研究業績

1.研究業績一覧


2.学位論文

後藤昭弘 : 放電加工における放電生成物の状態制御と利用に関する研究, 東京大学 学位論文, (1998)12月


3.過去の研究開発の概要(1990~2013年)

 筆者が、三菱電機時代(1990年~2013年)に行った放電加工の研究開発の概要をまとめた資料

「最近の放電加工技術の開発」電気加工技術,Vol.37,No.116,(2013) 

1. はじめに

 筆者が放電加工の研究開発を企業で始めたのは1990年。日経平均株価が39000円にあわや届くかという最高値を1989年の12月につけた後に下降を初めてこれからどうなるのだろうと皆が不安に感じ始めながらも、まだまだバブル景気の雰囲気に酔いしれていたころだった。それから23年が経過し、日本経済は何度かの景気の極大値・極小値を経験してきたが、放電加工技術もいくつかのブレークスルーや他の加工技術との競争を経験し、放電加工事業もいくつかの山谷を経験してきた。

 今回筆者の一人が大学に異動することになり、「この機会に今までの放電加工技術の開発についてまとめてみては」という又とないお話をいただいた。この約20年の間に筆者らが進めてきた放電加工の技術開発について紹介させていただき、自らの放電加工の新しい技術開発への決意表明とするとともに、放電加工技術の次のブレークスルーにつながる何らかの契機にでもなれば望外の喜びである。

2.形彫放電加工技術の開発

2.1 形彫放電加工の自動化

 形彫放電加工の自動化の試みは古くからなされてきたが例えば1)、1990年代初めは、まだ実際には形彫放電加工の自動化はほとんど行われておらず、作業者が常に機械についているか、あるいは、失敗しないような遅い加工速度で加工していたかのどちらかであった。三菱電機のサンプル加工の現場でも機械1台にオペレータが一人常についていた情景を思い出す。90年代前半に形彫放電加工を自動化しようという流れが進み、三菱電機ではFuzzy理論を取り入れた適応制御技術が開発された2)。しかし自動化のためには、的確な放電状態の検出が不可欠であり、異常状態の素早い検出と回避動作を行う技術が求められた。そこで取り組んだのが、放電パルスを1つずつ良否判定するセンサーの開発である3)。図1は単純形状(□10㎜)の銅電極を用いて、一定の加工条件で加工を行った時の典型的な電極送り(すなわち加工深さ)の推移のグラフである。あるところまでほぼ一定の速度で加工を続けるが、ある時点で加工速度が低下し、その後、いわゆるアーク状態となっている。この3段階をそれぞれ、安定な状態、不安定な状態、極めて不安定な状態と考え、放電のパルスの分析を行った。放電パルスは図2のような電圧波形であるが、放電状態と最も相関があるのが、放電中の電圧の振動成分の大きさであることがわかり、この大きさを抽出する回路が現在放電パルスの良否判定に使用されているセンサーである。

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4.大学での研究開発(2013年~)

 筆者が、静岡理工科大学(2013年)で行った研究開発の抜粋

超硬合金の電解加工の研究



電解現象を利用した超硬合金のミーリング加工の研究



絶縁性材料の放電表面処理の研究



電解加工による新しい自動車部品の加工方法の研究

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5.その他読み物


 インタビュー記事

 放電加工技術の発展に大きく貢献された先生方へのインタビューの記事です。


・齋藤長男 先生インタビュー 「電気加工の はじまりと飛躍」 電気加工学会誌, Vol.49, No.121, (2015) 

1.技術者としてのスタート

―― (後藤)本日は、豊田工業大学名誉教授 齋藤長男先生のお話を伺います。齋藤先生は、三菱電機の放電加工事業の産みの親で、日本の放電加工にとっても産みの親のおひとりです。齋藤先生のお生まれは1923年、大正12年で、現在御年91歳(2015年1月現在)、3月で92歳になられます。同じ年の方を調べましたら、遠藤周作、三國連太郎、李登輝、司馬遼太郎、リー・クアンユー、ヘンリー・キッシンジャー、等の方々がいらっしゃいました。渋谷の忠犬ハチ公も1923年生まれだそうです。齋藤先生は、驚くべきことに現在でも現役の研究者、教育者であり、私の研究室でも私や学生たちに丁寧なご指導をいただいています。

 それでは、まず、どのように技術者としてのスタートを切られたかというところからお話いただけますか。

(齋藤)大学を卒業して、三菱電機の本店研究部、今の中央研究所ですね、に配属になりました。1942年のことです。そこで、材料試験をやったんです。例えば、当時、よくモーターのシャフトが折れたんです。当時は三菱電機はウェスチングハウスの完全なライセンシーなんです。全部ウェスチングハウスの図面の通り作ってたんですな。その通りに作ったと思っていたシャフトがポコポコ折れるんです。この原因は何だ、材料がわるいのか、設計が悪いのか、工作が悪いのか。ずっと調べていくと、材料にNiCr鋼という指定があるんです。ところが、当時日本にはNiがほとんどなかった。NiがないからCr鋼になるわけで、脆いんです。それを使ってキー溝を図面と通りに切ると、キー溝の角のところから破壊が始まっていたんです。キー溝は応力が集中するところですから。当時集中応力っていうのは、初耳みたいなものだった。会社の図書館で本を調べて、これは集中応力で壊れたんだなと思いました。それを持ち込んできた職場に対して、NiがないCr鋼だから、角張っていると壊れると説明しました。こっちの立場からすると、角になぜ丸みを付けないのかというと、それはウェスチングハウスの図面通りにやったので、変えられないというわけです。ちょっと丸みをつければ壊れないのに。その人たちがいうには、壊れないものもあるというんです。確率の問題ですわね。こういうことで強く意見を行ったことがあるんです。「ウェスチングハウスの図面だからといっても材料が合わない場合もあるだろう。」そういうことを言って、技術提携をしている三菱電機の体質の問題点があるということを強く感じました。そういうが戦争前にあったことです。


2.大病と戦争

(齋藤)三菱電機に入社した翌年にね、大変な病気をしたんです。昭和18年に、虫垂炎の手遅れの腹膜炎になったんです。で、その時にね、3回手術して、3か月入院してやっと治った。ペニシリンの無い時代でした。それは、非常に絶望的な病気で、死ぬ人が非常に多かった。でもとにかく僕は助かったわけです。だから、助かったのは幸運やらいろいろあるわけです。助かったおかげで、その年は徴兵延期です。昭和18年(1943年)は20歳の時です。それから、翌年の19年(1944年)は徴兵検査を受けたら甲種合格になった。甲種合格になると、いつ引っ張られるか、入営通知が来るかわからないわけです。その次の年、昭和20年(1945年)の8月に戦争に負けるんですけど、その年の5月に、入営の通知が来たわけです。青森の通信隊に入ってくれということで、行ったんですけど、身体検査がありました。軍医が僕の体をみて、3か所にすごい大きな傷があるんです。背中まであるわけですよ。それを見て、「これだけの傷がある人は軍務に向かない。あんたは幸いに重要な有力な会社の技術者だから、いつ倒れるかわからないような体で戦争に行くよりも、会社に戻って仕事やってもらった方が国家のためになる。」というわけで、即日帰郷になったんです。内心は「助かった」と思ったんですけどね。本当は、ありがとうございます、というべきなんですけど、そうは言うわけにもいかないので、残念そうな顔をして「では、仰せの通りにいたします。」と言いました。それで、会社に戻ったんです。

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小林和彦 先生インタビュー 「心ここにあれば…」 電気加工学会誌,Vol.50,No.123,(2016) 

1.思いで深いISEM3

―― (後藤)本日は、高知工科大学大学名誉教授 小林和彦先生のお話を伺います。小林先生は、三菱電機の放電加工事業の正に育ての親ともいえる方でいらっしゃいます。放電加工に関する極めて重要な技術の数々を生み出されました。それらの技術は現在においても重要な技術であり続けています。「三菱電機の放電加工事業は、小林さんがいなかったらうまく行っていなかっただろう」とおっしゃる方も多いようです。今日は小林先生の研究開発や事業のお話をまとめてお伺いできるので、とても楽しみにして参りました。

 (小林先生の業績リストを見ながら)こうして小林先生の業績を拝見すると、本当にいろいろな技術開発をなされていて今更ながらに驚きます。若い頃からのお話を伺いたいと思います。

(小林)はじめて国際会議で発表したISEM3(3rd International Symposium for Electrical Machining) のことを思い出します。「放電加工の適応制御」について発表しました。私にとっての登竜門というような発表でしたね。このとき質問に立ったのが(当時 アジェの)若いシューマッハさん、ソ連のゾルティッヒさん等、でした。シューマッハさんとゾルティッヒさんは真正面にいらして、何回か質問を受けました。当然シューマッハさんはコンペティターでしたからね。それからシャルミーの技術者からも質問されました。結局、講演時間は30分でしたが、私の発表は1時間近くに延びてしまいました。当時は、質問がある限り、講演を打ち切らないという暗黙のルールがあったそうです。申し込むのが遅くて、最後の講演に回されたので、まだよかったのですが。その時のチェアマンが、ウィリアムさんで、イギリスの放電加工機会社スパーカトロンの社長さんでした。当時は同時通訳でロシア語は英語に訳してくれていたんです。ゾルティッヒさんが立ち上がると、同時通訳で、英語に通訳してくれていたんですが、ロシア語なまりの英語なんですね。わからなくなって困っていると、ウィリアムさんが呼んでくれて「こういう意味だぞ」って教えてくれたんです。それでとことん最後まで 全部の質問に答えてやりました。洗いざらい。このままだと宴会の時間に間に合わなくなるので、ここで打ち切ろうとウィリアムさんが言ってくれて、それで終わりました。途中で時間だから打ち切らしてくれって言おうと思ったんですが、そんなこと言うと、秘密を隠していると言われるのが癪でしたからね、とことん受けたんですよ。アーヘン工科大学のオーピッツ教授のところの研究者もたくさんいましたね。その後のバンケットのときにも質問攻めに合いました。その際も私はとことん答えました。それで、多分好印象を持ってもらえたかと思います。その後、ホイリゲっていうんですが、みんなと朝まで飲み歩きました。私は結構お酒強いですからね。

(後藤)加工技術で適応制御を行うというのは、今でも放電加工くらいしかありませんよね。最近、ミーリングの分野でも、機械に考えさせるということが言われるようになってきましたが、放電加工では、ずっと前からやっているんだけどなあ、と思いながら聞いているんです。

(小林)そうですね。1970年頃に、適応制御について発表したので、だいぶ欧州の研究者を刺激したようでした。会社入ったのが38 年(1963年)だから7 年後ですね。30歳くらいだったと思います。

 このときに、茨城大学の久保田先生に大変お世話になりました。飛行機のトラブルがありましてね。飛行機がイタリアのミラノからウィーンに飛ぶ予定だったのですが、飛行機に乗りこんだところで、突如ストライキになってしまいました。すぐに降ろされたのですが、困ったなーと思ってね、事務所に文句言いに行ったんです。というのも、2日後が発表だったのでね。アメリカ人と日本人と私の3 人が文句言っていたら、「それじゃ、飛行機を飛ばすからベニスにいってくれ」と言われて、ベニスまで飛行機で行って、そこから国際列車でウィー ンまで行くことになりました。夜行列車に乗って。 もう切符がなかったので、ファーストクラスじゃない。セカンドクラスの人がいーっぱいいる席でしたね。朝の6時くらいにウィーンに着いたんですがね、もうホテルがキャンセルされていて、要するに前日来ないので予約がキャンセルになっていたんです。行ったら「ノー」って言われましてね。「弱ったなー、どこか探してくれませんか」っていったら、他のホテルを一生懸命探してくれたんだけどないんですね。それで困って学会関係の名簿を見たら、そのホテルに久保田先生が泊まっておられたんです。それでボーイと一緒に部屋まで行って、トントンとノックしたけどいらっしゃらない。学会がもう始まっていたから。ウェルカムパーティーに行かれていたんですね。それで、しょうがないので、友達だからって言って、部屋を空けてもらって、入れてもらったんです。ホテルってベッドが 2つありましたので、もうひとつのベッドで寝てたんです。汽車の中では夜中ずっと怖かったので、眠れず、疲れ切っていましたからね。それで寝ていたら、久保田先生が夜中の9 時頃帰って来られて、「誰か寝てる!」って騒ぎになって、起こされ「あれ、なんで小林さんここで寝てるの?」、「ホテルがないから泊めてください」ってお願いしたんです。それがはじめての国際会議でした。

 この国際会議に行くときに、高桑さんという(三菱電機名古屋製作所の)所長に「手ぶらで行ったら かっこ悪いでしょ」とお願いしたんです。いい所 長でした。放電加工が大好きな方でした。そしたら、10 万円寄付しようといってくださった。当時 のお金で10 万円までは所長が決済できたんです。あの当時の10 万円、われわれの初任給が2~3 万円の時代の 10 万円ですからね、結構高いんですよ。

(後藤)今の100 万円くらいですね。

(小林)そうですね。高桑さん「ひとりで行って肩身が狭いだろう。帰ってきたら会社に利益貢献しろ。」とOK してくれたんです。太っ腹ですよね。

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