富士鉱山・坑道
岩肌に囲まれた坑道は静寂に包まれ、外界から完全に隔てられていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、奥へ進むほどに気温は下がっていく。
照明の届かない闇が広がり、まるで異界へと踏み込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
足元に敷かれたレールの上を、小さな石ころの転がる音が響く。
愛莉たちは慎重に歩みを進めながら、坑道の奥へと向かっていた。
その時、隊員の一人、桜庭ソラが不意に声を上げる。
「課長、これは?」
彼女が指さした先には、ゆっくりと歩く四足歩行のロボットがいた。
薄暗い坑道の中で、その無機質なボディがぼんやりと光を反射している。
メカニカルな関節が音を立てながら動き、その背には何かしらの装置がマウントされていた。
津守課長は視線を向け、淡々と答える。
「こいつは自衛隊から拝借した、入り用でな」
ロボットの背に固定された装置には、「肆〇式可搬広域結界生成装置」の刻印があった。
鈍い金属の塊のような機械は、異様な坑道の空気の中で、不気味なほど静かに佇んでいる。
「奴の使役する怪異に対峙する時、おそらくこいつが必要になる」
課長の言葉に、ソラは小さく頷いた。
「そうですか……」
だが、課長は少し言葉を区切り、険しい表情で続ける。
「だがこいつは最終手段だ。奴に怪異を使わせないのが最善だが……」
その時だった。
坑道の中腹に差し掛かった瞬間、空気が変わった。
微細な振動が、皮膚の奥深くを這うように広がる。
目に見えぬ瘴気が濃密になり、胸を圧迫するような息苦しさが増していく。
そして、八咫烏隊員たちの頭に鈍い違和感が走った。
それはかつて触穢区で、禍人が突如発生した時に感じたものと同じ感覚だった。
「この感じ……やっぱり!」
愛莉は息を呑み、思考を巡らせる。
新宿での逃走時に感じた思考の混濁、触穢区での異様な違和感、そして今の感覚、それらは全て同じものだった。
これが、禍愚羅の感応波……。
愛莉の脳裏にその名が浮かんだ瞬間、背後から鋭い声が響く。
「そうだ、これが鬼嶋の使役する怪異、禍愚羅の能力の1つだ、人間や怪異の思考を愚行へと導き、操る。……来るぞ!」
その言葉と同時に、坑道の奥から異形の影が蠢いた。
無数の足音、獣のような唸り声、そして血肉が擦れるような音、光の届かない暗闇から、禍人の群れが一斉に押し寄せてくる。
「くっ、数が多い……!」
愛莉は歯を食いしばり、鋭く叫ぶ。
「総員、戦闘体制!」
その瞬間、黒い影が頭上を駆け抜けた。
空気を切り裂く音と共に、闇の中から飛び出してきたのは、一人の女性だった。
影は地面に膝をつき、瞬時に体勢を立て直す。
手に握られていたのは、大口径の重機関銃。
その銃口が、襲い来る禍人たちへと向けられた。
ダダダダダダッ!!
けたたましい銃声が坑道内に轟く。
放たれた弾丸が、前方の禍人を次々と屠っていった。
「ここは私が食い止める! 隊長たちは先に進んで!」
「イリーナさん! 今までどこに?!」
イリーナは愛莉を一瞥し、短く答える。
「この件、最初から何者かが私の中に入り込んでくる……そう、私の別の友人が教えてくれた。だから今まで別行動でこの感覚のことを調べていたの」
そう言いながら、イリーナは慣れた手つきで素早く弾倉を交換する。
「さぁ! 早く行って! 時間がない!」
愛莉は一瞬躊躇したが、すぐに決断した。
「……ごめんなさい! 先に進みます!」
彼女は仲間たちを振り返り、全速力で坑道の奥へと走り出す。
だが、その時。
「……っ」
隊員の一人、彼岸花が足を止めた。
「彼岸花さん?!」
愛莉が驚いた声を上げる。
「ごめん、隊長。私もここで食い止める。イリーナを一人にできないしね」
彼岸花は笑みを浮かべながら、肩をすくめる。
愛莉は迷ったが、すぐにその想いを受け止めた。
「……了解。ここは頼みます……!」
「はいよー」
軽く手を振ると、彼岸花はイリーナの元へ引き返していった。
愛莉たちは二人を信じ、振り返ることなく坑道の深層へと急ぐ。
坑道に残されたイリーナと彼岸花。
目の前には、再び群れを成す禍人たち。
イリーナは静かに呟く。
「わざわざ残るなんて、物好きですね」
彼岸花は肩を回しながら、軽く笑う。
「一人じゃ心細いだろ?」
「それもそうですね」
二人は並び立ち、それぞれの武器を構える。
禍人たちが再び蠢き始める。
「それじゃあ——」
彼岸花が銃を構え、ニヤリと笑う。
「いっちょかましてやりますか!」
富士鉱山・坑道 深層部
瘴気が、濃くなっていく。
目に見えぬ靄のようなものが肌を這い、喉を塞ぐような感覚をもたらす。
坑道の岩壁は湿気を帯び、うっすらと黒ずんでいた。
空気は淀み、まるでここが生き物の体内であるかのような錯覚さえ覚える。
確実に、目標へ近づいている。
愛莉たちは瘴気の不快感に耐えながらも、前へと歩みを進める。
しかし、彼女たちの背後からは、断続的に響く不吉な足音が追いかけてきていた。
「……まだ追ってくる?!」
愛莉の声には焦りが滲む。
不快な音が坑道にこだまする。
禍人たちが、粘ついたような動きで追跡してきているのだ。
人の怨念で形作られたそれは理性を失った化け物のように、ただ人への加害性のみで突き動かされている。
姫華と黒鶫は、その気配を背に受けながら互いに視線を交わした。
「……ここは私たちが食い止めます」
姫華が静かに言うと、足を止める。
その表情には迷いがなかった。
「姫華さん……」
愛莉は振り返りかけたが、その瞬間、姫華の瞳に宿る決意を感じ取った。
「必ず終わらせてください」
姫華の言葉は、まるで命のバトンを託すようなものだった。
黒鶫も無言で頷き、すでに武器を構えている。
愛莉たちは二人を信じ、振り返らずに先へ進む。
「……二人とも、死なないで……」
愛莉の祈るような言葉に、姫華は淡く微笑んだ。
「了解」
そして、背中に背負っていた2丁のアサルトライフルを静かに抜く。
その動きに迷いはない。
「背中は任せたよ」
姫華がそう言うと、黒鶫は短く答えた。
「任された」
二人は坑道の中央に立ち、武器を構えた。
視界の奥、禍人たちの蠢く影が、不気味な呻き声と共にこちらへ迫ってくる。
「帰ったら一杯付き合ってよ、隊長」
放り投げられた空のウイスキー瓶が、一体の禍人の顔面に吸い込まれるように向かっていく。
禍人の頭に瓶が重なる瞬間、数発の銃弾が瓶を貫いた。
富士鉱山・最奥部
坑道の先に広がるのは、闇の奥にぽっかりと口を開けた巨大な空間だった。
天井ははるか頭上にあり、壁面はまるで生きた血管のように脈打つ赤い光を放っている。
そこに広がっていたのは、巨大な鉱石の採掘場——そして、それら全てが霊導石だった。
「これが全て……霊導石……」
愛莉の声が驚きに震える。
坑道の岩盤から無数の霊導石が顔を覗かせ、赤く脈動する光が広がっている。
その光は不気味に明滅し、まるでそこに宿る魂が蠢いているかのようだった。
「そうだ」
課長が低く言いながら、辺りを見回す。
「日本最大の龍穴である富士山には、常に膨大な霊力が流れている。その影響で、この岩盤は長い年月をかけて霊導石へと変質していった……」
彼の視線の先には、荒れ果てた簡易プレハブと、無数の死体袋が並んでいた。
それは、ここで行われた禁忌の実験の名残だった。
「……かつての大戦時、旧日本軍は霊導石を使い、人間や怪異の魂を兵器として運用する実験を行っていた」
静かながらも重々しい声で、課長は語る。
「しかし、その実験は禁忌とされ、記録はすべて抹消された、霊導石の管理も日本政府から神祇省へと移され厳重に管理されることとなった。だが、鬼嶋はその封印された実験を復活させ、怪異に対抗できる霊力を持つ兵器を作り出そうとしていた」
愛莉は息を呑み、隊員たちに指示を出した。
「プレハブと死体袋を調べて」
ソラが、そっと死体袋のジッパーを開く。
次の瞬間、彼女は息を詰まらせた。
「……隊長、これは……」
そこに収められていたのは、すでに干からびた死刑囚たちの死体だった。
人間の魂を霊導石に移し替えるための実験の犠牲者たち。
「そんな……一体、人の命を何だと思って……」
愛莉は唇を噛み締める。
その時だった。
ギィィィィィ……!
再び、頭の奥を鋭い不快感が駆け巡る。
「……クッ、また……!」
視界の端、闇の中から這い出るようにして無数の影が現れる。
禍人たち、彼らの足音が、不気味なハーモニーとなって坑道に響く。
そして、その中心に、男がいた。
鬼嶋佑介。
暗闇の中からゆっくりと歩み出るその姿は、まるで影が具現化したかのようだった。
「ついに辿り着きましたか」
冷たい声が響く。
彼の表情には、怒りと苛立ちが滲んでいた。
「全く……不愉快ですよ」
愛莉たちを見下すように立つ鬼嶋の瞳には、狂気じみた光が宿っていた。
「しかし丁度いい、人間の魂を霊導石に移し替えても、純度を高めるだけで定着はしなかった」
彼は静かに続ける。
「やはり……あなた方のような化け物でないと」
その言葉に、愛莉の眉が険しく寄る。
「何故、こんなことを?」
津守が問う。
鬼嶋はしばらく沈黙し、そしてぽつりと呟いた。
「……何故って?」
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳には、憎悪が宿っていた。
「許せなかったんですよ」
彼の声が静かに、しかし確実に張り詰めた空気を震わせる。
「あの時、政府と警視庁は私たちの犠牲をなかったことにした!」
彼の視界には、過去の記憶が浮かんでいた。
かつて鬼嶋が率いていた部隊は、とあるカルト教団での反体制活動を鎮圧する作戦中に教団が顕現させた怪異と遭遇、一方的に蹂躙され、壊滅した。
「隊長……!助けて、くださ……死にたくない……!」
目の前で呑まれる仲間の断末魔は、彼の頭にこびり着いていた。
生き残ったのは、彼ただ一人。
しかし、その事実は公表されることはなかった。
公式の報告書には「隊長の指揮ミスにより部隊が壊滅した」と記されていた。
彼は懲戒審査会にかけられ、停職処分を受け、全てを失った。
政府は、怪異の存在を隠し、全てをもみ消したのだ。
「だから、私が全てを変えてやる……!」
鬼嶋の声は、熱を帯びていく。
その恨みを晴らすために、彼は動いた。
警視庁長官を操り、組織のトップへと上り詰め、そして、自らの手で怪異を根絶するための組織を作り上げた。
その障害となる八咫烏を排除するために。
「この世界は、我々人間が統べるべき世界だ!」
鬼嶋の声が、坑道に響き渡る。
「怪異の根絶こそが、我々人類の正義なのだ!」
その眼には、狂信的な光が宿っていた。
「貴様ら八咫烏も、本質的には人間ではない、ならば排除するべき敵だ!」
彼の視線が、愛莉たちを射抜く。
「各員!戦闘体制を取れ!」
課長の声が響く。
「戦闘開始!」
その掛け声と共に、各隊員達は禍人へと向かっていった。
鬼嶋は鋭い眼光を向けると、迷いなく腰のホルスターから拳銃を抜いた。愛莉を狙い、トリガーを引く。
パンッ! パンッ!
乾いた銃声が響く。愛莉はすかさず構えた盾を前に突き出し、銃弾を弾いた。
その衝撃をものともせず、盾を支点にしながら素早く踏み込み、鬼嶋へと肉薄する。
「はぁっ!」
鋭く踏み込んだ愛莉は、盾を大きく振りかぶると、鬼嶋の右腕を思い切り弾き飛ばした。
銃が宙を舞い、硬い床に落ちて甲高い音を立てる。その隙を逃さず、彼女は渾身の蹴りを放った。
ドンッ!
鬼嶋の腹部に半妖の怪力を乗せた蹴りが炸裂する。彼の身体は大きくよろめき、大きく後方へ吹き飛ばされる、しかし。
「そんなものですか?」
不気味なほど冷静な声が響く。
鬼嶋はゆっくりと立ち上がると、着ていたコートを払った。そこには、蹴りを受けたはずの腹部に目立ったダメージは見当たらない。
「半妖といえど、所詮その程度。嘆かわしい」
「そんな……生身の人間が、私の蹴りを耐えられるわけ……」
愛莉の表情が強張る。彼女の蹴りは、常人であれば即座に意識を失うほどの威力を持っていた。しかし、鬼嶋はそれをものともせず、今なお冷静なままだった。
「ここからは反撃と行きましょうか!」
鬼嶋の声とともに、空気が一変する。
一瞬で距離を詰めた彼の拳が、猛烈な勢いで愛莉へと襲いかかる。その速度は、人間の動きとは思えないほど速く、鋭い。
愛莉は何とか盾を構え防御するが、それでも衝撃が腕に響く。
(速い……! まるで私と同等、それ以上の力が……!?)
彼女の脳裏に警鐘が鳴る。
「愛莉! 離れろ!」
津守課長の声が響いた。
次の瞬間、白銀の獣が鬼嶋へと飛びかかった。
津守が召喚した式神の妖狐が、鬼嶋の腕に鋭い牙を突き立てる。
「このっ! 穢らわしい! 離れろ!」
鬼嶋は激しく振り払いながらも、妖狐の牙に食い込まれた右腕から鮮血が滴る。しかし、彼は痛みを気にも留めず、怒りに満ちた目で睨みつけた。
「クソッ、なぜ分からない……! 貴様らのような半端者や怪異に与する者が、この世の理を乱していることに!」
その顔は怒りと憎悪に歪んでいた。
「怪異の存在は人類にとって害悪でしかない! 私はその歪みを正そうと言うのだ、邪魔をするな!」
「ふざけないで!」
愛莉は鋭く反論する。
「だからと言って、半妖の人々や死刑囚の命を弄んでいい道理なんてない! あなたの正義のために犠牲を強いるなんて、そんなのただのエゴよ!」
だが、鬼嶋は耳を貸さない。
「黙れ! この世界を統べるのは、我々人間だ!」
憎しみに満ちた声が響く。
その叫びを静かに聞いていた津守課長が、一歩前に出ると低く呟いた。
「なら貴様は、この世を統べるには不適格だな」
「何!?」
「自分の腕を見てみろ」
そう言われた鬼嶋は、妖狐に噛まれた右腕へ視線を落とした。
そして、目を見開く。
傷はすでに塞がりかけていた。およそ人間の治癒能力ではあり得ない速さだった。
「なん……だ、これは……?」
狼狽する鬼嶋に、津守は静かに続ける。
「その不可解な頑丈さと治癒力、そして禍愚羅を使役できる理由。そして何より、お前の身から溢れ出る妖力が、お前はもはや人間ではないと告げている」
「そんな……そんなはずはない!」
鬼嶋は全力で否定する。しかし、冷静に現実を突きつける津守の言葉が、彼を容赦なく追い詰めていく。
「どう思おうと勝手だが、それが現実だ」
津守の冷たい声が、鬼嶋の心に鋭く突き刺さる。
「クソッ、クソッ! いつからだ?! いつから私は……?」
そして鬼嶋の脳裏に、ある記憶がよみがえる。
「あいつだ……禍愚羅を寄越したあの男が、あの時……」
何かを確信したように鬼嶋の表情が険しく歪む。
「どいつもこいつも、私をコケにしやがって! 禍愚羅!」
鬼嶋の激昂と共に、地面が禍々しい瘴気に包まれる。その中心から、異形の怪異が現れる。禍愚羅。
「ここにいる怪異どもを、全員殺せ!」
しかし。
禍愚羅が動いた瞬間、その視線は鬼嶋自身を捉えていた。
「……何?」
次の瞬間、大きな手が鬼嶋の身体を掴み上げる。
「何をする、標的は私ではない……! はっ、放せぇ!」
悲鳴のような叫びが響く。
だが、すべては鬼嶋自身の命令通りだった。
禍愚羅は「怪異を全員殺せ」という命令を忠実に遂行したのだ。そして、今や人間ではなくなった鬼嶋もまた、その標的に含まれていた。
鬼嶋の体が禍愚羅の口へと消えていく。
怪異を憎みその根絶を望んだ男は、自らが怪異と化し、その最後の瞬間すらも、怪異に喰われるという皮肉な結末を迎えたのだった。
その瞬間、禍愚羅の邪気が激しく波打ち、暴走する。
ドオオオォォンッ!
強烈な感応波が周囲に放たれた。
「しまった……!愛莉!」
津守は禍愚羅の感応波にさらされた愛莉達を見渡す、愛莉は呆然と立ち尽くしていた。
愛莉は深い思考の底へと沈んでいく、立っているのか倒れているのかもわからない、まるで水の中に沈んでいくような感覚が愛莉を包み込む。
「ここは……一体?」
あたりを見回す、薄暗く、靄がかかったような視界はどこまでも続き、まるで世界から切り離されたような疎外感を感じる。
すると次の瞬間、背後から幼い頃の自分の声が聞こえた。
「猫さん、捨てられちゃったの?」
そこにはダンボールに捨てられた、後のチョビである白猫に語りかける幼い頃の愛莉の姿があった。
「にゃー!」
「ごめんね……、あなたを連れて行ってあげたいけど、お母さんにまだあなたには早いって……」
そんな愛莉の言葉に、つぶらな瞳で答える白猫。
「そんな目で見つめられても……」
尚も瞳をうるうるとさせながら訴え続ける白猫、しばらく見つめ合う一人と一匹だったが、ついに白猫の訴えに負けた愛莉はその場にしゃがみ込み「うち来る?」と語りかける。
「ダメ……その子を連れて帰っちゃ……そのせいで、お父さんとお母さんは……!」
愛莉は過去の自分を止めようとする、しかし劇場の場面転換の如くシーンは切り替わる。
愛莉の目前には、荒れ果てた部屋、ドクドクと血を流し倒れる両親の姿と、禍々しい落武者の怪異と対峙する猫又となったチョビの姿だった。
「いやっ……イヤぁぁぁぁぁぁあ!」
愛莉は顔を覆いその場でうずくまる。
あの時猫を拾わなければ、怪異が家に迷い込むこともなかったかもしれない。
あの時猫を拾わなければ、お父さんやお母さんも死なずに済んだかもしれない。
私が余計な事をしなければ、今も幸せに暮らせていたかもしれない。
私が、余計な事をしなければ。
私が、何もしなければ。
私さえ、いなければ……。
私が、居なくなれば……。
後悔が愛莉の思考を塗り潰し、己の存在を否定し始める。
それは今まで心の奥底に封じ込め、考えないようにしていた1つの可能性。
自分の行動のせいで、両親は死んだのだと。
こんな自分は、消えて無くなってしまえばいい。
そんな自責の念に支配された、その時。
「愛莉」
懐かしい声が響く。
「イオリ……ねぇ?」
「お前はまだ生きている、生き残った人間が死んじまった人間にできる唯一の手向けは何だ?」
愛莉はかつての恩師に言われた言葉をつぶやく。
「生き続ける事……」
「そうだ、お前はまだ生きている、なら生き抜くしか無い。それがお前に課せられた呪いであり、福音なんだから」
愛莉は振り返る、光に包まれる人影は、その輪郭を曖昧にしていった。
「生きろ、愛莉」
「イオリねぇ!」
そこで愛莉の意識は現実に引き戻される。
「愛莉!」
津守が息を切らしながら駆けつけた。慌てた様子から、事態の深刻さが伝わってくる。
「課長、一体何が……?」
愛莉はすぐに問いかけるが、津守の表情は険しいままだ。
「禍愚羅の感応波が暴走を始めた。私は防御術式の展開が間に合ったが、他の隊員はもろに食らったらしい……」
その言葉に愛莉は周囲を見渡した。そこには津守の式神によって動きを封じられた隊員たちが、苦しげに悶えている姿があった。
感応波の影響を受けた彼らは、それぞれ異なる症状を見せていた。ある者は怒りに身を任せて暴れ、ある者は泣き叫び、またある者は呆然と座り込んで無気力に虚空を見つめていた。
禍愚羅の感応波が、彼らの精神に深刻な影響を与えているのは明らかだった。
「この状況を打破するには、奴の感応波を肆〇式可搬広域結界生成装置で封じる必要がある」
津守はそう言って、結界発生装置を愛莉に手渡した。
「奴の暴走を止めるんだ、私が支援する」
「……了解!」
愛莉は即座に頷き、肆〇式をしっかりと抱え込んだ。
「奴の感応波の発生源は……頭!」
そう判断した愛莉は、全力で駆け出す。彼女の視線の先には、巨大な異形の怪物——禍愚羅がそびえ立っていた。
津守もすかさず行動を開始する。彼は腰に結んでいた符を掴み、鋭く詠唱を唱えた。
「来い、餓者髑髏!」
その声と同時に、巨大な人骨の怪異、餓者髑髏が顕現する。骨が擦れ合うような不気味な音を響かせながら、禍愚羅に向かって突進した。
禍愚羅は迫る愛莉に気づき、巨大な右手を振りかぶる。だが、その振り下ろされた腕は餓者髑髏の手によって捉えられ、その軌道を狂わされる。
ドゴォン!
轟音と共に、禍愚羅の右手が地面を抉った。だが、その攻撃は愛莉には届かない。
標的を阻まれた禍愚羅は、新たに餓者髑髏へと狙いを定める。今度は左手を伸ばし、力任せに押さえ込もうとする。しかし、餓者髑髏も負けじとその腕を掴み、押し合いが始まった。
この隙を逃さず、愛莉は振り下ろされた禍愚羅の右腕に飛び乗った。
「うおぉぉぉぉぉお!」
雄叫びを上げながら、一気に腕を駆け上がる。禍愚羅はその存在に気づいたが、時すでに遅し。愛莉はすでに上腕を蹴り、跳躍していた。
「はあっ!」
勢いよくこめかみに取り付き、愛莉はすぐさま肆〇式を突き立てる。装置の地面固定用スパイクが射出され、強固に固定された。
「これでも、喰らえ!」
愛莉はセーフティピンのハンドルを掴み、一気に引き抜いた。
バシュン!
安全装置の解除と同時に炸薬が起爆し、結界杭が発射される。それは一直線に禍愚羅の顔面を貫いた。
「グオォォォォォオ!」
禍愚羅が咆哮を上げる。杭が穿った箇所から結界が発生し、暴走する感応波を内側へと封じ込めることに成功する。
「うぅっ……一体何が……」
「どうしてあんな行動を……?」
禍愚羅の感応波の影響を受けていた八咫烏隊員達は、次第に正気を取り戻していく。
「やった!みんな正気に……!」
苦しげにのけぞる禍愚羅。しかし次の瞬間、その巨大な手が顔にしがみつく愛莉を捉えた。
「グッ……!」
愛莉の喉から苦しげな声が漏れる。禍愚羅は力任せに愛莉を掴むと、そのまま投げ飛ばした。
「うあぁぁぁぁっ!」
宙を舞う愛莉。地面に叩きつけられる瞬間。
「愛莉ーっ!」
疾走する人影があった。真希島カンナだ。
彼女は落下地点を素早く見極め、飛び込むようにして愛莉を受け止める。二人はそのまま数メートル転がりながらも、地面への激突は免れた。
「カンナ……さん……」
愛莉は朦朧としながらも、助けてくれた相手を確認する。
「大丈夫か?!愛莉?」
「ありがとう、ございます……」
愛莉の顔に安堵の色が浮かぶ。
「よくやったよ愛莉、あとはアタシたちに任せろ!」
カンナは自信に満ちた笑みを見せ、立ち上がる。
「はい……」
愛莉は微かに頷きながら、戦いの行方を仲間に託した。
「カンナさん!これを!」
ソラが疾走しながら、何かをカンナに投げ渡した。カンナは素早くそれを受け取り、手の中で重さを確かめる。
「これは……?」
「封絶杭です!」ソラが息を切らしながら叫ぶ。「上級怪異封印用の補助具です!」
その言葉を聞き、カンナの表情が引き締まる。すぐに津守が的確な指示を飛ばした。
「コイツを四辺に打ち込んで禍愚羅の動きを止めろ! 私が調伏する、それまで時間を稼ぐんだ!」
「「「了解!」」」
隊員たちは指示を受け、一瞬で戦闘態勢を立て直す。先ほどまで混乱していた戦場に、統率の取れた動きが戻った。
「はあぁっ!」
先陣を切ったのはソニアだった。禍愚羅の振り下ろす巨大な腕を紙一重でかわしながら、力強く地面に封絶杭を突き刺す。杭は岩盤を貫き、鈍い音を響かせながら深く突き立った。
「設置完了!」
ソニアが叫んだのと同時に、反対側では春雨が杭を打ち込む。
「こちらも設置完了しました!」
順調に進む杭の設置。しかし、その時。
ソラが最後の設置ポイントへと駆け寄ると、突如として禍愚羅の異形の腕が彼女を襲った。凄まじい圧力を帯びた攻撃が、まさに彼女を押し潰さんと振り下ろされる。
(しまった……! 間に合わない……!)
ソラの脳裏に死の覚悟がよぎる。だが。
「危ない!」
金属が弾けるような鋭い音が戦場に響いた。ソラの目の前で、ナタリーが防御盾を展開し、禍愚羅の一撃を受け止めたのだ。
ガキンッ!
凄まじい衝撃がナタリーの腕を痺れさせる。それでも彼女は後退することなく、怪異の攻撃を跳ね返した。
「今のうちに! 杭を!」
「了解!」
ソラは気を取り直し、渾身の力を込めて封絶杭を地面に突き立てた。杭は岩盤を抉り、しっかりと固定される。
「最後の一本だ、カンナ!」
津守の掛け声が響く。
カンナは深く息を吸い込むと、封絶杭を握りしめ、全身の力を込めて地面に突き刺した。
「これでラスト!」
最後の封絶杭が打ち込まれると、四方に配置された杭が青白い光を放ち始めた。その光が円形に繋がり、五芒星の陣が浮かび上がる。
禍愚羅が咆哮を上げる。拘束される感覚に気づいたのか、身を捩じらせて抵抗しようとする。しかし、杭から放たれる封印術式の力がその動きを鈍らせ、やがて完全に縛り上げた。
まるで目に見えない鎖で縛られたかのように、禍愚羅の動きが止まる。
津守はその様子を見据えながら、形代を構えた。そして、深く低い声で呪文を紡ぎ始める。
「天地神明の加護を賜り、此処に禍を鎮めん——」
五芒星陣がさらに輝きを増す。
「五方の力を束ね、陰陽の理を以て我に下れ!」
瞬間、五芒陣が閃光を放ち、禍愚羅の巨体が悲鳴を上げながら収縮し始める。まるで強大な力で圧縮されていくように、禍愚羅の身体は縮んでいった。
骨が軋むような音を立てながら、その巨躯は光の塊へと変わり、やがて手のひらほどの大きさにまで凝縮される。
最後の閃光が弾けると、その光は津守の持つ式神形代へと吸い込まれた。
「調伏完了」
津守は静かに呟きながら、形代を手に取る。
戦場に満ちていた禍愚羅の瘴気が次第に薄れ、張り詰めていた空気が和らいでいく。
「禍愚羅を……倒した……」
愛莉は、長く張り詰めていた緊張の糸がようやく切れたのを感じた。荒い呼吸を整えながら、目の前に広がる光景を見つめる。巨大な怪異はすでに消え去り、辺りには静寂が戻っていた。
「やりました……これで……」
ソニアが安堵に満ちた声を漏らす。しかし、その言葉を遮るように、津守の低い声が響いた。
「まだだ。坑道に残った者を救出後、富士鉱山を脱出する。総員、準備しろ……」
張り詰めた緊張感が、一瞬にして戻る。彼の指示を受け、隊員たちは即座に動き出した。
「りっ、了解!」
応答しながら、ソニアやソラが周囲の状況を確認し始める。
その時。
「ゴフッ……!」
突然、津守の口から深く湿った咳が漏れた、彼は口元を手で覆い、その掌には鮮血がこびりついていた。
「課長……?」
愛莉の心臓が凍りつく。状況を理解するのに数秒を要したが、すぐに思い至る、これは、調伏の身体的負担によるものだ、と。
強大な怪異を封じるために使った術。その代償は、並の人間には耐えられるものではなかった。
「心配するな、大丈夫だ……」
津守は力なくそう言いながら、震える指で血を拭った。その顔色は青ざめているが、彼の目はまだ鋭さを失ってはいない。
「でも……!」
愛莉が不安そうに声を上げる。しかし、津守はそれを遮るように、静かに、しかし確固たる意志を持って言った。
「お前は何も見なかった。そういうことにしておいてくれ」
それだけを告げると、津守は再び歩き出した。血の気の引いた顔、ふらつく足取り。それでも、彼の背中からは揺るがぬ威厳が漂っていた。
隊員たちは、それぞれの役割を果たすべく動き出していた。救出班は坑道内へと進み、撤退の準備が着々と進められる。
愛莉もまた、不安を押し殺し、決意を固めた。
本部に戻るまで、誰一人欠けさせない、それだけを考えながら、彼女は帰路に着くのだった。
指揮官・鬼嶋の死亡により、SAT部隊は統率を失い、瓦解した。混乱の中、神祇省が事態の収集を行い、富士鉱山は神祇省公安対魔特務六課、八咫烏の管理下に置かれた。
その後、神祇省による徹底的な調査が行われ、坑道の奥深くに存在していた隠された施設から、霊導石を用いた非人道的な人体実験の痕跡が確認された。この施設には多数の拘束具や生命維持装置が設置されており、そこには人間や半妖の意識を霊導石に吸収し、対怪異兵器に転用するための実験が行われていた形跡が残されていた。
発見された資料によれば、この実験の最終目的は、意識を持つ対怪異戦闘用アンドロイドの開発だった。怪異に対抗するため、霊導石に人間の魂を定着させ、それを人工的な身体に移植することで、高度な判断力と対怪異戦闘能力を持つ霊力兵器を生み出す計画が進行していたのだ。
さらに、現場にはすでに稼働していた試作品とみられる人型兵器が数体残されていた。それらは電源が落とされ、完全に沈黙していたものの、解析の結果、複数の霊力波動が感知され、すでに生体意識が組み込まれていたことが判明した。
この非人道的な計画の黒幕として、神祇省の神崎礼司が押収した証拠資料が決定打となり、鬼嶋と共謀していた警視庁警視総監が逮捕されるに至った。これにより、これまで八咫烏にかけられていたテロ容疑は完全に撤回され、彼らの名誉は回復された。
しかし、事件はこれで終わりではなかった。
神祇省は引き続き富士鉱山の施設、霊導石の入手ルート、さらにはこの情報を外部へ漏洩させた冥界政府内部の関係者を調査していた。そんな中、ある衝撃的な報告がもたらされる。
神祇省 天叢雲領の神官が、自ら命を絶っているのが発見されたのだ。
彼の遺体は神祇省天叢雲領の執務室で発見され、現場には彼がこの一連の計画に関与していたことを示す物的証拠が残されていた。その証拠の決定力から、神祇省は彼を今回の情報漏洩の首謀者と断定した。
しかし。
遺体発見現場に居合わせた者の中に、一人だけ、不適な笑みを浮かべながら静かにその場を去る影があった。
「今回は失敗に終わったか。やっぱり、操り人形じゃうまくいかないか、どうやら自ら手を下す他ないようだね」
彼は神祇省の厳戒態勢の中、誰にも悟られることなく、音もなく闇へと消えていった。
新たな陰謀の影が、神祇省内に燻り始めていた。
こうして、八咫烏は事件解決後の余波の中で、人員整理を実施。戦いの中で負傷した者は療養に入り、新たな脅威に備えるための再編が行われた。そして、八咫烏は再び通常業務へと戻っていった。
八咫烏本部 更衣室
愛莉は静かにロッカーの扉を開いた。金属製の扉が軋むようなわずかな音を立てながら開かれ、中にかけられた新たに支給された制服が目に入る。ダークグレーのジャケットとスカート、きちんと畳まれたシャツ、そして左肩には八咫烏のエンブレムが誇らしげに輝いていた。
彼女は少しだけ手を止め、その制服に指先をそっと触れる。新品の布地の感触が指に伝わると、自然と背筋が伸びるのを感じた。
静かに息を整え、愛莉は普段着を脱いでいく。まずシャツのボタンを外し、肌にひやりとした空気が触れる感覚を味わいながら、新しいシャツの袖を通した。少し張りのある布地が心地よく、身が引き締まる気がする。スカートを履き、きっちりとウエストに収めると、最後にジャケットを羽織った。
袖を通しながら、ふと目線をロッカーの奥へ向ける。そこには、一枚の写真が立てかけられていた。
それは、かつて共に戦った仲間たちとの集合写真だった。皆が笑顔で写るその一枚は、どんなに厳しい任務の中でも彼女にとっての支えとなるものだった。指先でそっとその写真を撫でると、愛莉はピシッと背筋を伸ばし、敬礼をする。
「ただいま」
小さく、しかし確かな声でそう告げると、愛莉はロッカーの扉をゆっくりと閉じた。
金属の扉が音を立てて閉まる、決意を込めて足を踏み出した。
新たな制服と共に、彼女は再び任務へと向かうのだった。
八咫烏追放編、完