PRツール展示 

最後にこれからの展望をお聞かせください 

田口さん

生前の伯父に東京での自分の話をした際「土に触れない仕事なんて駄目だ」と言われたことがあり、大地を耕す仕事ではないということに、ちょっとコンプレックスを抱いたこともありました。けれど今、私なりの仕事をしていたことで、故郷である余市へ戻ってこられたということが、なんだか不思議で嬉しいです。すべては今に繋がっている。このご縁も、口は悪いけど本当は優しい伯父が、計らってくれたのかなぁと思うことがあります。 これからは、余市の大地と心を耕すことに深く関わっていきたいです。


田口さん有難うございました。幼少期、余市で目にしたもの、味わったもの、触れたもののすべてが、田口さんの豊かな感性を育み、今再び余市で輝いていますね。田口さんの「余市のご実家」は、明治3年香川県から入植され、以来登地区で営々と土づくりに励んでこられた農家さんでしたね。そうした誇りを胸にして益々ご活躍されることをご期待申し上げます。(加我)