本稿は「日本建築学会 九州支部研究報告集 第60 号」(2021.3)掲載論文「大分市府内町「若竹ビル」の研究地方都市における市街地再生の考察」を一部修正したものである。
1.序
大分市の中心部に、築60 年に迫る大小30 数件の物販・飲食その他の商業施設と住宅が入居している地上4 階建ての複合建築「若竹ビル」<図1>がある。これまでの歴史と現況の把握は、市街地の将来像を描くうえで着目すべきであると考え、事例調査を行うこととした。
<図1> 府内五番街(左:若竹ビル、右:府内ビル)©2020.10.18 ihaya
所在地 :大分市府内町
竣⼯年 :1964年(昭和39年)
構造規模:RC 造 地上4階・地下1階
延床⾯積:約6,900 ㎡
設計者 :SANKEN Architect Design Room (設計図より)
施⼯者 :松尾建設
2.研究背景と目的
このような複合建築については、先ごろ刊行された藤岡らの共著『横浜防火帯建築を読み解く』<図2>文1)に詳しく、また、先立って速水らの論文において公表されている文2)。これらの文献を参照すると、1952(昭和27)年5 月に制定された「耐火建築物促進法」において、建設大臣によって「防火建築帯」が指定され、建設費の補助が行われた。指定の基準を要約列記すると下記の内容であった。
「地上階数三以上のもの若しくは高さ十一メートル以上のもの又は基礎及び主要構造部を地上第三階以上の部分の増築を予定した構造とした二階建のものであるときは、当該耐火建築物の地上階数四以下及び地下第一階以上の部分」(同法第6 条)について補助金が交付された。
路線式の指定の場合、指定範囲は表通り側から見て奥行き11m 以内が対象であった。(なお、この寸法は奥行き六間の防火地区指定がなされた「市街地建築物法」を継承したものである。)
全国では92 都市において「防火建築帯」が指定されており、大分市は、1953(昭和28)年9 月に全国で49 都市目として指定され、対象となった路線延長は3,665m であった。
これらのうち、約半数の48 か所が戦災都市に指定されており、大分市もこれにあてはまる。
同法により、戦後の戦災復興とこれ以外と都市においても市街地の防災性向上を期して整備が進められた。 伝聞的には復興ビルという呼称もあるが、「若竹ビル」はこれらの項目に合致しており、未確認ではあるが行政資料で検証が必要であると考えている。この建築物の背景と現況をとらえることが本研究の目的であり、次の段階につなげるために有用であると考えている。
<図2> 横浜市防火建築帯(中区相生町)文1)
<図3> 昭和30 年代の「若竹ビル」周辺地図(出典:『大分別府レトロ地図』文3)に加筆)
3.研究対象地の歴史的背景
対象地の歴史を概括する。大分市街地は府内城の中堀を境に西側は商いの街、東側は武家屋敷町に分かれていた。南北にのびる中堀は明治時代初期に埋め立てられ碩田(おおいた)通りとなり、現在は中央通りと名前を変えている文3)。武家屋敷の南の端は若松通り(現:府内五番街)である文4)。
「若竹ビル」の敷地は1881(明治14)年府内城中堀を埋め立てられた場所で、戦国時代に大友氏初代当主によって、鶴岡八幡宮の分霊を勧請して1196(建久7)年に創建されたと伝えられる若宮八幡社が、市域の東部から当地に遷座し、1881(明治14)年から1920(大正9)年まで、この若松通りに約40 年間にわたり鎮座した文4・5)。
古くから商人街であった竹町通りにつづく繁華街として、若松通りは戦後商店の建設が盛んとなり、戦後焼け野原からの復興の区画整理で二割の減歩で道が広くなり映画館やパチンコ屋など娯楽施設が並んで、さらににぎわうこととなった。このように周囲が世俗化し、境内も手狭になったため、若宮社はふたたび移転前の現地に遷座し、この地は一時公園(若竹公園と名付けられた)となった<図3>。
4.「若竹ビル」の建築概要・特徴
4.1 建設の背景
「若竹ビル」の前身はこの若竹公園の南に隣接した区画(現:ふないアクアパーク)に立地していた商店群である。旧南新地とよばれた土地の一部に、小さい店舗が20 店舗ほどあったものが、若松通りに面する北側の現敷地(旧:若竹公園)の土地と等価交換を大分県住宅供給公社が事業化して、現在の「若竹ビル」が建設されることとなった。<図3>
現オーナーの一人の先々代が当時の「若竹ビル」協同組合長であり、公社との交渉の中心人物である。
<図4> 現在の「若竹ビル」周辺地図
図5 「若竹ビル」1・2・3 階平面図
4.2「若竹ビル」の建物概要
建設された「若竹ビル」は、一部地下1 階地上4 階建てRC 造、施工は松尾建設、実施設計図によると設計者はSANKEN Architect Design Room とある。『大分別府レトロ地図』文3)には1964(昭和39)年竣工の記載がある。
一区画をひとつのビルで構成するコの字型の形状で、約400m の商店街に面する長辺方向は、東西に約80m におよび、延床面積は約6,900㎡で、1 階・2 階がそれぞれ約2,000㎡(中庭を含む)、3 階1,600 ㎡、4 階は約1,300 ㎡の規模である。建物南西部の地下階は、現在は使われていない。
4.3「若竹ビル」現況
現在は7 名のオーナーによる区分所有がされており、その研究協力によって、2020 年9 月3 日~10 月15 日の期間で1・2 階を占める店舗(一部3・4 階)全33 店舗中29 店舗についての現況の実測調査を行った<図5>。
3・4 階は主に住居や事務所として使われている。現在の「若竹ビル」は以前、「若竹ビル」と若竹会館(建物南東部)の2つに分かれて呼ばれていたという経緯も明らかになっている。
表6 「若竹ビル」入居テナント(丸数字は<図5>に対応)
図7 「若竹ビル」 北側立面図(府内五番街接道面)
5.小括
大分市府内五番街商店街の沿道には、「若竹ビル」と同時期に建設されたと推察される数千㎡の複合ビルがこの他にも残されており、近隣する街区や駅前から北に延びる中央通り(前述)をはさんだ対面の街区にも、類似した復興ビルと称することのできそうな建物もある。これらを再生すべきか、建て替えることが望ましいのかについて、軽々にその是非を述べることは適当ではない段階ではあるが、例えば全国でも実績が増えつつある「優良建築物等整備事業」における「既存ストック再生型」を適用した改修の検討も有用ではないかと思われ、そのための事例収集の必要があると考えている。 大分市ではまだその条例化が未着手であり、これらの課題解決が急務であることから、その一助としても本研究を継続したい。
北東面の角から ©2020.12.5 ihaya
北西面の角から ©2020.12.23 ihaya
南西面の角から ©2020.12.23 ihaya
北東面の角から ©2020.12.23 ihaya
南側 ブーゲンビリアの花 ©2020.12.23 ihaya
南東面 ©2020.12.23 ihaya
内部階段 ©2022.2.19 ihaya
共用廊下の様子 ©2020.12.23 ihaya
text:
〇井隼紗菜乃 大分大学理工学部創生工学科建築学コース Architectural Division, Faculty of Science and Eng., Oita Univ.
柴田 建 大分大学理工学部創生工学科 准教授・博士(工学) Associate Professor, Architectural Division, Oita Univ., D. Eng.
鈴木 義弘 大分大学理工学部創生工学科 教授・博士(人間環境学) Professor, Architectural Division, Oita Univ., Ph. D.
<参考・引用文献>
1) 藤岡泰寛共著・編:横浜防火帯建築を読み解く、花伝社,2020.3
2) 速水清孝、市岡綾子:福島市の防火建築帯の指定と変更の過程 -第二次世界大戦後の地方都市の復興に関する研究-、日本建築学会計画系論文集 第78 巻 第694 号,2013.12
3) 大分合同新聞社:大分別府レトロ地図、大分合同新聞社,2004.3
4) 渡辺克己:大分今昔 第11 章 若松通り、大分合同新聞社,2007.10
5) 加藤貞弘:大分市・消えた町名 その由来と暮らし、大分合同新聞社,1997.4
謝辞
本研究調査は、「若竹ビル」の7 名のオーナーの皆様、テナント入居者そして松田周作建築設計事務所の皆様をはじめとする多くの方のご協力により実施されました。厚く感謝の意を申し上げます。