「これからやりたいこと」
あと10年間は現役フィールドワーカーを続けることを前提に、今後の計画を紹介します。①「種を消失させない」という大胆な目標を掲げて実施した伊都キャンパス生物多様性保全事業の成果をまとめ、新たな研究を進めます。②東南アジアで8年間かけて集めた4万点をこえる標本・DNA試料・スライドをもとに、東南アジア樹木図鑑の完成をめざします。③卒業生と協力してキスゲプロジェクトの成果をまとめます。④「保全生態学入門」を改訂します。⑤決断科学大学院プログラムの成果として、Decision Science for Future Earthという本を出版し、関連論文を発表します。また「人間社会生態学入門」という教科書と、関連する普及書を出版します。⑥九州オープンユニバーシティでオープンな研究・オープンな教育をすすめるソーシャルビジネスを育てます。⑦その他(例:またメキシコに行きたい。誰か研究費をとって、私をメキシコに連れて行ってください)
「箱崎から伊都キャンパスへ:九大と矢原さんと」粕谷英一(九州大学理学部生物学教室)
九州大学理学部は2015年秋に箱崎(福岡市東区)から新しい伊都キャンパス(福岡市西区、キャンパス自体は糸島市にもかかる)に移転した。生態の研究室は10月下旬に引越した。矢原さんは約二十年にわたり箱崎で、理学部に勤めたことになる。キャンパス移転は、大学にとってもそこで過ごす人々にとっても一大事業というべきものである。さらには、卒業生をはじめ大学で過ごした人たちにとっても、小さからぬできごとであろう。大学の移転は、引越しとしての規模が大きく、研究室は2015年を中心としていやおうなくほぼそれに集中することになった。とくに引越し前のしばらくの時期はゴミ捨てばかりしていた印象が今でも残る。生態の研究室も含め、箱崎の理学部の建物はすでに解体され、存在しない。
箱崎と伊都キャンパスの間には、環境など福岡市という同じ自治体の中とはいえ大きなちがいがある。両者を、そこで生活する者の視点からやや冷静に比較することを試みる。また、約二十五年間の生態の研究室での、記憶に残るできごとについても周囲の環境の変遷も含め、ふれる予定である。
「駒場→箱崎→伊都 移転にかかわる思い出話」大井和之(九州環境管理協会)
今から25年前、1995年の1~3月には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件で世の中が大変騒がしい時期でした。そんな中、小野勇一先生のあとの生態科学講座教授として1994年夏から併任されていた矢原先生の研究室が1995年3月末に駒場から完全移転することになり、私たち5人の大学院生は引っ越し作業に追われました。
私が箱崎キャンパスに通ったのはわずか2年間ですが、少人数の駒場の研究室からメンバーが多い九大の研究室に移り、ゼミの話題も大きく広がって、それまで嶋田研のマメゾウムシの話ぐらいしか聞いたことがなかった動物生態学のさまざまな話を新鮮に聞いていました。幸いなことに、当時の先輩方の何名かには、就職後にも福岡県レッドデータブックの編纂などで大変お世話になりました。
2000年の春に、無職になりそうだった私に現在の職場を紹介していただき、九大のキャンパス移転に関する調査の仕事をすることになりました。造成開始直前の新キャンパス用地に入り、詳細なライントランセクト調査を実施しました。当時の学生さんたちには、調査のアルバイトやボランティアの保全活動に参加いただきました。
矢原先生は、新しいツールを使うことに積極的で、日光、駒場、箱崎と実験室を整備してアイソザイムやDNA分析ができるようにしてこられました。私も、DNA分析やGIS、統計など新しいツールを使いこなそうと思っています。おかげさまで、昨年、九環協の実験室に次世代シーケンサー(iSeq100)を入れることができました。
昔の写真を発掘したのでご紹介します。
「野外調査と研究と ~矢原先生に教えていただいたこと~」長谷川匡弘(大阪市立自然史博物館)
矢原徹一先生の生態科学研究室に配属となったのは、1999年。もう20年以上も前のことになりました。それからこの20年間、博士課程を途中退学して一般企業に就職したり、運よく学芸員の仕事につくことができたりと、いろいろありましたが、ずっと、何らかの形で矢原先生にお世話になってきたと思っています。卒論・修論をご指導いただいた時、国際学会に参加した時、就職してからの博士論文執筆・審査の時、博物館に就職してからも、屋久島での調査の時…。限られた時間ですが、学生時代のキスゲプロジェクトの立ち上げ時の野外調査の話、2003年に行ったメキシコ調査の話を中心に、矢原先生とのかかわりについてお話しし、感謝を述べたいと思います。
「矢原先生と過ごした16年を振り返って」遠山弘法(国立環境研究所)
矢原先生の記憶で最初に登場する私はえびの実習の中、ノカイドウのそばで酒に溺れて苦しんでいる姿だと思います。それから約16年間という長い間、矢原研の学生として、そしてその後のポスドクとして、本当に楽しい時間を一緒に過ごさせていただきました。今回の講演では、矢原先生との思い出話を東南アジアにおける植物調査のプロジェクトを中心にお話しします。
「矢原先生との出会いと私の“決断”」黒岩 亜梨花(企業勤務)
私が矢原先生のことを知ったのは、高校3年生の頃、卒業後の進路に悩んでいたときに見た九州大学のパンフレットでした。伊都キャンパスの生物多様性保全ゾーンと矢原先生のことが紹介されており、面白そうだなあと思ったのがきっかけで九大生態研へ。
生態研では、矢原先生と一緒に生物多様性保全ゾーンでアナグマの痕跡を探したり、屋久島でシカを追いかけたり。ももクロを歌って踊った夜もありました。
決断科学では、九大内のさまざまな分野の方はもちろんのこと、カンボジアや対馬、メキシコ、いろんな場所を訪れ、たくさんの素敵な方との出会いがありました。矢原先生と出会ったことで、本当にいろんな経験ができました。
進学、就職、結婚...。振り返ってみると、人生の岐路に立たされたとき、この道を選ぶという“決断”をした背景には矢原先生の存在や、矢原先生と出会ったことでできた経験があったんだなあと気づかされます。
今回の講演では、
① 屋久島での野外調査の日々
② 決断科学での日々
を中心に、矢原先生と過ごした日々を振り返りたいと思います。
「研究者であり、教育者である矢原徹一先生から学んだこと」永濱藍(九州大学大学院システム生命科学府)
私の大学院生活を表すキーワードは、①伊都キャンパスの生物多様性保全ゾーン、②東南アジア、③決断科学プログラムの3つである。1つめの「生物多様性保全ゾーン」は、私が初めて自分の研究を行った場所である。この研究を矢原先生との共著論文としてまとめる中で、真摯に研究に取り組むことが良い研究につながることを学んだ。2つめの「東南アジア」は、矢原先生が立ち上げていた大型プロジェクトの舞台である。このプロジェクトの植生調査に参加させていただいた私は、熱帯植物の分類学的知識や異国の文化を学ぶ機会を得た。3つめの「決断科学プログラム」は、専門性・学際性に優れたオールラウンド型リーダーを目指すリーディングプログラムで、矢原先生がセンター長をつとめている。私は、このプログラムに所属してから、人間社会における様々なローカル/グローバルな問題の現場に触れ、他分野の研究者や行政・市民と協働することの重要性を学んだ。これらは、全て、私の価値観・人生観に大きな影響を与えるほど、他に代えがたい貴重な経験と学びだった。これらを得る機会を与えてくださった矢原先生には、感謝しかない。
「矢原徹一さんに会ってからのさまざま」巌佐 庸(関西学院大学理工学部)
私が矢原徹一さんにはじめてお会いしたのは、矢原さんが京大理学部の植物分類学研究室の博士課程の院生だったときです。それから40年以上の間に、矢原さんは植物分類学からスタートして、集団遺伝学を取り込み、分子系統学、進化生態学、さらには保全生態学の確立、生物多様性学と決断科学へ、と研究領域を拡張されました。
加えて、日本生態学会や日本進化学会、種生物学会をはじめとして多くの学会の研究の潮流を変えられました。日本生態学会についていいますと、(1) 植物の繁殖生態研究が、生態学会の主要分野として確立されたこと、(2) 保全生態学が、生態学会の非常に大きな領域に成長したこと、の2点は、矢原さんがなされたうちでもとくに大きかったように思います。
自分の専門分野を「○○学」と決めて、その外側にいる人との違いを意識するのが人間の本性です。しかし私は、矢原さんからそのような言葉を聞いたことがありません。矢原さんはいつも新しいことに興味をもち、ご自分の考えている研究を発展させる契機にならないか、と考えてこられました。地下鉄で会うといつも、「こんな面白い話がある」と話してくださいました。
また置かれた立場や状況の望ましい側面をみて、それらを生かした新しい展開を考えられ、周りの研究者をどんどんとまきこんで、研究やプロジェクトを実行し、成功に導かれました。
この積極性と実行力は、私たちが矢原徹一さんから学ぶべきことと思います。
今回退任のお祝いを述べるに当たってふりかえり、以下のような話を少しずつしたいと思います。
(1) 京都大学の生物物理、夜のゼミでのヤブマオの話
(2) 三島での日米セミナー:自殖率の進化
(3) 九大理学部に分子生態学の研究室を
(4) 福岡での生態学会と少数精鋭
(5) いくつもの大型プロジェクトの展開