■鹿児島高等農林学校時代:明治 42 年~昭和 27 年
2006-2地点では鹿児島高等農林学校(後の農林専門学校;以下、高農)の本館北側に当たる第一・二教室、職員・学生便所、雨天体操場(後に柔剣道場)などの建物基礎跡が確認された。2006-4地点では、食堂近くの賄所・配膳室に相当し、2007-4地点では、製糸工場の実験室・検査室の基礎跡が確認されており、かなり正確に、鹿児島高等農林学校と鹿児島大学の建物配置の関係が分かるようになった(図1)。
遺物としては、「鹿高農対岳寮」の食器類に注目している。
対岳寮とは、寮生が錦江の上にそびえる櫻岳に対峙し、櫻岳が超然と塵外に立ち麑市を睥睨するように、この寮舎も天下に覇を唱える人材を養成せねばならぬという意味から、玉利喜造校長が大正6年3月に命名した名称である(鹿児島大学農学部あらた同窓会編1985)。自治制が許されており、共同生活が営まれていた(図2)。
鹿児島高等農林学校の寄宿舎(図3)で使用されていたと考えられる食器(図4)が出土している。青の呉須で右から左方向に「鹿高農對岳寮」と1点ずつ手書きされる染付碗・皿類である。
素地と呉須の様子から、碗・皿ともに2つに大別される。1類はやや肌色の素地をもった白磁で、呉須の文字はややくすんだ色調を呈する。2類は青白色素地の白磁の口縁部に浅い段を持ち、口縁部と高台に鮮やかな呉須の圏線を二条巡らせ、1類と同様の文字を書くものである。
ほかにも当時の建物の屋根を葺いていたと考えられる文字瓦が出土している(2006-2・2007-4地点)。当時の鹿児島では日置瓦が著名であるが、出土した刻印瓦は「柳川・武藤製」などとなっており、福岡製である(図5)。県外商品が用いられることは、近代工業化された製品流通の性格を表すものであろう。
また、2006-4地点でインキンタムシの市販薬や医療薬瓶が出土していることは、高温多湿であったとされる寮生活の一端が垣間見える(図6)。
個人を特定できる遺物としては、裏に旧制中学と個人名のある硯が出土しており、高農時代のものではあったが、高農出身者ではなかった(図7)。
■鹿児島大学時代:昭和 24 年~現在
ここでは、生協と農学部の食器を取り上げる。
鹿児島大学では、昭和25年文理学部に、昭和26年農学部に設置された「厚生協同組合」が合併・改称し、昭和33年より法人化した「鹿児島大学共同生協組合」となる。この「生協」の食器が確認されている(2006-2・2006-4地点・2007-4地点)。また、農学部地点の過去の立ち会い調査においても出土しており、大きく2分類が可能である(図8)。1類は白地の濃青色の「生協」スタンプがつくもので、湯飲み碗・丼碗・皿が得られている。2類は白地に口縁部に二条の緑色圏線が巡り、赤字で「生協」とスタンプされるもので、湯飲み碗・丼碗が得られている。単純から複雑への変化を想定すれば、1類→2類の変遷が想定される。1類は、高台外底面に、1cm大の低平な菱形内に「MINO」と書かれたスタンプ社章があり、「美濃窯業株式会社製陶部」(現・美濃窯業株式会社)製品であることが確認された。同社の商品カタログを見ると、昭和36年までは鹿児島大学は納品先に入っておらず、昭和40年ごろには鹿大医学部とともに取引先のひとつとなっている。
農学部の湯飲み茶碗は,2006-2地点で出土しているが、噴煙を上げる桜島の上部に「大學」の文字、下部に「KAGOSIMA」と描かれた鹿児島大学の学章と、その反対面に「農学部」とスタンプのある茶碗である。学章は開学30周年で変更しているので、昭和24年から昭和54年の30年間に発注されたものと考えることができよう(図9)。
農学部の発掘調査で出土した資料は、「農学部100周年記念展示室」で見ることができます。ぜひ足をお運びください。
[参考文献]
鹿児島大学農学部あらた同窓会編1985『あらた七拾五年の歩み』開学75周年記念事業実行委員会
鹿児島大学埋蔵文化財調査センター2010『鹿児島大学構内遺跡郡元団地D-7・8区、D・E-5区、C-4~6区、C-6区』鹿児島大学埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書第5集
[図版出典]
図1、4~9は鹿児島大学埋蔵文化財調査センター2010より引用。図2、3は鹿児島大学農学部あらた同窓会編1985より引用。