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はじめに

 西川用水は岡山市北区三野の三野浄水場付近の三挺樋で旭川から取水し、岡山市街地を南北に流れ、岡山市南区浦安南町・浦安西町の浦安総合公園付近で笹ヶ瀬川に合流する延長11.2㎞の農業用水路です。平福・福島・福富など新田開発により享保11年に用水供給不足から管掛用水(現在の合同用水)を拡張し、三野で西川用水に合流しており、合同用水・西川用水の延長は16㎞となっています。また、西川用水観音寺用水・能登川用水・大供三股用水・枝川用水などに分岐し、西部地域の農地にも農業用水を供給しています。

 西川用水の原型は平安時代の鹿田庄に見られ、戦国末期の宇喜多秀家~江戸時代初期の池田忠勝によって農業用水・都市用水として現在の形に整備されたと言われています。

 自然豊かな用水路にはウナギ・アユ・カワムツ・モロコ・コイ・ナマズ・オイカワ・メダカ・シジミ・カワニナ・イシカイ・ドブガイなど20種類以上の魚貝類が生息しています。また、初夏には数は少ないがホタルを見ることが出来ます。

 しかし、用水路には不法投棄やマナー違反の空きびん・空き缶・傘・炊飯器・テレビ・パソコン・椅子・財布・自転車等のゴミなどが水路底に見られます。また、ペットボトルやレジ袋などが浮かんでいます。

 岡輝中学校区(清輝小学校区・岡南小学校区)の貴重な財産として、地域の力で歴史的・自然的な価値を有する用水路を美しいまま次世代に残していきます。 このため、西川用水の岡南小学校~瓦橋間約1900m・枝川用水の市道~大学病院間約300mの美化活動を進めます。

西川用水の歴史を見る

吉備の穴海

縄文時代の旭川は龍ノ口山の西山麓から複数いに分岐して吉備の穴海(現在の児島湾)に注いだ。

本流は原尾島、門田屋敷辺りを東南方向に流れ、後楽園東部付近を蛇行しながら南下して青江付近の河口で海に注いた。

もう一つの分流は現在の西川や市役所筋辺りを蛇行しながら南下し、大供付近の加工で海に注いだ。

東へ分流した流路部は現在の高島付近を東南方向に流れ、操山東部の加工で海に注いだ。

西に分流した水路はさらに南北に分かれ、北流は津島付近を東西に流れ、笹ヶ川と合流して吉備の中山東部で海に注いだ。

南流は、現在の岡山駅北側の一帯を東西に流れ、野田付近の河口で海に注いでいた。

現在の西川用水、座主川用水、観音寺用水は旧可道を理想した。

河口部での潮流が緩やかな「吉備の穴海」の島々の間に、旭川、足守川、高梁川などから流出した土砂の沖堆積作用で干潟が発達した。

奈良時代(8世紀頃)から河口に干潟、低湿地帯を排水改良した小規模な農地開拓が行われた。

平安時代

800年代当初、旭川沿岸に開拓

岡山平野の中心としての鹿田荘5(岡、内田、二日市、大供、東古松、浜野、青江など)

南は干潟、湿地帯から移行して海に

海岸線は州崎~福富~万倍を結ぶ線

鹿田荘のかんがい用水の原型は西川用水

戦国時代末期

宇喜多直家が石山の城に入り(1573年)、その子秀家(1581~1600年)が城下町の経営を行った。

城東側の防御を目的に現在の形態に旭川を付け替えた。

この付け替えは、石関で90度東に曲げた上一定の水量を城下に流すため、分流を塞いだ。

その結果、増水すると、石関付近が破堤して城下は洪水に見舞われた。

自然放置になっている西渠などの分流の改修事業を行った。

西渠はこのころから分権に出ている。西川のことである。

関ケ原の合戦

西軍についた宇喜多秀家は八丈島に流刑され、その跡に小早川秀秋が岡山城に入った。

大筒対策として現在の柳川筋に外堀(20日で掘ったので、二十日堀と言われている)を掘り、西渠などとは水路で結んだ。

江戸時代初期

1602年に小早川秀秋が急死、嗣子がいなかったため、小早川家は断絶、跡に姫路の池田家が入った。

池田輝政の次男、忠継が初代城主なるが、幼少のため兄の利隆が10年余り「備前監国」として治める。

忠継の弟、忠雄が2代目藩主となり、農業用水・生活用水としての西川用水を整備した。

和気絹(1709年)には「西川。当府の西町と在との境に小川流れたり。岡山のうちにて宰相忠雄の君の御代に掘らしむる」とある。

寛永年間(1623~1631年)には平福、福島、米倉、福富、泉田、新福、福田などの干拓新田が開発され、西川用水から用水を供給。

旭川左岸では倉田新田(1679年)、沖新田(1692年)が開発、これに伴い津田永忠が倉安川を掘削した。

西川用水の用水供給不足から享保1年(1727年)には管掛用水の水路拡張を建議した。

昭和40年代(1960年代)

美化運動の背景

ゴミの収集は週1回。

西川用水周辺は夜間営業の飲食関係の店が多い。

毎日発生する生ごみの処理に西川用水に不法投棄が多く見られた。

山陽新聞に「泣いている西川~悪質化するごみ投棄」の記事が昭和43年(1968年)10月29日付に出る。

組織設立までの経緯

山陽新聞の記事を受けて、市連合町内会長・副会長が市環境課の方針を聞く。

市は週3~4回職員で午後5時以降に不法投棄の取り締まりを行っているが、これ以上打つ手がないのが現状である。

打開策は地域住民の連帯による住民運動しかないと市が提案。

市の提案を受けて連合町内会役員団で検討した。3日後には具体的な住民運動組織案の作成を市環境課に要請した。

市学区連合町内会、市学区婦人会等で「西川流域美化運動協議会」を昭和44年(1969年)1月に設立した。

現在

平成23年(2011年)に岡輝公民館の人づくり講座後に「西川用水をきれいにし隊」として同年秋に発足したが、平成24年に諸事情から活動を中止した。

平成25年(2013年)12月に岡輝学区の財産として次世代に残していくものとして清輝学区・岡南学区の地域住民が再組織化、また枝川用水も対象を拡大し、名称を「西川・枝川用水をきれいにし隊」に変更して平成26年(2014年)4月から活動を再開した。

清掃活動に加え、魚介類・ホタル・歴史・環境などの勉強会も実施している。

                                               ホタルが生息する・・・・・・

           西川・枝川用水をきれいにし隊

                                                                                                                                    E-mail : oka09876@yahoo.co.jp