■西南戦争
郡元キャンパス内では、西南戦争時の砲弾や小銃弾が出土している。
学術情報基盤センターの調査では、官軍の用いた四斤山砲弾が北東に傾き突き刺さる形で、水田跡から検出されている(図1・2)。
この砲弾は、西南戦争の時に官軍が用いた「四斤山砲弾」である。小銃弾は、スナイドル銃弾がほとんどだが、中には薩軍が鋳造器で製作したと考えられるもの(共通教育棟中庭地点・郡元南食堂)も出土している。史料によると、戦争当時の小銃はスナイドル銃が最も多かったとみられる。
■アジア太平洋戦争
昭和時代になると、学生たちも戦争に巻き込まれ、軍事教練が行われた(図3・4)。
アジア太平洋戦争がはじまると、出征する学生も増えた(図5)。
アジア太平洋戦争末期の昭和20年、高農は3回の空襲を受ける。4月8日には正門付近に直撃し、門衛2名と事務員1名が亡くなり、6月17日の大空襲では、大半の建物が焼夷弾で焼失している。8月6日には戦闘機による銃撃で生徒が亡くなっている。アジア太平洋戦争の痕跡としては、玉利喜造初代校長の銅像の台座にある銃創や、総合研究棟の水田跡で出土した焼夷弾の破片、各地点でライフル弾の破片や薬莢が出土している(図6・7)。
■玉利喜造像
鹿児島大学郡元キャンパスでは、玉利喜造像(図8)が今もなお戦争の歴史を物語る。
玉利喜造氏は、明治42年、南方資源の開発を目的として設立された鹿児島高等農林学校の初代校長として、盛岡高等農林学校(現・岩手大学の前身)より赴任された。日本の農学士・農学博士ともに第1号であり、また、貴族院議員にもなっている。
胸像ははじめ、台座とともに大正14年に安藤照によって作られた(図9)。しかし、像はアジア太平洋戦争中に金属資源の軍需物資として供出され、一時台座だけになっていた。徴用に先立って石膏で型を取り、大切に保存されていたが、昭和20年6月の空襲の際に石膏型も破損してしまった。この空襲の際に機銃掃射の銃弾が台座に命中した痕跡が残っている。
戦後の昭和24年になって胸像は再び制作され、元の台座の上にのせられた(図10)。制作者は、日本近代美術を代表する彫刻家・朝倉文夫である。当時は運送事情が悪く、この銅像は同窓会の一人が風呂敷に包み背負って汽車に乗り鹿児島まで運んだという逸話がある。東京都台東区には、朝倉文夫自身の設計による和風と洋風の両建築を融合させたアトリエ兼住居がある。現在は区立朝倉彫塑館として利用されており、代表的な作品がたくさん展示されている。玉利喜造像もここで生まれたのだろう。
[参考文献]
鹿児島大学総合研究博物館2004『鹿児島大学総合研究博物館 news letter』No.9.
鹿児島大学農学部あらた同窓会編1985『あらた七拾五年の歩み』開学75周年記念事業実行委員会
鹿児島大学埋蔵文化財調査室・農学部2009『農学部開学100周年事業 地中から見た農学部の歩み』
鹿児島大学埋蔵文化財調査センター「大学構内の遺跡」(https://www.kagoshima-u.ac.jp/maibun/post-1.html)[最終閲覧日:2022年7月14日]
[図版出典]
図1、2は鹿児島大学埋蔵文化財調査センターのホームページより引用。図3~5、9、10は鹿児島大学農学部あらた同窓会編1985より引用。図6・7は鹿児島大学埋蔵文化財調査センターの許可を得て執筆者撮影。図8の3D画像は受講生全員で作成。