2021年9月26日(日)10:00~オンライン講演会
村上 哲明(東京都立大学 理学研究科(牧野標本館)教授)
私が4ヶ月間だけの学振・特別研究員(PD)を経て、1987年8月に東京大学理学部附属植物園(日光分園)の助手に着任した時、矢原さんは同植物園の講師で、私の上司であった。ちょうど、長谷部光泰君も大学院生として植物園のメンバーに加わったところで、私たち3人は協力して植物園でDNA分類学の研究を本格的に始められるように機器類や設備の整備、さらにはDNA解析のための技術の導入を進めていった。DNA分類学(最初は分子系統学)の研究成果が植物園で本格的に出始めるのは、矢原さんが東大・教養学部(駒場)に異動した後の1990年代に入ってからであったが、3人が最初に目指していたものは、この時点で一旦実現したと思う。
その後、矢原さんは生態学に、長谷部君は発生進化学に軸足を移して行き、私だけがDNA分類学に残ったように感じていた。一方で、私はその後に異動した先の京都大学と首都大学東京の大学院生達の力を得て、分子系統解析以外のさまざまなDNA分類学(広義)の研究を推進してきた(実際に研究を推進したのは、大学院生達であるが…)。今回の私の講演時間は20分と限られてはいるが、私たちがこの25年間で展開してきた分子種分類(特に形態で識別ができない異なる生物学的種=隠蔽種の認識)、分子種同定(シダ植物の独立配偶体=配偶体世代のみで世代をつないでいる の探索)、無配生殖種の網状進化の解明と種分類、日本列島の分子植物地理学(分子系統樹の情報を一切活用しない分子系統地理学)の研究などをざっと紹介したい。まさに多様なDNA分類学の研究を展開してきたことを強調したいからである。
私が自分の指導する大学院生達と推進してきたこれらのDNA分類学(広義)の研究は、1980年代の後半に矢原さん達と東大・植物園で立ち上げた研究の延長上にあったと思っている。これらの研究の基本的な着想を私が得たのは、いずれも東大・植物園にいた時だったからである。一方で、現在は、いよいよ次世代シーケンサーを活用してゲノムレベルで生物多様性や、それを生み出した進化を研究できる時代になった。1990年代の前半、PCRとDNAシーケンサーによって野生植物からでも容易にDNA情報を取り出せるようになって、それまでの植物分類学がすっかり変わったように(私たちは幸運にも、それを一番最初の段階から体験できた)、私の元大学院生達を含む若手研究者が次の世代の分類学(広義)を展開して行ってくれることを期待している。
長谷部 光泰(基礎生物学研究所 教授)
やはらさんは風のように現れ、去って行く。学部1年の冬、大場秀章助教授室で成東の食虫植物保護地で調査した植物の名前を教えて貰っているときだった。いきなり、部屋に入ってきて、早口で、大場さんになにやら事務連絡をし、私が開いていた標本を一瞥、「ヒメカンスゲやな」の「な」が聞こえた時には姿が消えていた。
やはらさんは異次元に生きている。植物学教室の約30名の教員と6名の新学部生のガイダンス。静寂な部屋に、1人、30分ほど遅れてどたどたと入ってきて、「すいません。恐竜の絶滅と隕石の関係の本を読んでいたら新宿まで行ってしまいました。」と言って、5分くらい恐竜絶滅について解説を始めた。飯野徹雄教室主任曰く、「君たちも遅刻したときのお手本にしてください」。お手本にできた同級生は未だいない。
やはらさんは負けず嫌い。「屋久島でオニマメズタ見たことあります?」と聞いたら、瞬時に「無いで!」。その後、鈴木武、牧雅之と永田歩道で見つけ、宅急便で「オニマメズタ入り」と書いて送ったけど、開けもしなかった(笑)。
やはらさんはきまぐれ。福岡出張から帰って「ヤマラッキョウが面白いで」と1時間くらい熱弁してたのに、翌朝にはもう冷めてた。
やはらさんはまめ。試薬室の奥の古い段ボール箱を開けたら、「矢原文字」でびっしりのノートが数十冊。ひたすら生協の運営について書いてあった。。。。
やはらさんは国際感覚抜群。シカゴで学会があったとき、米国人に「マイ ドーター イズ チカコ」と何度も言って困らせていた。
やはらさんは冗談が通じない。W大学院生(現千葉大教授)が韓国の留学生に写真集を見せていたら「そんなもん見とったら○○○になるで」と激怒。なだめようと脇にいたSP大学院生が「これくらいなら平気ですよ」と言って大炎上。
やはらさんは結構間抜け。屋久島の学生実習で「ヒルが出るので注意するように」。学生の視線は「タオルはちまき」の上を這うヤマビルに集中していた。
やはらさんは人の意見にいつも何か付け足す。たった一度だけ、「総合研究っていろいろな専門の人が集まるんじゃ駄目で、1人が総合的にならないと駄目なんじゃないですか」と言ったときは素直に賛成してくれた。
そして、やはらさんは私の研究人生に欠かせなかった。分子系統、発生進化、アポガミー遺伝子、ゲノム進化の研究に矢原さんがどう関わったかを紹介します。
副島 顕子(熊本大学大学院先端科学研究部教授)
今でもどういう経緯だったのかよくわからないのだが、当時就職したばかりだった私が矢原さんの国際学術研究に参加することになった。おそらく降りかかる火の粉を避けようとした伊藤さんが、仕事の軸足がまだ定まってない私につけこみ、矢原さんを口車に乗せたのだと思われる。いずれにしても成り行き任せで、1994年を皮切りにした通算10回におよぶメキシコの旅を矢原さんとともに経験することになったのだ。
対象となるキク科ステビア属は新世界に固有で、メキシコに約100種、南米にも100種以上が知られる大きなグループである。ステビアといえばダイエット甘味料として有名だが、別に新たな資源を発見しようというのではない。メキシコのステビア属には一年草、多年草、木本といった適応放散的な多様性があること、また多くの種で倍数体無配生殖が知られていたことから、かねて無配生殖に興味を持っていた矢原さんが白羽の矢を立てた分類群だったということだ。
まずはメキシコに分布するすべての種をもれなく採集するという漠然とした目標に向かい、メキシコ自治大学の標本庫でひたすら標本を見続けて、ラベルをもとに採集地を決定する。恐ろしいことに現地の研究者の同行は一切なく、日本人だけで地図を頼りにレンタカーで採集の旅に出るのだ。メキシコの大地は広大で、当時はまだ高速道路網も未発達だった。英語も通じず、ときには花咲くケシ畑を横目に見ながら荒れた山道を突き進み、何度パンクや脱輪の憂き目にあったことか。一日に二回も脱輪させたのは矢原さんだ。「ハマールやはら」という駄洒落を冷たく無視したとしても非難される覚えはまったくないといわせてもらいたい。
延べ半年を超えるステビア探索の旅で、記録に100年の空白がある種を再発見し、14の新分類群の記載を行いました。今となってはあれもこれも懐かしい珍道中の思い出話を聴いていただこうかと思います。
奥山 雄大(国立科学博物館筑波実験植物園・研究主幹)
約7000種の維管束植物が自生する日本列島は世界でも有数の植物多様性を誇る地域であり、その特色の一つとして高い固有性をあげることができる。このことから、日本固有植物を研究材料とすれば植物の種について理解を深めることができるのではないか、と考えて僕は研究を始めた。
さて日本を代表する固有植物には例えばシラネアオイ、コウヤマキ、サンショウバラ、レンゲショウマといった華々しい面々が思い浮かぶが、あろうことか僕が興味を持ったのはとても小さく地味な花をつけるチャルメルソウだった。しかし、植物学の勉強を始めたばかりの僕が愛読していた本「花の性―その進化を探る」の著者は、なんとはじめにヤブマオの研究から入ったというではないか。なんだヤブマオに比べればチャルメルソウはずっと「花らしい花」じゃないかと勇気付けられたのを覚えている。そんな愛読書の著者、矢原徹一さんに初めて会ったのは、2004年だったかに神戸で開催された種生物学会シンポジウムであった。この時のエピソードは最近上梓した著書にも書いたが、当時、いかにも時間がかかりそうなチャルメルソウでの掛け合わせ実験を短い学生の期間でやるべきかどうか?で悩んでいたところに、「やったらええやん」とアドバイスをくれたのが矢原さんであった。結果これはきちんといい仕事になったし、その後もいろいろな局面で植物愛溢れる矢原さんに研究を気にかけていただいたことは、たいへんありがたく、心強いことであった。
それから15年余りが経ち、現在ではチャルメルソウ以外に特に多様性が際立っている植物の系統群としてウマノスズクサ科カンアオイ節、そしてサトイモ科マムシグサ節にも研究を広げている。これらはいずれも日本列島を舞台として種分化・多様化を遂げたと考えられることから、植物種分化の研究モデルとして注目している。また、これらいずれの系統群においても種ごとに特異的なハエ目昆虫が送粉者として働いており、その特異性には花の香りが関与している可能性が高いことが明らかになってきた。今回の発表では、これらの植物について新たに分かってきた面白い話を紹介することで、「地味な花」の魅力をここぞとばかりにアピールし、地味な花も可憐な花も分け隔てなく愛する矢原さんの新たな門出を祝いたいと思う。
矢原 徹一(一般社団法人九州オープンユニバーシティ理事・福岡市科学館館長)
小学校時代に昆虫に、中学時代に植物に興味を持ち、一般性ではなく多様性に魅せられて研究者の道を歩んできました。そしてあと10年くらいは、野外で調査をしながら、植物の多様性の研究を続けたいと思っています。90分の講演時間をいただいたので、三部構成で話をします。
第一部では、多様性に興味を持ち、定年を迎えるまでの研究の歩みをふりかえります。生態学会賞受賞講演の内容をリアレンジして、分類学から集団遺伝学を経て進化生態学・保全生態学に進み、地球規模の生物多様性観測にかかわった経験を話します。
第二部は、定年までの7年間に取り組んだ決断科学(人間の意思決定科学)の成果について紹介します。人間の意思決定研究は、人間の多様性とその進化的背景について理解を深める研究でもあります。このテーマに7年間取り組んだ結果、私なりのオリジナルな視点を持つことができ、英文書籍も出版できました。その成果を紹介します。
第三部は、いま取り組んでいる日本の野生植物総点検プロジェクトの初期成果を紹介します。ゲノム情報を活用した植物多様性研究がこれからますます発展していくでしょう。その土台として、日本の維管束植物全体を対象として、高精度系統解析にもとづく分類学的改訂作業を進めています。その結果、100種以上の新種候補が見つかってきました。中学校時代に興味を持ったヤブマオ類の多様性にも、新しい技術でもういちど取り組めそうです。この研究は分類学中心のプロジェクトですが、生活史の進化や適応放散など、生態学的に興味深いテーマとも密接に関連しています。最後に、分類学と生態学の両方について研究してきた経験をもとに、これからの研究の夢を語りたいと思います。
巌佐 庸(九州大学名誉教授・長野大学学長特別補佐)
私が矢原徹一さんにはじめてお会いしたのは、矢原さんが京大理学部の植物分類学研究室の博士課程の院生だったときです。それから40年以上の間に、矢原さんは植物分類学からスタートして、集団遺伝学を取り込み、分子系統学、進化生態学、さらには保全生態学の確立、生物多様性学と決断科学へ、と研究領域を拡張されました。
加えて、日本生態学会や日本進化学会、種生物学会をはじめとして多くの学会の研究の潮流を変えられました。日本生態学会についていいますと、(1) 植物の繁殖生態研究が、生態学会の主要分野として確立されたこと、(2) 保全生態学が、生態学会の非常に大きな領域に成長したこと、の2点は、矢原さんがなされたうちでもとくに大きかったように思います。
自分の専門分野を「○○学」と決めて、その外側にいる人との違いを意識するのが人間の本性です。しかし私は、矢原さんからそのような言葉を聞いたことがありません。矢原さんはいつも新しいことに興味をもち、ご自分の考えている研究を発展させる契機にならないか、と考えてこられました。地下鉄で会うといつも、「こんな面白い話がある」と話してくださいました。
また置かれた立場や状況の望ましい側面をみて、それらを生かした新しい展開を考えられ、周りの研究者をどんどんとまきこんで、研究やプロジェクトを実行し、成功に導かれました。
この積極性と実行力は、私たちが矢原徹一さんから学ぶべきことと思います。
今回退任のお祝いを述べるに当たってふりかえり、以下のような話を少しずつしたいと思います。
(1) 京都大学の生物物理、夜のゼミでのヤブマオの話
(2) 三島での日米セミナー:自殖率の進化
(3) 九大理学部に分子生態学の研究室を
(4) 福岡での生態学会と少数精鋭
(5) いくつもの大型プロジェクトの展開
大井 和之(一財・九州環境管理協会環境部自然環境課主席研究員)
今から25年前、1995年の1~3月は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件で世の中が大変騒がしい時期でした。そんな中、小野勇一先生のあとの生態科学講座教授として1994年夏から併任されていた矢原先生の研究室が1995年3月末に駒場から完全移転することになり、私たち5人の大学院生は引っ越し作業に追われました。
私が箱崎キャンパスに通ったのはわずか2年間ですが、少人数の駒場の研究室からメンバーが多い九大の研究室に移り、ゼミの話題も大きく広がって、それまで嶋田研のマメゾウムシの話ぐらいしか聞いたことがなかった動物生態学のさまざまな話を新鮮に聞いていました。幸いなことに、当時の先輩方の何名かには、就職後にも福岡県レッドデータブックの編纂などで大変お世話になりました。
2000年の春に、無職になりそうだった私に現在の職場を紹介していただき、九大のキャンパス移転に関する調査の仕事をすることになりました。造成開始直前の新キャンパス用地に入り、詳細なライントランセクト調査を実施しました。当時の学生さんたちには、調査のアルバイトやボランティアの保全活動に参加いただきました。
矢原先生は、新しいツールを使うことに積極的で、日光、駒場、箱崎と実験室を整備してアイソザイムやDNA分析ができるようにしてこられました。私も、DNA分析やGIS、統計など新しいツールを使いこなそうと思っています。おかげさまで、昨年、九環協の実験室に次世代シーケンサー(iSeq100)を入れることができました。
昔の写真を発掘したのでご紹介します。
長谷川 匡弘(大阪市立自然史博物館)
矢原徹一先生の生態科学研究室に配属となったのは、1999年。もう20年以上も前のことになりました。それからこの20年間、博士課程を途中退学して一般企業に就職したり、運よく学芸員の仕事につくことができたりと、いろいろありましたが、ずっと、何らかの形で矢原先生にお世話になってきたと思っています。卒論・修論をご指導いただいた時、国際学会に参加した時、就職してからの博士論文執筆・審査の時、博物館に就職してからも、屋久島での調査の時…。限られた時間ですが、学生時代のキスゲプロジェクトの立ち上げ時の野外調査の話、2003年に行ったメキシコ調査の話を中心に、矢原先生とのかかわりについてお話しし、感謝を述べたいと思います。
遠山 弘法(国立環境研究所 特別研究員)
矢原先生の記憶で最初に登場する私はえびの実習の中、ノカイドウのそばで酒に溺れて苦しんでいる姿だと思います。それから約16年間という長い間、矢原研の学生として、そしてその後のポスドクとして、本当に楽しい時間を一緒に過ごさせていただきました。今回の講演では、矢原先生との思い出話を東南アジアにおける植物調査のプロジェクトを中心にお話しします。
黒岩 亜梨花(企業勤務)
私が矢原先生のことを知ったのは、高校3年生の頃、卒業後の進路に悩んでいたときに見た九州大学のパンフレットでした。伊都キャンパスの生物多様性保全ゾーンと矢原先生のことが紹介されており、面白そうだなあと思ったのがきっかけで九大生態研へ。
生態研では、矢原先生と一緒に生物多様性保全ゾーンでアナグマの痕跡を探したり、屋久島でシカを追いかけたり。ももクロを歌って踊った夜もありました。
決断科学では、九大内のさまざまな分野の方はもちろんのこと、カンボジアや対馬、メキシコ、いろんな場所を訪れ、たくさんの素敵な方との出会いがありました。矢原先生と出会ったことで、本当にいろんな経験ができました。
進学、就職、結婚...。振り返ってみると、人生の岐路に立たされたとき、この道を選ぶという“決断”をした背景には矢原先生の存在や、矢原先生と出会ったことでできた経験があったんだなあと気づかされます。
今回の講演では、
① 屋久島での野外調査の日々
② 決断科学での日々
を中心に、矢原先生と過ごした日々を振り返りたいと思います。
永濱 藍(九州大学理学研究院)
私の大学院生活を表すキーワードは、①伊都キャンパスの生物多様性保全ゾーン、②東南アジア、③決断科学プログラムの3つである。1つめの「生物多様性保全ゾーン」は、私が初めて自分の研究を行った場所である。この研究を矢原先生との共著論文としてまとめる中で、真摯に研究に取り組むことが良い研究につながることを学んだ。2つめの「東南アジア」は、矢原先生が立ち上げていた大型プロジェクトの舞台である。このプロジェクトの植生調査に参加させていただいた私は、熱帯植物の分類学的知識や異国の文化を学ぶ機会を得た。3つめの「決断科学プログラム」は、専門性・学際性に優れたオールラウンド型リーダーを目指すリーディングプログラムで、矢原先生がセンター長をつとめている。私は、このプログラムに所属してから、人間社会における様々なローカル/グローバルな問題の現場に触れ、他分野の研究者や行政・市民と協働することの重要性を学んだ。これらは、全て、私の価値観・人生観に大きな影響を与えるほど、他に代えがたい貴重な経験と学びだった。これらを得る機会を与えてくださった矢原先生には、感謝しかない。