メッセージ

主にこれから研究者を目指す方に参考になるかもしれないと思い、小川の経験を書いていきます。

2021年1月

私のこれまでの研究者としての歩み:

私は、中学、高校、大学と12年間、バドミントン部に所属していました。高校と大学では主将を務めました。大学医学部)では、主将のときに、東医体でシングル準優勝、東医体・全医体団体優勝、全国大学院大会ダブルス準優勝できました。所詮、医学部とか大学院生とかのしばりでしたが、できる範囲で頑張りました。主将をさせてもらい、目的に向けて小さなグループを統括するとはどういうことか、学びました。今の医学部生とは違い、私が大学生の時はのんびりとした時代でしたので、勉学に常に勤しむというよりは、クラブ活動やスキー、読書、麻雀、飲み会、旅行など、勉学以外の学生生活を、謳歌していました。試験前になるとグッと集中して勉強し知識を詰め込む要領は鍛えられました(笑)。生理学や免疫学の授業は興味深く、積極的に参加しました。バドミントンそうでしたが、一つのことに夢中になり、多角的に考え、とことん打ち込むことが好きでした。医学部6年生のとき、このまま医者になるのか、それとも基礎研究に進むか、迷いました。学生時代にはがんの研究を少しかじったぐらいで、けっして研究の経験が豊富にあったわけではありません。ただ、父が研究者で、オーロラの観測のために越冬隊として南極に行ったりしてマイペースで楽しそうにしていたこともあり、漠然と研究をしたいと、思っていました。研究者気質は遺伝している気もします。研究するなら、神経かがんかな、と思いました。目上の先生に、神経とがんって全然違うじゃない?って突っ込まれましたが、自分なりに情報を集めた結果、なんとなくこれから面白い分野だろう、と感じました。今考えると、神経について何も知らなかったですが、自分なりに情報を集めてよく考え、最後は自分が何をやりたいのか「直感する」ことは、大事だと思います。


そこで神経の基礎のラボを全国いくつか回って見たのですが、そのときは「これっ」というところがなかったこともあり、結局やはり医者を少し経験してから基礎へ、と思い、内科の初期研修を行いました。臨床はやはり経験してみるといろいろと刺激的だったのですが「ありふれたことでも、なぜそうなるのか?、メカニズムがわかっていない現象があまりに多すぎる自分は1つでもよいから何か突きとめる研究をしてみたい」という気持ちが強くなりました。例えば、臨床でみた糖尿病のメカニズムに興味を持ち、その分子メカニズムを記載した教科書をずっと読んでいても、面白く感じていました。ただ、対象を絞るとすると、やはり、学生時代から興味を持っていた神経をやろうと思いました。神経の研究で顕著な業績があり、素人からみても興味深い研究をなさっていると思っていた京大の中西重忠先生に、(当時は電話で)その気持を素直にぶつけたところ、それでは来てみなさい、と受け入れていただきました。ただし、「将来研究者としてやっていけるかどうかはわからないので、それは覚悟してください」と言われたことを、今でも覚えています。そのときは、「そんなものかもしれない。でも楽しそうだし、やってみよう!」という前向きなことしか考えませんでした。ただ今になって、この言葉の意味はとても良くわかります。中西先生の指導は、厳しくも愛情があり、筋が通っており、常に、こころに響くものでした。私の研究者人生に最も大きな良い影響を与えてくださいました。一流のサイエンスとは何かを、当時の自分が実行できたかはともかく、肌で感じることができました。自分に良い影響を与えてくれる師匠を選ぶのも、運もありますが、とても大事だと思います。  


なんとか博士論文をまとめることができた後、留学先を探していると、ちょうど光遺伝学法を世界で初めて神経に応用したEd BoydenKarl Deisserothの論文(Boyden et al, 2005)が世に出た2年後で、アメリカで候補のラボをいくつか回った際に光遺伝学法の話を頻繁に聞きました。ただ、自分はすぐにそれに飛びつくというよりは、まず行動や心理と神経活動の関係などのシステムレベルの神経科学を学び、光遺伝学は後から自分で導入しようと思いました。中西研で分子神経生物学のトレーニングは受けていたので、その点には自信があったのです。縁あって、メリーランド大学のGeoff Schoenbaumのラボに参加しました。メリーランド大学のあるボルチモアにはジョンス・ホプキンス大とかNIHがあり、なぜ「そんなところ」に行くのかと、一部の人から言われました。ただ、 Schoenbaumラボに参加すれば、面白い未来が見えるかも、思っていました(Geoffは、しばらくしてからNIHに異動しました)。そこでは動物心理学的な考え方をヒントとして、ラットの行動実験をデザインし、その行動を遂行しているラットの神経活動を計測するという面白さに出会うことができました。私は、分子生物学実験で「直接見えない」現象を追う実験よりも、行動実験が好きで、行動丹念に観察すること好きでした。Geoffは、げっ歯類の行動を「直感的に」よくわかっていて、いろんな刺激を受けました。つまりSchoenbaumラボの研究は、私の好み・適性(センス)に合っていたと思います。


ただ、研究を進めていくと、やはり神経活動計測だけでは物足りず、光遺伝学を導入したいと思うようになりました。そのアイデアでNIHグラント(R21)を申請したところ、偶然にも採択され、当時のSchoenbaumラボではその研究がなかなか実現しづらかったため、MITのBoydenのラボに異動することにしました。Boydenラボでは、自分の研究費を持っていたため、半分独立した研究者として、MITの学生と一緒に、1からマウスの行動実験を立ち上げ、念願の光遺伝学法を導入することができました。ただ、基本的には実験を1人でやっていたことと、なかなか行動実験がうまくいかずに、結果が出ず苦労しました。そうこうしているうちに、Schoenbaumラボでの論文を出すことができました。偶然ではあったのですが、ラットが、確実な報酬よりも不確実な報酬を期待するときに、より早く行動する、という興味深い現象を見出すことができました。その行動を説明できる新しい理論を、同じラボにいて心理学が専門のEsberが作ってくれたこともラッキーでした。また、ジョンズホプキンス大で動物心理学で著名なPeter Hollandの授業に参加でき、とても刺激を受けました。こういうのは、研究者冥利に尽きる「出会い」だと思います。Schoenbaumラボで見つけた、不確実な報酬に対する行動の神経メカニズム解明が、今でも私の研究の主要課題になっています。逆に言うと、このときの数々の出会いがなければ、今、私はここにいなかったかもしれません(まあ、また別のものを見つけられる時間があったのかもしれませんが)。


中西先生からの「いずれは日本に帰ってきて日本のサイエンスを良くしなさい」というメッセージが頭に残っていたこと、自分はアメリカでやっていくようなタイプではないと思っていたこと、子供は日本で育てたい、と思ったこともあり、Schoenbaumラボでの論文が出た後、日本に戻りました。生理研(伊佐研)に職を得ました。伊佐先生には、自分で研究費を取ってこれるのであれば、自分の研究をやってよい、という寛大な扱いをしていただきました。日本では着任時にすぐに大きな資金がつくわけではないので、立ち上げには苦労しました。ただ幸いにも、直後の科研費で、若手Aに採択されました。これが自分にとってはとても大きかった。当時自分は特任助教でしたが、すぐにポスドクを雇用しようと考えました。そこで、京大文学部櫻井研(当時)の出身の石野さんと出会うことができました。石野さんと一緒に、新しいラットの行動実験を、また1から立ち上げました。ちょうどこの頃から、遺伝子改変ラットが手に入るようになったのは、時代に恵まれました。その後、なんとか研究費を取り続けることができ、ラットとマウスの予備データがあったので、塩野義製薬と京都大学の産学連携プロジェクト(SKプロジェクト)で独立することができました。


独立してからは、ポスドクとして、Sarpongさん、鎌田さん、向平さん、そして医学部の学生さん数名に、次々と参加していただきました。新しい行動実験や、神経活動計測実験をいろいろ立ち上げました。今年から修士の学生の北野さんも参加していただきました。技術支援のスタッフもとても頼もしく、今の研究スタッフ体制はとても恵まれています。これからもっとラボを大きくしていきたい。肝心の研究内容に関しても、これまでに、新しい土地を開墾し、種をまき水をまき、芽が出て、徐々に太い幹となり、そろそろ美味しそうな果実が実ってきたところです。これからはようやく収穫期(論文発表)になりますので、ご期待ください。


そしてこれから、ユニークかつインパクトのある成果を発表できるよう、挑戦していきたいと思っています。