昨夜の激闘から数刻。
愛莉は損害を被った触穢区の復旧作業に奔走していた。
「怪我人は簡易診療室へ!手が空いている人は瓦礫の撤去とバリケードの敷設を!」
SATの襲撃を退けたとはいえ、油断はできない。
彼らは完全に壊滅したわけではなく、再びの襲撃に備える必要があった。
焦げたコンクリート、破壊された建物、辺りにはまだ血の匂いが微かに残る。
崩壊した道路の修復は難しくとも、せめて怪異や敵の侵入を防ぐ障壁を築かなければならない。
「動ける八咫烏隊員は装備の確認を!弾薬補充をTA作戦部門の桜さんに要請して……」
忙しなく指示を飛ばしながら、愛莉は次々と作業をこなしていく。
しかし、連戦と徹夜の指揮が祟ったのか、視界が揺れ、足元がふらついた。
「っ……」
意識が暗転しかけた瞬間、黒氏鈴の声が響く。
「愛莉!大丈夫?!」
鈴が慌てて駆け寄り、倒れそうになった愛莉を支える。
「ごめんなさい……こんな時に……」
「何言ってるの!無理しすぎよ!あなた、昨日からまともに休んでないでしょう?」
「でも……まだやることが……」
「いいから!千鶴さんのところで休んできなさい!いい?!」
鈴の剣幕に気押され、愛莉は小さく頷いた。
「分かった……お言葉に甘えて……」
「ここは私が受け持つから、安心して!」
鈴は力強く笑ってみせた。
愛莉はその背中を見つめ、申し訳なさを感じながらも、ふらつく足で千鶴の店へと向かう。
店内は薄暗く、外から差し込む朝日だけが光源になっていた。
奥の方で、人の動く気配がする。
「愛莉か、どうしたの?」
カウンターの奥から現れたのは、千鶴だった。
「鈴さんに休めって怒られちゃって……」
「こっぴどく叱られた?」
「余計な心配、かけちゃったかも……」
千鶴は歩み寄ると、そっと愛莉の頭に手を置く。
「アンタは真面目すぎるんだよ。少しくらい心配かけたって、バチは当たらないさ」
愛莉は驚いたように千鶴を見上げる。
「でも、心配かけたなら、しっかり休んで立ち直んないとね。アンタが倒れたら、みんなが路頭に迷うことになる」
「……はい」
力なく返事をする愛莉を、千鶴は奥の部屋へ連れていく。
広いソファに座らせ、毛布を手渡した。
「何かあったら呼んでね」
「ありがとうございます……」
静かに扉が閉じられると、部屋は静寂に包まれた。
目を閉じると、昨夜の出来事が蘇る。
触穢区での戦闘中に感じた不可解な感覚。
まるで脳内を覗かれているかのような違和感。
そして、自分の意思とは関係なく体が動いたあの瞬間
それらが漠然とした繋がりを持っているように思えたが、正体を掴むには至らない。
(まるで誰かに頭の中を掻き回されたような……)
その疑念を胸に抱いたまま、疲労に引きずり込まれるように眠りへと落ちていった。
しかし、その束の間の休息も長くは続かなかった。
「隊長!休憩中にすみません……!緊急事態です!」
扉の向こうから、焦った声が響く。
「……アリス?」
愛莉は寝ぼけた意識を無理やり引き戻し、ソファから立ち上がった。
「一体どうしたの……?」
扉を開けると、青ざめた表情のアリスが立っていた。
「課長からの通信です!」
その言葉に、愛莉は一瞬で眠気が吹き飛ぶのを感じた。
「……すぐに繋いで」
アリスが持っていた通信機を受け取り、通話を開始する。
「こちら愛莉。津守課長、聞こえますか?」
『……聞こえるか、愛莉』
低く、冷静な課長・津守の声が響く。
久しぶりに聞くその声に安堵の表情を浮かべる。
「よかった……無事だったんですね」
『すまない、心配をかけたな』
「いいんです、こうして生きているんですから……」
『そうだな、しかしすまないが感傷に浸っている時間は無い』
「一体何が……?」
愛莉の顔に緊張が戻る。
『首謀者とその使役する怪異の居場所を特定した。詳細を送る』
次の瞬間、通信機が淡い光を放ち、座標情報が転送される。
表示された座標は――
「……富士鉱山?」
富士山麓に位置する、富士鉱山跡。
かつては金鉱として栄え、今では封印された禁忌の地。
『詳細は現地で話す。すぐに向かってくれ』
愛莉は息を呑んだ。
「了解しました。すぐに攻撃隊を編成します」
『これが最後の戦いになる、決着をつけるぞ』
通信が切れると同時に、愛莉はアリスを振り返る。
「八咫烏各員に緊急招集!これが最後の戦いになります、準備を!」
「了解です!」
アリスが駆け出すのを見届け、愛莉は拳を握りしめた。
全ての決着をつける時が来た。
桜田門前の遊歩道、警視庁本部を見ながら紫炎を燻らす男の影。
深夜、まだ寒さが残る静かな雰囲気の中、突然携帯が鳴る。相手は愛莉だった。
「よぉ、待っていたよ」
男は落ち着いた声で言う。
「神崎さん、こんな時間にすみません」
愛莉の声は申し訳なさそうだった。
「課長から連絡は来ている、それで、俺に何を聞きたい?」
神崎は煙草の灰を落とし、簡潔に尋ねた。
暗闇で聳え立つ警視庁本部を背に、彼は愛莉の返事を待つ。
丑三つ時を過ぎ、外の復旧作業もひと段落した頃。
隊員たちは次々と集合する、外界から隔離されたような薄暗い室内には機械の駆動音と、ホログラムの光が微かに揺れていた。
「全員、揃いました」
アリスが緊張した声で報告する。
彼女の背筋はいつも以上に伸び、表情には微かな緊張が浮かんでいた。
愛莉は目を閉じ、一度深く息を吐いた。
覚悟を決めるように。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「これが、私たちの最後の戦いになります」
部屋の空気が変わる。
全員の視線が、一斉に愛莉へと向けられる。
愛莉はホロディスプレイに手をかざし、操作を行う。
すると、富士鉱山の立体マップが映し出された。
「2時43分頃、短時間ですが課長から秘匿回線での通信がありました」
隊員達が騒つくが、愛莉は構わず続ける。
「津守課長からの情報によると、SATの首謀者と、その使役する怪異の居場所が特定されました」
ホログラムに赤いマーカーが点滅する。
地図上の坑道の奥深くに、敵の本拠地が存在していることを示していた。
「富士鉱山……ここは表向き崩落事故によって閉鎖されています。しかし、実際には数十年前から神祇省の管理下にあります」
「神祇省の管理区域になぜSATが?」
鋭い疑問を投げかけたのは、黒氏鈴だった。
彼女の眉は険しく寄せられている。
愛莉は表情を引き締め、答えた。
「彼の狙いは霊導石です。私たちの装備にも一部使用されている、霊力を蓄えることができる特殊な鉱石。おそらく、それを利用して対怪異装備の開発を進めていたのでしょう」
「じゃあ神祇省にSATを手引きした内通者がいるってこと?」
ユシーが口を挟む。
「分かりません。神祇省の管理記録にも、ここ数ヶ月の間に人の出入りがあった記録は残されていませんでした」
「つまり、ラスボスは霊導石を使って何かよからぬことを企んでいたってわけね」
ノアが冷静に言う。
「その可能性が高いです」
アリスがデータ端末を操作しながら、補足した。
「霊導石は非常に不安定な鉱石です、取り扱いを誤れば、人の命を奪いかねません。霊力に耐性のない者は、その力を吸われてしまうと言われています」
「やだ……おっかない……」
角館凛は隠すことなく眉を顰める。
愛莉はさらに続けた。
「鬼嶋は何らかの方法で禁忌とされる霊力の兵器転用を企んでいる可能性が高い。そして、彼が従えているのは第一級要監視特定霊的干渉怪異・禍愚羅……」
その名が告げられた瞬間、場の空気が一段と重くなる。
「記録によれば、思念に干渉し、行動を操る精神侵食型の禍津神のようです」
「神祇省が管理している怪異をどうして?!」
凛が驚きを隠せずに声を上げた。
「神祇省も一枚岩じゃないってことね」
ノアの冷静な指摘に、誰も否定しなかった。
「どちらにせよ、私たちの目的はただ一つ」
愛莉は拳を強く握る。
「奴らを討ち、すべての決着をつけること」
一瞬の静寂。
その静寂を破ったのはユシーだった。
「警察の追跡を躱わしつつ富士鉱山へ向かうなんて可能なんですか?」
愛莉は不安を顔に出さず釈然と答える。
「警察内部からの情報によると、以前から八咫烏への容疑を疑う職員が増えていたことに加え、現在捜査指揮官である鬼嶋が現場を離れたことによって、対八咫烏捜査網に混乱が生じているようです、今なら認識阻害術式を駆使して捜査網の隙をつき、高速道路を使用して富士鉱山へ向かう事が出来るはずです」
「その情報は信用できるんですか……?」
ユシーが懐疑の目を向ける。
「私が保証します、そうでなくても今回の首謀者である鬼嶋を確保するにはこのタイミングしかありません」
不安が部屋を包む。
「今回の作戦は分の悪い賭けです、富士鉱山へ辿り着くことすら出来ないかもしれない、ですが何もせずに手をこまねいていても状況は悪くなる一方だと私は思います」
愛莉は深く息を吸いこむ。
「全ての責任は私が取ります、私に、力を貸してください」
愛莉は深く頭を下げる、
「頭を上げなよ、隊長」
凛の声に愛莉は頭を上げる。
「皆、何年一緒にやっていると思っているのさ、水臭いこと言わないでよ」
その言葉の通り、他の隊員達も皆覚悟を決めたような顔で愛莉を見つめる。
「ありがとうございます……!」
「警視庁特殊急襲部隊隊長、鬼嶋佑介、今回の元凶である彼の謀略を暴き、すべてを白日の下に晒します!」
「「「了解!」」」
隊員たちの力強い返事が、部屋に響き渡る。
「各員、装備を確認の後、認識阻害効果が増大する深夜の内に行動を開始、警察に捕捉される前に高速道路を使って富士鉱山へ急行します! 総員、解散!」
その号令とともに、隊員たちは準備へと散っていった。
部屋の片隅で、ノアが静かに愛莉へと歩み寄る。
「隊長」
その声に、愛莉は振り向いた。
「全員で行くより、陽動として少し部隊を残しておいた方がいいんじゃない?」
「そう、ですね……」
「私たちが残るわ」
愛莉は一瞬、驚いたようにノアを見た。
「でも……、危険な任務になる可能性が……」
ノアはふっと笑い、ポンと愛莉の肩に手を置いた。
「安心して、死ぬつもりはないわ。それに」
彼女の瞳は、真っ直ぐに愛莉を見つめていた。
「あなたなら、成し遂げてくれる、そうでしょう?」
愛莉の目が、わずかに綻ぶ。
「……ありがとう。でも、本当に無理はしないで」
「沈みそうな船ほど興味が惹かれるものはないでしょ? それにここは随分と居心地もいい。」
そう言い残し、ノアは静かに部屋を後にした。
会議室での打ち合わせを終えたノアは、静かな廊下を歩いていた。
仲間たちはそれぞれ準備に向かい、廊下には誰の姿もない。
ふと、彼女は通信端末を取り出し、軽く確認する。
その時、着信音が鳴り響く。
ノアは小さく息をつき、画面に表示された名前を見てから、通話を繋げた。
「……ようやく繋がった! 聞こえるか、ノア?」
低く、はっきりとした男性の声が響く。
聞き慣れた声。
彼女の祖国にいる上官の一人だった。
「そっちは相変わらず暇そうじゃない、背広組のご機嫌取りは上場かしら?」
ノアは努めて軽い調子で応じた。
「相変わらず元気そうだな……テキストでも送ったが、ようやく帰国の手配が完了した。すぐに本国に帰ってこい」
指令が下る。
ノアは無言のまま、足を止めた。
今この瞬間も、仲間たちは出撃に向けて準備を進めている。
「申し訳ないけど、今からフェリーで南国旅行の予定だからそのフライトはキャンセルね」
「おい! ノア! これ以上は危険……」
上官の語気が強まった瞬間、ノアは迷うことなく通信を切った。
通話が終わると、端末は静寂に包まれる。
その時
「帰還命令ですか?」
静かな声が、背後から響いた。
ノアは振り返ることなく、淡々と答える。
「盗聴機能がついてるなんて最新式は凄いのね」
「すみません、聞こえてしまったもので」
くすっと肩をすくめ、影から姿を現したのはエミリアだった。
彼女もまた、アメリカからの派遣隊員。
端整な顔立ちに、淡い紫色の髪を靡かせノアに歩み寄る。
普段は感情をあまり表に出さない彼女だが、今はどこか親しみのある微笑みを浮かべていた。
「あなたも呼び戻されてるんじゃないの?」
ノアが問いかけると、エミリアは苦笑しながら首を振る。
「どうやら通信障害のようで、まともに通信が繋がりません」
見え見えの嘘にフッと鼻を鳴らす。
「お互い、災難ね」
「そうですね」
二人は、やれやれと肩をすくめる。
こんな状況でも、どこか気の抜けたやり取りに、思わず笑みがこぼれる。
「こういう時位は、神に祈っておいた方が良いのかしら?」
ふと、ノアが呟く。
「何もしないよりはマシでしょう?」
エミリアは穏やかに微笑んだ。
「そうね」
どちらともなく歩き出し、並んで出口へ向かう。
彼女たちの決意はすでに固まっていた。
午前2時43分
目黒区、老朽化した商用ビルの屋上
冷たい夜風がビルの隙間を吹き抜け、屋上の柵をわずかに軋ませる。
その場に、一人の少女がうずくまっていた。
ソニア、彼女は祖国を追われ、この国に辿り着いた亡命者だった。
月明かりに照らされた彼女の姿は、まるで夜の闇に溶け込んでしまいそうなほど儚い。
細い肩は震え、瞳には生気がなく、希望を見失ったような表情を浮かべている。
静寂に包まれた屋上に、彼女のかすかな吐息が白く滲む。
カンカンッ
無機質な金属音が響き、非常階段を誰かが登ってくる気配がした。
ソニアは顔を上げることなく、ただ音に耳を澄ます。
やがて、屋上に人影が姿を現す。
現れたのは真希島カンナだった。
彼女はいつもと変わらない無骨な佇まいで、ソニアに歩み寄ると、ポケットに手を突っ込んだまま軽く肩をすくめる。
「こんな所にいたのか、探したんだぞ」
低く落ち着いた声が、冷たい空気の中で優しく響いた。
ソニアはゆっくりと顔を上げる。
「カンナさん……どうしてここに?」
彼女の声はかすれ、まるで何かにすがるような響きを帯びていた。
カンナは口元を少し歪め、屋上の縁を指差す。
そこには闇夜に紛れるようにホバリングしている小さなドローンがあった。
「アイリのドローンが、いい仕事をしてくれてな」
彼女は親指を立てて軽くドローンを指し示す。
ソニアはそれを目で追い、かすかに眉を寄せる。
「そう……ですか、わざわざこんな所まで」
彼女は再び視線を落とし、唇を噛みしめる。
そして、ぽつりと呟くように言葉を紡いだ。
「怖いんです……結局この国でも、怪異に関わった者は存在を否定される……。
そうまでして、私たちは何故戦わなければならないんでしょうか……?」
風が吹き抜け、彼女の金色の髪を揺らした。
その言葉には、諦めにも似た哀しみが滲んでいた。
カンナはソニアを見つめたまま、しばし沈黙する。
腕を組み、視線を夜空へ向けた。
遠くには、ネオンの光が点滅する街並みが広がっている。
「確かに、俺たちが世のため人のためと行動しても、誰にも知られることはない。
それどころか、気味悪がられて排斥されるのがオチだ。……今みたいにな」
ふっと笑うように吐き捨てる。
だが、カンナの声は決して冷たくはなかった。
彼女はポケットから手を抜き、ソニアに向き直ると、静かに続ける。
「でも、だからと言って、俺たちが何もしない理由にはならない。この世界には、理の外で助けを求める人がいる。そいつらを助けられるのは、俺たちだけだ」
その言葉に、ソニアの目がかすかに揺れる。
カンナは一歩、彼女に近づき、迷いのない眼差しを向けた。
そして、無骨な手を差し伸べる。
「だから抗うんだ。俺たちの存在は、俺たちで証明しよう」
夜風が再び吹き抜ける。
ソニアの金色の髪が、カンナの手の届く距離で揺れた。
彼女は唇をかみ、瞳を閉じる。
数秒の沈黙、だが、それは彼女が自分の内なる迷いと決別する時間だった。
やがて、目を開いたソニアの瞳には、確かな決意が灯っていた。
「……はい」
彼女は、躊躇いなくカンナの手を取った。
強く、しっかりと。
夜明け前の東京の空の下で、二人は立ち上がる。
午前3時15分
第一渋谷触穢区
冷たい夜の空気が張り詰める中、触穢区の一角で数台の装甲車と一般車両がエンジンを鳴らしていた。
低く響くアイドリング音が、これから始まる作戦の緊張感を際立たせる。
各隊員たちは、それぞれの車両に乗り込み、装備の最終確認を行っていた。
無線が小さくノイズを交えながら通信を伝える。
「第二、第三触穢区の急襲部隊も準備が完了したようです!」
アリスの報告に、愛莉は力強く頷いた。
「了解!」
彼女は鋭い視線で隊員たちを見渡し、深く息を吸う。
そして、決意を込めた声で号令をかけた。
「八咫烏、出動!」
その瞬間、静寂を破るように車両のアクセルが踏み込まれる。
重厚な装甲車がエンジンを唸らせながら、次々と動き出し、深夜の東京の闇へと繰り出していく。
首都高速4号新宿線・西新宿ジャンクション付近
夜の東京を駆ける八咫烏の部隊。闇に紛れるように黒塗りの装甲車が数台、整然と隊列を組みながら高速道路に向かっていた。
「全車、首都高速4号新宿線、西新宿ジャンクションから高速に乗り、そのまま富士鉱山に向かってください。」
愛莉が無線で指示を飛ばすと、各車両からの確認応答が次々と返ってくる。
『了解!』
触穢区の別の拠点から出発した仲間たちとも通信を交わし、全員の状況を把握する。
その時、ノアたち陽動部隊からの通信が割り込んだ。
「私達も出るわ」
ノアの声は、変わらず冷静で力強い。
「どうかお気をつけて……」
「あなた達もね」
愛莉は張り裂けそうな気持ちを必死に押さえつけ、視線を前に向ける。
車列は、都市の光を背に、深夜の東京を駆け抜ける。ネオンが遠のくにつれ、闇が濃くなり、まるで戦いの幕が静かに降りるような感覚に陥った。
しかし、そんな静寂は長くは続かなかった。
後方から重厚なエンジン音が響く。
それは、ただの車両の走行音ではなかった。規則的に響く車輪の回転音、鈍く唸るエンジン、そして金属が擦れるような独特の軋み、装甲車両特有のそれだった。
「……そんな……もうSATの急襲部隊が……!」
バックミラーに映るのは、装甲をまとった黒い車列。SATの特殊装甲車が、確実に距離を詰めてきていた。
「カンナさん!もっとスピードを上げてください!」
愛莉は焦燥を滲ませながら叫ぶ。
「バカ言うな!これが限界だ!」
運転席のカンナがギアを叩き込むが、八咫烏に支給されている型落ちのLAVでは、最新鋭のSAT装甲車には到底及ばない。
その距離がじわじわと縮まる。
その時、無線から低く落ち着いた声が響いた。
「俺がしんがりを務める!、お前らは先に行け!」
愛莉の心臓が跳ね上がる。
「麻白さん?!待ってください!」
彼の車両が、ぐっと減速する。
「任せたぞ愛莉!必ず奴を捕まえろ!」
SATの車両と衝突する寸前、麻白の車が横滑りしながら一気にブロックに入る。鋼鉄同士がぶつかり合い、甲高い衝撃音が響き渡った。
「……ッ、了解……!」
愛莉は涙を堪えながら、振り返らずに前を見据えた。
ジャンクションまで、あと少し。
「アリスさん!料金所とNシステムのハッキング、走行記録の改竄をお願いします!少しでも時間を稼ぎましょう……!」
「了解です!」
アリスは即座にラップトップを開き、指を素早く動かす。
「システム掌握、Nシステムおよび料金所の監視システムを10秒間ダウンさせます!」
「やって!」
キーボードを叩く音が響く。次の瞬間、料金所の照明がすべて落ち、通行止めのバーが跳ね上がった。
その間隙を突いて、八咫烏の車列は一気に首都高へと進入する。
通り過ぎた直後、料金所は何事もなかったかのように通常運転を再開した。
深夜の首都高は、がらんとしていた。一般車両の姿はほとんどなく、スピードを落とさずに駆け抜けられる。
「このまま、東京を出れれば……!」
愛莉は祈るように瞳を閉じた。
だが、運命は非情だった。
八王子を過ぎたあたりで、赤色灯が閃光を放つ。
前方には、警察の検問が敷かれていた。
「くっ……、こんな所で……!」
パトカーが横に並び、警官たちが配置についている。逃げ道はない。
その時。
「2号車、先行します」
黒氏鈴の声が響く。
「鈴さん?!何を……」
「私達が道を開きます、隊長達は先へ進んでください!」
「でも……!」
「時間がありません!後のことは頼みます!」
その言葉と同時に、鈴の乗る2号車がアクセルを踏み込み、猛然と加速した。
次の瞬間、衝撃音が響き渡る。
2号車がパトカーを弾き飛ばし、突破口をこじ開ける。
しかし、その反動で2号車はコントロールを失い外壁に激突、車体は大きく揺れ、エンジンが沈黙する。
その間に、愛莉たちの車列は加速し、開けた突破口を駆け抜ける。
「隊長!」
誰かが叫ぶ。
しかし。
「振り向かないで!」
愛莉の号令が響いた。
カンナはアクセルを踏み込み、速度を落とさずに駆け抜ける。
後ろを見るな。止まるな。
前を向け。
愛莉の頬を、一筋の涙が伝う。
しかし、再び前を見据えたその顔には揺るがぬ決意が刻まれていた。
彼女は、再び己の覚悟を確かめる。
富士鉱山へ。全ての決着をつけるために。
午前3時56分
警視庁 警視総監室
深夜の警視庁本部。
静寂に包まれた高層ビルの一室で、一人の男が荒々しく叫ぶ。
「馬鹿者! なぜ奴らを止められない!? 何としても八咫烏を止めろ! これは命令だ!」
警視総監の怒声が響き渡る。
手元の電話機が軋むほどの勢いで置かれると、彼は荒い息をつきながらデスクに拳を叩きつけた。
「クソッ……奴が捕まったら、私の立場も……」
額に浮かぶ汗を拭いながら、彼は焦燥に駆られていた。
警察組織のトップに立つ者として、表向きは公正無比でなければならない。だが、今回の件で闇を抱えすぎた。
そして今、その闇が暴かれようとしていた。
コンコン
室内に乾いたノック音が響く。
「だっ、誰だ?!」
心臓が跳ねる。
この時間に訪問者が来るはずがない。
だが、総監が応えるよりも早く、ドアは静かに開いた。
「失礼します、総監」
低く落ち着いた声がした。
一人の男が、堂々と室内に足を踏み入れる。
「何者だね、君は?! 入室を許可した覚えは……」
言葉を詰まらせる。
男の姿を認めた瞬間、警視総監の顔が青ざめた。
そこにいたのは神崎礼司、彼の手には、一冊のバインダーが握られていた。
「破棄」——そう書かれた機密文書の束。
「お前……何故それを……?」
警視総監の喉がごくりと鳴る。
神崎は静かに微笑む。
「ダメじゃないですか、総監」
神崎礼司が、一歩、また一歩と総監に近づく。
「重要な機密書類は、自分の手で処分しなきゃ」
バインダーを軽く持ち上げると、その表紙を指先で弾いた。
ページの間から、いくつもの証拠書類が覗く。
「おーおー、悪どい、これが世に出たら辞職じゃ済みそうに無いですねぇ」
警視総監の顔が、恐怖に歪んだ。
「さて、総監、八咫烏の捜査から手を引いてください」
神崎はバインダーを閉じると冷ややかな声で言う。
「じゃないと、これがどうなるか……お分かりですよね?」
室内の空気が凍りついた。
警視総監は、乾いた喉を鳴らしながらも、何も言えなかった。
午前4時23分
富士吉見市 富士神社 最奥 立入禁止区域
闇に包まれた山間部。静寂の中で、八咫烏の車列が慎重に進む。ヘッドライトは消され、車両は夜の闇に紛れるように神社の裏手へと向かっていた。
富士鉱山への入り口は、神社の背後に密かに隠されている。そこに辿り着くと、目の前には広大な空き地が広がっていた。
そして、その中央に停まる一機のUH-60J。闇に溶け込む黒い機体が、不吉なほど静かに鎮座している。
その傍らには、二つの人影。
一人は、厳格な表情をした六課長・津守義孝。
もう一人は、ヘリのパイロットであるコンだった。
車が完全に停止し、エンジン音が消える。
愛莉達は車を降り、静かに息を整えながら歩み寄る。
「お久しぶりです、課長」
暗闇の中で、彼女の声が響く。
「久しぶりだな、愛莉。すまなかったな」
津守課長の声は低く、それでいてどこか温かみを含んでいた。
「いえ、私は大丈夫です。みんなが居てくれましたから……!」
愛莉は迷いのない瞳で答え、もう一人の人影へと視線を向ける。
「コンさんも久しぶりです」
影が動いた。
「愛莉、久しぶり。無事でよかった」
コンは穏やかに微笑みながら、愛莉を抱きしめる。その温もりに、一瞬だけ張り詰めた心が緩む。
しかし、それも束の間だった。
「これで全員か?」
津守課長が、集まった隊員たちを見回しながら問いかける。
愛莉は、一瞬だけ沈黙した。
そして、静かに唇を噛みしめながら答える。
「えぇ、私達が進むために、ここに辿り着けなかった人達も……」
「そうか……」
津守課長は短く答える。その表情には、言葉にできない想いが滲んでいた。
愛莉は、力強く顔を上げる。そして、隊員たちを振り返り、凛々しく敬礼をした。
「神山愛莉以下、公安対魔特務六課八咫烏、臨時編成急襲部隊、現着いたしました! これより津守義孝六課長の指揮下に入ります!」
その号令に、他の隊員たちも次々と敬礼を揃える。全員の動きが、覚悟を示していた。
「了解、皆、ご苦労だった」
津守課長も敬礼を返し、静かに目を閉じた。
そして、目を開いた時には、既に指揮官の鋭い眼光が戻っていた。
「決着をつけるぞ。総員、行動開始」
「「「了解!」」」
全員が一斉に武器を構え、鉱山の入り口へと足を踏み入れる。