警視庁 警視総監室
警視総監室は、重厚な扉に囲まれた空間だった。天井から吊り下げられたシャンデリアが淡い光を放ち、部屋の中央に置かれた大きな机は磨き上げられた木目が光を反射していた。
壁には歴代の警視総監の肖像画が並び、その一つ一つが厳しい視線で部屋を見下ろしているようだった。窓の外は東京の夜景が広がり、ネオンが煌めく街並みが遠くまで続いていたが、その光はこの部屋の重苦しい空気を打ち破ることはなかった。
警視総監は机の前に立ち、背中を窓に向けていた。
彼の姿はシルエットのように浮かび上がり、その表情は暗がりに隠れていた。しかし、その声は冷たく鋭く、部屋の隅々まで響き渡る。
「……結果として、この計画は完全に失敗に終わった。八咫烏の本部襲撃では、課長には逃げられ、隊員たちも思った以上に手強かったようだな。どう釈明するつもりだ、鬼嶋?」
その言葉に、部屋の一角に立つ男、鬼嶋が顔を上げた。背丈は170cmほどで、筋肉質の体躯を黒いスーツが包んでいた。その目は鋭く、まるで獲物を狙う猛禽類のようだった。
しかし、その目には一瞬だけ、屈辱と怒りの色が浮かび上がる。
「釈明、ですか? 総監、そもそもこの計画を進めたのは――」
彼は言いかけて口を閉ざし、顔を歪ませた。その表情は一瞬で消え、代わりに冷静さを取り戻す。
「失礼しました。確かに我々SATの不手際です。ただ、八咫烏があそこまで組織としての結束力を見せるとは思いませんでした。奴ら、完全に”化け物”ですよ。」
警視総監はその言葉に反応を示さず、静かに机の上に置かれた書類に目をやった。
書類は数枚机の上に乱雑に置かれていたが、一番上で一際存在感を放つ文字列があった。
【冥界と現世の相互関係についての調査資料】と記載されたその書類には、紙一面に所狭しと長文が踊る。
「言い訳は不要だ。私は結果を求めている。怪異と対等に渡り合えるあの組織さえ亡きものにすれば、冥界に対しての政治的影響力を持つのは対怪異特殊部隊を新設する我々警視庁になる、違うか?」
鬼嶋はその言葉に頷き、目を細めた。
醜いまでの出世欲を露わにした総監に、彼が吹き込んだ蜘蛛の糸、冥界政府の存在とその資源、何よりそれらを取引する外交特権は、怪異に対抗する能力を有している事が最低条件だった。
その能力を有している者が、この混沌を極める世界で新たな力を手に入れられると言っても過言では無い。
鬼嶋はそんな情報を餌に、警視総監に資金と人員、情報統制、そして作戦の陣頭指揮権を要求した。
総監は自らの出世の為にそれらを呑む、その裏にある思惑に気づかずに……
「その通りです。そうなれば政界への大きな足掛かりへと繋がる、大臣としてご活躍されるのも夢ではありません。しかし、ここからは一筋縄では行きません。八咫烏にはK.A.I.N.T.の情報網もある。襲撃に失敗した今、連中はこちらの動きを把握しているはずです。」
警視総監は眉間に皺を寄せ、机の上に置かれた書類を指で叩いた。その音が部屋に響き渡り、緊張感をさらに高める。
「それならば、さらに確実な手を打つ必要がある。何か策はあるんだろうな、鬼嶋。」
鬼嶋は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「……もちろんですとも、私にお任せください。」
その笑顔はまるで鬼のようだった。彼の目には冷酷な光が宿り、次の一手を既に視野に入れていることがわかった。
「彼女らには護るべきものがある、それが強さであり、同時に弱点でもある……」
しかし、その笑みの中には一抹の懸念も浮かんでいた。八咫烏の課長――あの男の存在が、彼の計画に影を落としていた。
「ですがひとつだけ懸念点が、八咫烏の課長は生きています。あの男がいる限り、足元を掬われるリスクも高い。彼の存在は”計画”全体の障害です。」
警視総監はその言葉に深く頷き、机の上に置かれた書類をじっと見つめた。その目には決意の色が浮かんでいた。
「その点も考慮している。こちらも捜索範囲を拡げて対処するつもりだ。お前は次の作戦で確実に八咫烏を仕留めろ、ただし、今度は失敗は許されない。全て”極秘裏”に進めろ。出来るな?」
鬼嶋はその言葉に一瞬だけ目を細め、すぐに表情を引き締めた。
「承知しました。ですが、この失敗の責任を追及されれば、我々も無傷では済みません。」
警視総監はその言葉に冷たい笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「安心しろ。失敗の痕跡は私が処理する。だが、次に失敗すれば、私が切り捨てるのはお前だ。覚えておけ。」
鬼嶋はその言葉に冷たい視線を向け、一瞬だけ警視総監を睨んだ。しかし、すぐに表情を引き締め、深く頷いた。
「……了解しました。次は必ず成功させます。」
警視総監はその言葉に満足げに頷き、机の上に置かれた書類を手に取った。
「いいだろう。計画の再構築に取り掛かれ。“正義”の名の下にな。」
鬼嶋は一礼して部屋を出ると、廊下に足を踏み入れた。その瞬間、彼の表情は一変し、怒りに歪んだ。彼は低く呟きながら、廊下を歩き始める。
「……傀儡人形の分際で、金と力だけ寄越せば良いものを。まあ良い、全て方が着いた暁には……」
ククッという乾いた笑いと共に、鬼嶋は通信端末を取り出し連絡を始める。
「鬼嶋だ、例の部隊を動かすぞ。」
新宿
夜の新宿は、ネオンの光が街を彩り、人々の喧騒が遠くから聞こえる活気ある場所だった。しかし、その輝きから外れた裏路地は、まるで別世界のように暗く静かで、不気味な影が蠢いていた。その暗闇の中を、一人の男が必死に走っていた。彼の呼吸は荒く、額には冷や汗が浮かんでいる。背後の足音が近づくたびに、彼の心臓はさらに高鳴り、恐怖が全身を包み込む。
「ハァ……ハァ……、なんだよ、あの化け物?!」
男は振り返りながら叫んだ。その視線の先には、無数の黒い人影がゆっくりと、しかし確実に迫っていた。それらの影は人間の形をしているが、その動きは不自然で、まるで地面を滑るように進んでくる。男は再び前を向き、必死に走り続けるが、足元に転がった空き缶に躓いてしまう。
「ぐぁっ!」
男は地面に倒れ、膝や手のひらに擦り傷を負う。痛みが走るが、それよりも恐怖が彼を支配していた。彼は這うようにして立ち上がろうとするが、背後から迫る影の気配に凍りつく。
「誰か……誰かー!」
男の叫び声は夜の街に吸い込まれ、返事はなかった。その時、鈍い銃声が響き渡り、男の背後にいた黒い影の一体がバタっと倒れる。男は驚いて振り返ると、そこには黒いジャケットを着た人影が次々と現れ、黒い影を倒していく光景が広がっていた。
再び静寂が訪れると、黒いジャケットを着た少女の一人が男に近づき、手を差し伸べた。
彼女は八咫烏の隊長を務める少女、神山愛莉。彼女の目は冷静で、しかしどこか悲しげな輝きを宿していた。
「無事ですか?」
男は彼女の手を掴み、立ち上がる。彼の顔にはまだ恐怖が色濃く残っている。
「あっ、あぁ……、助かった、あんたらは?」
愛莉は少し俯き、静かに答える。
「ごめんなさい、教えられません……」
その言葉に男は困惑の色を隠せずにいた、そんな男にさらに続ける。
「彼らは存在を認識した者に引き寄せられる習性があります、長生きをしたいのであれば、今日起きたことは忘れた方が身の為です」
「どう言う事だよ……?彼らって一体……」
愛莉はハッと辺りを振り返り、持っていたP90を構え直す、その先に現れた新たな黒い影を見据える。彼女の表情は一瞬で引き締まり、戦闘態勢に入る。
「うわぁっ!また化けもんが!!」
男の叫び声に、愛莉は冷静に指示を出す。
「下がって、各員迎撃体制!」
彼女は振り返り、男に強く言う。
「死にたくなかったら、早く逃げて!」
男は彼女の言葉に従い、慌ててその場を駆け出していく。その姿を見届けた愛莉は、再び黒い影に向き直る。
「忘却術式を施す暇がありませんでしたね」
紫の髪に帽子を深く被り、背丈ほどもある刀を携えた少女、エミリアが言葉をかける。
「申し訳ありません、彼が提言通り全て忘れてくれれば良いのですが……」
「まぁ状況が状況ですし、人命が最優先ですからね」
「喋ってないで、奴らが来る」
灰色の長髪を翻し、藤森 マキが苦言を呈す、
「そうですよ隊長、よそ見は禁物です……!」
羊の様なツノを持つ金髪の少女が、彼女はスマホを片手にパシャパシャと写真を撮りながら言う。
「春雨さん、よそ見は禁物じゃないんですか?」
「大丈夫です、これも情報収集の一環ですから」
そう言いつつ春雨の撮影する手は止まらない。
「いや、そう言う事じゃ……」
黒い影がゆっくりと近づいてくる、彼女たちが戦う相手は、禍人と呼ばれる存在。人の思念が形をなし、害をなすものだ。
そしてその禍人の群衆の奥に、一際大きい影が映る。
「B級怪異、大愚痴、厄介ですね、腹の巨大な口で空間ごと人を食う危険な個体です、奴の外皮はかなりの強度があります。」
エミリアが冷静に告げるとマキが水を刺す。
「力で殴れば問題ない。」
「みんながみんな貴方みたいに馬鹿力じゃありません、それに貴方を持ってしても、大愚痴の外皮はそう簡単に破れませんよ」
諭す様に告げられると、マキはぶすっと顔を顰める。
「K.A.I.N.T.-怪異情報集積ネットワーク端末-の霊力分布図ではB級相当の出現が見込まれていました、想定内です。」
愛莉はそう言うと一歩踏み出す。
「皆さん、作戦通りフォーメーションαで」
愛莉の冷静で力強い声が、暗闇に包まれた現場に響き渡る。その声は、隊員たちの緊張を一瞬で引き締める。
「「「了解!」」」
エミリア、マキ、春雨の三人が同時に応答し、それぞれの武器を手に、影の群衆に飛び込んでいく。彼女たちの動きは無駄がなく、まるで一つの生き物のように連携していた。
マキは独自でカスタムしたAR-15アサルトライフルを構え、禍人たちに向かって銃口を向ける。その銃身は、対怪異処理を施された弾丸を次々と放ち、禍人たちを霧散させていく。彼女の指先は冷静に引き金を引き、一発一発が確実に敵を仕留める。しかし、弾倉が空になる音が響く。
「チッ、弾切れ……」
彼女は呟きながら、即座にサイドアームのハンドガンに切り替える。
禍人の足元にスライディングで飛び込み、頭上を通り過ぎる禍人に向かって、ハンドガンの弾をありったけ浴びせる。銃声が響き、禍人は膝から崩れ落ち、霧散していく。
しかし、その瞬間、無防備になったマキの背後に別の禍人が襲いかかる。
「マキさん!後ろ!」
春雨の声が響き、彼女はバトルアックスを振りかぶり、禍人の頭を一刀両断する。禍人の体は二つに分かれ、地面に崩れ落ちる。
「助かった、ありがとう」
マキは立ち上がり、春雨に感謝の言葉を投げかける。春雨はにっこりと笑い、軽く肩をすくめた。
「お礼はおやつのプリンで良いですよ」
「……分かった」
マキは苦笑いしながらも、再び戦闘態勢に入る。二人は背中合わせになり、次々と迫りくる禍人たちに向き合う。
春雨は懐に飛び込んでくる禍人にバトルアックスを投げつける。宙を舞うアックスは禍人の頭蓋を穿ち、そのまま禍人は倒れる。
彼女は即座にサイドアームのT26を抜き、鉛玉を浴びせていく。禍人たちは次々と倒れていくが、その数は減る気配がない。
その時、春雨のスマホが小刻みに震える。ディスプレイには、怪異の解析結果が映し出された。
「隊長!奴の解析が終わりました!腹の大口の中心部です!」
春雨の声が戦場に響き渡る。愛莉はその言葉に頷き、眼を閉じる。彼女は持っているP90の弾倉に手をかざし、静かに呪文を唱え始めた。
「やをら目覚め給へ、我が内に宿りし双尾の神よ。影は風となり、声は月に届かん。今ぞ請ふ、汝が力を賜ひて、我を守り、道を示したまへ。」
その呪文と共に、愛莉の手から光が溢れ出し、弾倉に込められている弾丸が共鳴するように輝き始める。
エミリアは大愚痴の攻撃をいなしつつ、周囲の禍人を切り伏せていく。彼女の剣技は流れるように美しく、一撃一撃が禍人たちを切り裂く。
「隊長!今です!」
エミリアの声が響く、最早大愚痴の前には遮るものは何もなかった。
愛莉は眼を開く。彼女はP90を構え、大愚痴に向かって銃口を向ける。
「貫きます!」
引き金を引く。霊力により強化された弾丸は、鋭い衝撃波を放ちながら大愚痴へ一直線に飛翔する。弾丸は大愚痴の硬い外皮を貫通し、体内へめり込んでいく。
「爆ぜろ!」
愛莉は左手を突き出し、握り込む。その号令と共に、大愚痴の体内に侵入した弾丸に注入された霊力が一斉に炸裂する。その威力は、強靭な外皮を内側から破壊し、核を露出させるに至る。
「エミリアさん!今です!」
愛莉の声が響き渡る中、エミリアは大愚痴の核に向かって飛びかかった。彼女の手には鋭い刀が握られており、その刃先が大愚痴の核に突き刺さる瞬間、ギャァァァァアという断末魔の叫びが辺りに響き渡った。
大愚痴の巨大な体は膝から崩れ落ち、その重みで地面が揺れる。エミリアは潰されないように、素早く大愚痴の体を蹴り、一気に距離を取った。
核を失った大愚痴は、まるで霧のように徐々に霧散していき、その存在は消え去った。
「大愚痴の討伐を確認、みなさん……」
愛莉が作戦終了を告げようとしたその瞬間、マキが彼女の言葉を制止した。
「待って、隊長。」
マキの声には緊迫感が漂っていた。彼女は周囲を見回し、影の中から次々と現れる禍人の姿を指さした。
「まだ来る……。」
その言葉通り、禍人の群れは依然として影から現れ続けていた。愛莉は眉をひそめ、混乱した表情を浮かべた。
「大愚痴は討伐したはず、まだ禍人が活性化しているなんて……。」
彼女の頭の中には疑問が渦巻いていた。大愚痴を倒せば周囲の霊力分布も鎮静化し、禍人の活動も弱まるはずだった。しかし、現実は彼女の予想を裏切っていた。
「とにかくやるしか無いよ、隊長、指示を!」
春雨が焦り混じりの声で愛莉に訴える。彼女の目には必死さが浮かんでいた。愛莉は一瞬、深呼吸をして気持ちを切り替え、冷静に指示を出した。
「各員、禍人の残党を討伐して……」
しかし、その言葉が終わらないうちに、愛莉の目前に信じられない光景が広がった。禍人の群衆の中を、四人の人影が悠然と歩いてくるのだ。
彼らは頭に赤く光る4眼暗視装置を装着したヘルメットを被り、近代的な装備に身を包んでいた。まるで特殊部隊のような出で立ちだった。
「そんな……」
愛莉の声が震えた。目の前の光景は、彼女の理解を完全に超えていた。
明らかに人間であるその四人に、禍人たちは全く反応を示していなかったのだ。それどころか、禍人たちは彼らに道を譲るような仕草さえ見せていた。
「禍人を、コントロール下に置いているっていう事?」
愛莉は状況を飲み込めずにいた。その瞬間、特殊部隊は銃口を愛莉たちに向けた。
「退避!!」
愛莉は咄嗟に叫ぶ。その怒号に隊員たちは瞬時に反応し、近くの車の陰に身を隠した。それとほぼ同時にくぐもった銃声が響き渡った。特殊部隊は何の躊躇もなく発砲してきたのだ。
「くっ、彼ら撃ってきました……!」
エミリアが歯を食いしばりながら呟く。彼女の目には焦りと怒りが混ざっていた。
銃弾が地面や壁を穿つ衝撃音が周囲に響く、その音が愛莉達の精神を少しずつ削っていく。
「アイツらやる気、反撃の許可を。」
マキが冷静な声で愛莉に聞く。しかし、愛莉は首を横に振った。
「ダメです、人を殺してしまったら、私達は八咫烏ではいられなくなる……耐えてください。」
愛莉の声には決意が込められていた。彼女は八咫烏としての信念を曲げるつもりはなかった。
その瞬間、愛莉は何か閃いたようにマキに指示を出した。
「次、銃声が止んだら……」
発砲が止み、特殊部隊がゆっくりと愛莉たちに近づいてくる。その瞬間、ガガガッという音と共に、愛莉たちが隠れていた車が突然”起き上がる”、愛莉の指示で、マキはその怪力を持って軽々と車を持ち上げていく。
マキは起き上がった車をそのまま押し倒し、特殊部隊員たちは慌てて回避する、先ほどまで立っていた場所にはガチャン!とけたたましい音を立てて車が倒れていた。
体制を整え愛莉たちの方を見ると、すでに裏路地へと逃げる愛梨達の後ろ姿があった。
特殊部隊は慌てて追いかけ、逃すまいと問答無用で発砲を続ける。
「何でこんなに追ってくるの!?」
銃弾が掠める中を必死に走る中、春雨が泣きそうな声で叫ぶ。
愛莉は一瞬考え込んだ後、決断を下す。
「この先で二手に分かれましょう。私が奴らの気を引きます。その隙に皆さんは隠れてやり過ごしてください。」
「何をいっているんです!?隊長!」
エミリアが噛み付くように反論する。その言葉には不安と怒りが混ざっていた。
「このまま逃げ回っていてもジリ貧です。皆さんは一度拠点に戻り、増援を要請してください。」
愛莉の声には冷静さが戻っていたが、突き放す様な冷たさも入り混じる。
「しかし……!」
エミリアはまだ納得がいかない様子だった。
「早く、もう時間がありません!一番確実なのはこの方法しかないんです!」
愛莉は語気を強め、エミリアを説得する。
「行こう、エミリア。」
マキが冷静に声をかけ、エミリアは悔しそうに頷いた。
「必ず帰ってきてください……」
エミリアの声には不安がにじんでいた。
愛莉は微笑みながら頷き、三人は人気のない路地へと隠れるように進んでいった。
「皆さん、どうかご無事で……」
愛莉はそんな3人の後ろ姿を見送るまもなく追っ手の銃撃を浴びる。
「くっ……こっちです!!」
愛莉はわざと大きな声で叫び、追っ手を惹きつけようと3人とは逆の方向へ走り出す。
「私の予想通りなら、奴らの狙いは私のはず」
逃走しながらも愛莉は思考を巡らす、過剰なまでに整った装備、そしてあの4眼ゴーグル、おそらくあれで怪異を視認できる様になっているのだろう。
これが警視庁の虎の子、八咫烏に代わる対怪異特殊部隊であるのは明白だった。
そんな虎の子をこんな少人数部隊に投入したと言うことは、八咫烏の隊長である愛莉の捕縛、または抹消による指揮系統の混乱を狙ったものである可能性が高かった。
「それなら、私が囮になれば3人は確実に逃げ切ることができる……」
それはあまりに無謀な決断であった、愛莉が捕まってしまえば、八咫烏の指揮系統は確実に混乱し、敵に付け入る隙を与えてしまう。
しかし愛莉は仲間の安全を最優先に考え決断をした、それは強迫的なまでに仲間が傷つく事への恐れからか、無自覚のうちに自己犠牲を選ぶことを愛莉は自覚していなかった。
禍人の群衆に行手を阻まれなが、東京の入り組んだ狭い路地を縫う様に進んでいく愛莉、特殊部隊との距離は少しずつ開いていく。
「このままいけば逃げ切れる……!」
そう考えたのも束の間、愛莉の眼前では途切れた道と反り立つビルが行手を阻む。
いつの間にか袋小路に追い込まれた愛莉、禍人をコントロールし、愛莉の進行方向を袋小路に誘導していたようだった。
「そんな……誘い込まれた……?」
愛莉は引き返そうとするも、曲がり角の向こうからすでに特殊部隊の足音が迫っていた。
「ここまで、ですか……」と愛莉の体が諦めからか脱力する、
頭の中に黒い絶望が広がり、思考を奪い去っていく、まるで何者かに思考を書き換えられていく様な歪さが愛莉を支配する。
そして右足のホルスターに収められていたハンドガンを抜き、頭に突き立てる。
ここで命を絶てば、捕縛された私から仲間の所在が割れることはなくなる、私が死ねば、目標を達成した特殊部隊は撤退し、仲間の安全は守られる。
もう私のせいで、誰かが傷つくのは見たくない。その為なら私なんかどうなったって良い。
『死だけが全てを解決する。』
愛莉は瞳を閉じ、ゆっくりと引き金に力を入れる。
その瞬間、ふと脳裏にエミリアの声が響く、「必ず帰ってきてください……」
「何を考えているの、私……?」
まるで夢から覚めた様に我に帰る、仲間との約束を反故にする所だった愛莉は、慌てて頭に向けた銃口を下す。
追い詰められているとはいえ、自ら導き出した愚かな思考に驚きを隠せず、必死に否定する。
「死が全てを解決する?!そんな事……」
あるはずがない、そう心では否定するが、なぜか言葉にすることはできなかった。
「これが、私の本心だとでも言うの……?」
愛莉が思考を逡巡させているうちに、足音はさらに近づいてくる。
手に握っていたハンドガンを再び構え直し、この窮地を脱するわずかな可能性を求めて、周囲に目を泳がせる。
「何か、突破口は?」
その時、隣接するビルの裏口が目に入る、おそらく施錠されているが、愛莉の力なら容易く破ることができるであろう簡素な扉だった。
考えるより先に体が動く、愛莉がそのドアノブに手をかけようとした瞬間だった。
ガチャっと扉が開き、中から男の姿が現れる。
見つかった、と身を引く間も無く、男は愛莉の腕を掴み、
「こっちだ!」とビルの中に引き摺り込む。
男が扉を閉め切ったその後、特殊部隊員達が角を曲がり裏路地へ傾れ込んでくる。
しかし、当然の如くそこに愛莉の姿はなく、隊員達は周囲を見まわす。
愛莉を見失った隊員達は互いにアイコンタクトをし、元来た道を引き返していく、しかしその際誰一人として扉に目を向けるものはいなかった。
愛莉達が入って行った扉の裏には、一枚の札が貼られていた。札は静かに燻り始めると、赤い光を帯びながら端から崩れ落ち、やがて灰となって散った。
男が貼ったこの札は認識阻害呪符、短時間貼った対象物を霊体に近づける事で人の認識から除外することができる。
神祇省が開発し、八咫烏の前進である近衛警察隊に配備されていた物で、八咫烏にも配備されているものの使用している者は少ない。
そんな装備をこの男がなぜ持っているのか?
屋上へ行く階段の途中で愛莉は疑問を投げかける。
「あなた、さっきの札は……」
そういう愛莉の言葉を遮り、男は屋上の扉を開け放つ。
「完全に巻いたみたいだな」
そういうと男は、隣接している建物の屋上を指差しながら説明を始める。
「ここの屋根を伝い南に行けば、渋谷第一触穢区に着く、お前の仲間達の元へ戻れるはずだ。」
「あなたは一体、何者なんですか?どうして私を助けたんです?」
「何、ちょっと古巣を思い出してね」
男はそう言うと、黒く汚れた八咫烏のワッペンを内ポケットから取り出し、愛莉に見せた。
「あなた、元は八咫烏の……」
「あぁ、津守課長には昔お世話になったよ、最も、八咫烏が組織されてから1年も所属してはいなかったけどな」
男はワッペンをしまい改めて自己紹介をする。
「俺の名前は神崎礼司、元魔特六課、八咫烏所属、今は警視庁刑事部所属だ、よろしく」
そう言うと礼司は右手を差し出した。
「私は神山愛莉、神祇省公安対魔特務六課所属です、先程は助かりました……」
おずおずと握手を交わす、未だに愛莉は信用しきれていない様子だった。
「そんなに警戒しないでくれよ、まぁ君たちにとっては敵である事には変わりないか」
「でも僕を信じて欲しい、僕は君たちの味方だ」
その時遠方からドン、と爆発音が響く、それは愛莉達が退避している触穢区の方からだった。
「クソッ、予定より早い……!」
男の言葉に愛莉は疑問を投げる。
「どう言う事?一体何が……」
「SATの連中は、触穢区への直接攻撃を始めちまったようだ!触穢区の半妖諸共君たちを消すつもりらしい。連中はパンドラの箱を開けるつもりだ!」
「そんな……今触穢区を崩壊させてしまったら、深層に封じ込めているA級怪異が放出されてしまう!」
「あぁそうだ、奴らを触穢区に封印する為にどれだけの犠牲を払ったか……警視庁の奴らは分かっていない!」
男の握る拳に力が入り、悔しさに口元が歪む。
「アイツが何のために戦ったと……」
そこまで言うと男は言葉を飲み込み、瞳を閉じ冷静さを取り戻す。
「ただ、多少の犠牲は織り込み済みだろう、神祇省でも持て余していた触穢区を潰す事で自分達の有用性を証明するつもりなんだろう」
それに、と男は付け加える。
「どうやら対抗手段も確立しているらしい」
愛莉の思考が早まる、人間の制御下に置かれた禍人、もし怪異を意のままに操ることが出来るとしたら?
怪異そのものの武力転用、警視庁と日本政府はその禁忌を冒そうとしている?
「おい!聞こえているか?!」
愛莉はハッと思考を現実に引き戻す。
「君は急いで仲間の元へ!さっき教えたルートなら捕捉されずに戻れる!」
「分かりました……!」
そう言い移動しようとする愛莉に、男は一枚のメモを手渡す。
「何かあったら連絡してくれ」
愛梨は振り返って礼司に言う。
「ありがとうございました……!」
愛莉は薄く会釈をすると、屋根の橋を蹴って隣のビルに飛び移る。
「えぇ、今無事に仲間の元へ……、いえ、歯痒いですがこれ位しか私には出来ませんから」
「それにしても、あの子は逞しくなりましたね、課長」
続く・・・