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北ヘ 開拓者二人



島 田  英 重 

 

会津武士たちの余市入植の歴史に関する菅原一也氏の寄稿(余市文芸第42号)を拝読したおり、20年近く前のある体験を想い出し、しばしの感慨を催した。当時私は現役の新聞記者で、長期の連載企画の取材旅行をした。往時の北の開拓者たち ―― 超人的な執念と行動力で、極寒の未開地を切り拓いていった数々の人物像とその足跡を辿(たど)る企画だった。その記憶が、会津の人たちの苦難の歴史と重なり合ったのである。

そして、この取材旅行で特に感銘を受けた二人の人物についての記憶を新たにした。一人は道東の旧白滝村(現遠軽町)の開祖にして近代合気道武術を確立した植芝盛平、他一人は十勝陸別町の開祖として今も「関神社」の名で祭られる医師、関寛斎である。

ともに平穏安逸の前途を捨て、あえて苦難の道に突き進んで行った。そうした並外れた突破力と、稀有なまでに真摯な人間性に強く惹()かれた。新たな時代への地平を拓いた純粋無垢な魂に、胸を打たれたのである。


植芝盛平のふるさと和歌山県田辺市を訪ねたときのこと。駅前広場で奇妙なものが目についた。お目当ての植芝盛平に加えて博物学・植物学・民俗学の大学者南方熊楠、それになんと武蔵坊弁慶の三者を漫画チックにあしらった絵姿が立ち並んでいたのだ。説明パネルには誇らしげに「郷土の三偉人」とあった。

確かに弁慶は、紀伊国(和歌山県)生まれという説があるものの、実在の人物かどうかも含め詳細は分かっていない。だが他二人はまぎれもない紀伊国人(南方熊楠は和歌山市出身)だ。熊楠は盛平より16歳年長で、広範な学問体系を渉猟(しょうりょう)し奇才の名をほしいままにした。奇しくも二人は、明治政府が1909年(明治42年)に断行した「神社合祀令」に反対する運動で先頭に立った盟友同士でもある。盛平はのちに「あのとき初めて国事に奔走しているという喜びを味わった。熊楠じいさんは偉いお方じゃった」と述懐している。

かれは富裕な農家に生まれ、伸び伸びと育った。長じて文具商になり、のち日露戦争に従軍。そして1912年(明治45年)、29歳のとき北見国紋別郡湧別村白滝原野に入植した。国の「北海道開拓団体」募集に応じ、農漁家の二、三男を主とする「紀州団体」54戸80余名を率いて北の涯(はて)に赴いた。純粋で血気盛んな青年だったことがうかがわれる。神社合祀令反対運動に続いて「国事」にかかわる高揚感もあったと思われる。

当然ながら、開墾の労力は想像を絶した。大雪、酷寒、暴風雨、クマの脅威。畑の作物を食い荒らすキツネ、ネズミ。夏場は小虫の大群にも脅え、3年続いて冷害凶作にも見舞われた。

苦難の試練に懸命に耐えつつ、盛平は原生林を覆い尽くすアカダモ、トドマツなど巨木の伐採に渾身の力を込めた。持ち前の根性はくじけなかった。開墾の資金を得るため道庁にかけあうなど陳情請願にも奔走した。

やがて、待望久しい時節が訪れた。開拓民らに奨励したハッカ栽培、伐木(ばつぼく)(樹木を切りたおすこと)事業、馬産酪農などの経営がやっと軌道に乗り始めたのだ。

さらに暮らしの環境整備も重要だった。かれは学校や住宅の造成、道路、給水施設、商店街などの整備の先頭にも立った。入植者たちはこの卓抜な若い指導者を敬愛し、「白滝王」の名を捧げた。上湧別村会議員にも推された。

温暖な土地で自由奔放に育った一介の青年が、なぜここまでわが身を鼓舞し、困苦に追い込んだのか。私はその人間性に強い関心を持った。

盛平の合気道武術の後継者になった三男植芝吉祥丸(1999年没)は、その著書に「苦しみの極限に己(おのれ)を挑ませる気概(にあふれていた)」と書いている。

苦しみの極限に挑む ―― 。まさにそうだったのだろう、と私は思った。進取に富む単純無垢な魂。はるかな尚武の時代の精神風土を雄弁に体現しているようだった。同時に、時代の宿命と業(ごう)のようなものも感じた。それは72歳の老軀を省みず北辺開拓に飛び込んだ関寛斎の人間像とも重なり合うことだ。

1962年(昭和37年)8月、旧白滝村は住民あげて、「開基50周年」を祝った。

「開基」とはもちろん、盛平ら紀州団体の人々が入植を果たした記念すべき年を指す。当時の取材で会った村役場の幹部は、「今の市街のもとをつくり上げた大恩人」とたたえた。だが現地は開拓時代の熱気はすでに遠く、人影まばらな集落と寂しげな農村風景が散らばるばかりだった。

盛平の8年に及ぶ白滝時代は実のところ、かれの人生のささやかな通過点に過ぎなかった。かれの本当の凄さはむしろ白滝以降から疾走を早め、全開していったといっていい。

身長五尺一寸(156センチ)足らずの小柄ながら、幼少から柔剣術に親しみ、力持ち自慢だった。金時マサカリで巨木を切り倒す重労働で、いっそう鉄腕が鍛えられた。白滝では、雪の坂道で転落した馬車を馬ごとかつぎ上げたり、買い出しの食料を狙った強盗三人組を雪中に叩き込んだり、数々の武勇伝を残している。

運命の転機となったのは、1916年(大正5年)の3月、遠軽の旅館で、ある武道の達人に出会ったことである。古武術の流派大東流の中興の祖といわれる武田惣(そう)角(かく)だった。このとき54歳の惣角は、筋骨逞しい盛平の素質を見抜き、請われるまま諸武道の成り立ちや心得を説き、多彩な技を披瀝した。

相手の力を徹底して利用し、巧みに逆を取る変幻自在な技。流れるような神秘さをたたえた凄業だった。盛平はたちまち魅了された。

「これこそ理想の合気技だと霊感のようなものを感じた」とのちに語っている。二人の達人は後年、金銭問題や技についての考え方の違いから不仲説も喧伝されたが、心底では生涯、惣角への感謝を忘れなかったという。

開墾作業をしつつ武道修行に励む ―― 。こうした生活様式「武農一如」の精神がここから生まれた。この精神の確立と主体的実践は、盛平の後半生の根本を貫く指針となった。

惣角との出会いから3年を経て、「チチキトク」の電報を受け田辺に帰った。さらに父の平癒(へいゆ)を願って、綾部(現京都府綾部市)の大本教本部を訪ね、教祖の出口王仁三郎に面会した。大本教は当時の新興宗教で、急速に信者を増やしていた。盛平は包擁力にあふれた出口の人柄に心酔し私淑(ししゅく)した。かれの直截的で明快な性格のゆえんだ。出口の方も盛平のひたむきな律儀さを愛し、武道を天職として極めるよう諭(さと)した。「合気道」の命名者は出口王仁三郎である。

大本教は満蒙(まんもう)の地に宗教国家の建設を目指していた。盛平は出口に随伴して蒙古(現モンゴル)に渡った。馬賊らの覇権争いなどで現地は不穏な情勢だった。馬賊の一団に道案内してもらったとき、敵対する張作霖一派と銃撃戦になった。そのとき飛んできたタマが「光って見えた」といい、難なく敵弾を避けられた。心眼ともいうべき天分を備えていたのだろうか。

盛平は綾部で教団信者らを相手に、道場「植芝塾」を開き、家族も呼び寄せた。有名な第一次大本教事件(1921年=大正10年)に遭遇するなど波瀾もあった。この事件で出口は逮捕されたが盛平は難を逃れ、以後、合気道一筋の後半生へ突き進んでいった。

修練と技の工夫に没頭する一方で、合気道の普及発展にも本腰を入れ、各地を行脚して模範試合などを重ねた。愛好者は順調に増えていった。30年(昭和5年)、東京・牛込若松町(現新宿区若松町)に開いた本部道場には軍人、政財界人、文化人ら名士が集まり、隆盛を極めた。陸海軍人の指導には特に熱を入れ、多くの幹部将校が私淑した。支那事変(日中戦争)で第二連合航空隊参謀に任命された源田実少佐(航空自衛隊の育ての親。参院議員を4期24年務めた)は、出陣に際し最後の稽古をつけてもらったという。

戦時下の1942年には本部道場を三男吉祥丸に譲り、茨城県岩間町に移住した。お手のものの開墾伐採作業や野菜づくりとともに、新たな技の工夫や木刀の素振りの日課を怠らなかった。「武農一如」のたゆまぬ実践だ。

合気道は古武術の諸流に源があるが、似て非なるものは「強さ、勝敗を争わない」とする絶対の心であるという。それは厳しい修業の歳月のうえに会得した「気・心・体一如」の精神に基く。気は心の動きを表現する力、心は自我そのもの、体は肉体。かれはそれら「三位一体」が織りなす自在の境地に至ったのだった。弟子らはその人と技を「不世出の達人」「神技」とたたえた。

二代目植芝吉祥丸の二男守央さん(三代目道主)は、当時の私の取材に「天地、宇宙と和合調和する世界こそ合気道の神髄。常に高い位置に目標を置いて励んだその求道精神には、わがお祖父ちゃんながら胸を打たれます」と語った。

盛平は86歳で他界。故郷の田辺市は名誉市民、晩年を暮らした岩間町は名誉町民の称号をそれぞれ贈った。

私が田辺を訪ねたとき、ある中年の道場主の話が面白かった。小学生のころ、地元の演武大会で盛平の姿を初めて見た。小さく貧相な感じの老人がそこにいた。ところが意外にも敏捷なその身体が動き出した瞬間、警官ら柔道の猛者連中を次々に投げ飛ばしていた。目にも止まらぬ早業だ。息切れもせずあくまで端然としていた。

「心底おどろきました。ボクもああなりたいと痛烈に思いました」

と話してくれた。


市街の外れ、聖徳太子が創建したと伝えられる名刹高山寺にも足を運んだ。盛平や南方熊楠の墓があり、付近に合気道関係者が建てた「開祖植芝盛平の碑」も。国内外から合気の士が訪れ、線香の香が絶えない。その中に、米国のアクションスターで合気道七段のスティーブン・セガールの姿もあったという。

さて、次は関寛斎の話を。

今年(2019年)3月、千葉県佐倉市にある「佐倉順天堂」記念館を訪ねた。江戸時代後期の高名な蘭方医佐藤泰然が、天保14年(1843年)に開いた蘭医学の塾兼診療所だ。日本初の外科病院として知られ、寛斎の医師としての出発点ともなった。記念館は、診療棟など施設の一部を近くから移して整備されたもので、質朴な武家屋敷風のたたずまい。白っぽい屋根瓦が早春のやわらかな陽を浴びて輝いていた。庭木の白木蓮の色が目にしみた。

寛斎は、近郊の九十九里浜で貧農の家に生まれた。13歳で儒学者関素寿と養子縁組し、18歳になって以後およそ8年間、佐倉順天堂でオランダ医学の基礎を学んだ。

師の泰然は寛斎の才能と誠実な人柄を見抜き、親身に教えを授けた。独り立ちした寛斎は銚子で開業後、豪商浜口梧陵の支援を受け、長崎に一年間遊学。オランダ人医師ポンペの教えを受け、最新医学の知識を吸収した。篤実な勉学の徒だった。

数えて33歳。縁あって四国の大藩、阿波徳島蜂須賀藩の藩医に迎えられた。めまぐるしい転進を経て、蘭方医としての名声を高めていた。明治維新の戊辰(ぼしん)の役(上野戦争)では、官軍の彰義隊討伐軍主任大村益次郎(日本陸軍の創設者。明治2年暗殺された)に請われ、官軍の野戦病院長に就いた。医師でもある大村は、寛斎の経歴と実力をよく知っていた。

寛斎は官軍幹部らの非難をよそに、官賊の別なく傷痍()者の治療に献身した。そのあとの奥州戦争にも、「出張病院頭取」として従軍。西郷隆盛は寛斎の人柄と一貫した人道的施療行為を賞賛し、新政府でも要職に就けたい意思を示したという。

そのまま江戸にとどまれば、立身出世は間違いないないとみられた。キリスト教と博愛精神を標榜するトルストイ主義を通じて、寛斎と親交が深かった作家徳富蘆花は後年、短文集『みゝずのたはごと』に「軍医総監男爵は造作もない―」と書いた。

だが寛斎は世俗的な栄達に背を向け、藩籍がある徳島にさっさと帰ってしまった。司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」によると、

「いまさら、人に頤使(いし)(あごで人を使うこと)されて生きてゆきたくはないよ」

と言ったという。

蜂須賀藩の第13代、最後の藩主斉(なり)裕(ひろ)は11代将軍徳川家斉の子で、御殿医寛斎とウマが合った。閉鎖性の強い藩内でよそ者同士として互いに近づき、釣りや騎馬行でよく行動をともにした。斉裕は深酒がたたって、戊辰の役ぼっ発直後に病死。寛斎は、おのが医術の及ばなかったことを涙を流してくやしがり、心で殿様にわびた。徳島市街の西側にある万年山(標高236メートル)には、初代小六政勝はじめ歴代藩主の廟(びょう)が並ぶ。寛斎は月2回の墓参を欠かさなかった。

維新から6年後、士族の身分を捨てて一介の町医者に転じた。貧者からは治療費を取らず、無料患者は有料者の6倍の数に達したという。恩師ポンペが説いた「患者に身分、上下の差別はない」との教えを固く守り、佐藤泰然や浜口梧陵の「人たるの道」の教えにも忠実に従ったのである。

寛斎の徳島時代は40年近くに及び、今に残る数多くの逸話を残した。最愛の妻あいが手織った木綿羽織をボロボロになっても手放さず、夏場は薄汚れた浴衣姿。呼ばれれば気軽にどこにでも出向く「ゲタ履きの名医」として庶民に慕われ、「関大明神」とまであがめられた。

献身的な医療・社会奉仕活動は広範囲に及んだ。貧民の子への無料種痘、コレラ防疫、日清戦争の傷病兵介護……。海水浴、冷水浴の効能などの運動の勧め、病気予防のための養生や投薬の大切さなども説いて回った。現代の予防医学にも通じる先駆的な思想だ。

私は十数年前に徳島を訪ねたおり、徳島城祉の東側にある県立城東高校の正門前で「慈愛進取の碑」に見入った。地元の郷土史家泉康弘さんら有志が1991年に建立した。案内をしてくれた泉さんは、

「慈愛とは貧者への温かい目、進取は次々に新しいことに挑戦する心意気。寛斎はまさにそれらを体現したのです。碑を通じて忘れ去られた郷土の貴重な歴史を知ってほしかった」と話した。

「進取」の碑文通り、寛斎の心意気は72歳の老境を迎えても衰えることを知らない。北辺開墾への熱い思いが募っていた。8男4女の大家族に恵まれ、人々に敬愛される身だが、子や孫に囲まれた楽隠居などはまったく念頭になかった。全財産をはたいても十勝の原野にこの身を燃やし尽くす、との信念はゆるがなかった。

なぜこうまでも寛斎を北の地に駆り立てたのか。陸別町の寛斎研究者斉藤省三さんは、当時の私の取材に「北海道開拓は明治人の夢をかき立てた。酷寒への挑戦こそ世に対する義務と決意したのでしょう」

と率直に語った。

寛斎は無類の健筆家としても知られ、丹念に日記をつけていた。養生の心得、身辺の生活記録など多くの文章を残したが、医業を捨て開拓に邁進した心境をこんな一文に残している。

「空しく楽隠居たる生活を以て安逸を得て死を待つは、此()れ人たるの本分たらざるを悟る事あり」。

十勝国本別村斗満(現陸別町斗満)の原始境に足を踏み入れたのは1902年(明治35年)、植芝盛平の白滝入りの10年前である。そして盛平の苦難と同様に、原生林と荒蕉(こうぶ)地の開墾は過酷な闘いに終始した。冷害や霜害、動物たちの来襲に加え、空を真っ黒に覆うアブ、ブヨ、ヤブ蚊の大群にも恐れおののいた。

生活記録「関牧場創業記事」にこんな記述がある。山にワラビ採りに出かけ、小虫の大群に襲われた。煙に巻き込まれたようになり、顔や手がたちまち覆われた。まぶたが腫れ上がって呼吸困難を起こし、5日間寝込んだ――

それでも、未開の原野は拓かれた。入植から7年を経てようやく2000ヘクタールもの緑豊かな大牧場に生まれかわったのだ。「農牧村落を興(おこ)す」大目標を掲げて奮闘した寛斎はどんな感慨を持っただろうか。

かれは清冽な斗満川の下流域、斗満橋のたもとにある駅逓(てい)所に住みついた。昔からの習慣である朝夕の冷水浴をここでも欠かさなかった。風邪や凍傷とも無縁の頑健な身体だった。

厚さ数十センチの氷をナタで割って穴をうがち、躊躇なく身体を沈める。開墾の労苦も世俗の憂愁も身を刺す冷水で心地よく癒(いや)された。そこは寛斎ひとりの禊(みそぎ)の場でもあった。


だが予期せぬ不幸や災厄が待ち受けていた。妻あいに先立たれ、大きな心の支えを失った。牧場では飼養馬が疫病で大量斃死(へいし)した。たび重なる冷害凶作にも悩まされた。牧場の先行きに不安を募らす小作農らに

「出て行きたい者は出て行け。ワシは最後までとどまるぞ」

とカツを入れたが、失意や焦燥が募り、心身の衰えを噛みしめる日が増えた。

最晩年には、新たな問題でさらに懊悩を深めた。牧場の将来像に関する4男又一との対立である。

又一は16歳になった1892年、父の入植から10年も前に単身渡道し、札幌農学校(北大の前身)に入学した。そのあと石狩の樽川(現石狩湾新港地域)に農場を開き、陸別の斗満にも先発して入った。父の命に従い、忠実なツエになったのである。寛斎の北方開拓計画は突発的な思いつきではなく、又一に現地事情を前もって探らせるなど、周到な準備があっての行動だったことをうかがわせる。

親子の和解の道は遠かった。又一は農学校仕込みのアメリカ式大牧場を夢みていた。一方の寛斎は、同じ十勝の豊頃に入植した二宮尊親(二宮尊徳の孫)を訪ね、二宮が農場の土地を他の入植者に分け与えていることに触発された。このため将来、農場を開放して自作農百戸を育てる計画を立て、それに固執した。

理想主義と現実主義のはざまに起きた宿命的な相克ともいえた。又一は斗満の牧場の後縦者になったが、次第に経営が行き詰まり、父の死から9年後、失意を抱いてこの地を去った。

入植からちょうど10年。82歳になった寛斎は1912年(明治45年)の秋、牧場内の一室で毒をあおぎ死んだ。その5ヶ月ほど前、畏友徳富蘆花宛に形見ともおぼしき品々を送っている。その中の短冊に「人並みの道は通らぬ梅見かな」という句があった。

「わが身をば 焼くな埋むなそのままに 斗満の原の草木肥やせよ」

という辞世も遺(のこ) した。

司馬遼太郎は前記『胡蝶の夢』で、死に臨(のぞ)んだ寛斎の心情をこう書いている。

「徳島に残ったかれの長男やその子が寛斎の財産を剥奪するために訴訟を含むさまざまな手段に訴えつづけたために、気根がくじけはじめたようであった」。

確かに孫の大二(長男生三の次男)が祖父を相手に、財産分与訴訟を起こした。寛斎はあらためて、世の無常を噛みしめたのかも知れない。

―― ともあれ、かれが最期まで「一代の自由人」たらんと欲したのは確かだろう。「人並みの……」の句そのままに、他のいっさいの妥協を許さぬ峻烈なけじめをつけたのである。

徳富蘆花は1910年の秋、初めて斗満を訪れた。二人はトルストイ主義について熱く語り合い、斗満川の源流を求めて牧場内のニケウルルバクシュナイ(広い高台)を歩いた。蘆花ははるか西の彼方の山並みを眺め、その印象を『みゝずのたはごと』に書いた。

この山々の奥の真ん中に大無人境がある、そこに寛斎のカナン(理想郷)がある……と。