国会図書館で「國廣大鑑」を閲覧し、シャレにならない記述を見つけました。そもそも国筧は謎の人物なのですが、過去の刀剣研究家から、越後守国儔(くにとも)、又は堀川国広本人ではないかという説が唱えられていました。
なんだか、自分レベルの人間が関わっていていいのか、心配になってきました。毎度々々、クソ長い投稿ですが、下まで読んでみて下さい。
そもそも昔から「藤原国筧」という銘は謎とされてきたようです。「土屋押形」と「今村押形」に記載があり、国広の研究書としては決定版ともいえる「國廣大鑑(1954年・日本美術刀剣保存協会刊)」ではその2つを取り上げ、弟子リストとは別に「国筧考」という項を立てて考察しています。
では、自分が最初に辿り着いた“Index of Japanese Swordsmiths”は、どっから情報を持ってきたんだという別の謎がありますが、もうとりあえずそっちはほっときます。
2つの押形の刀が同じものか、さらにそれらが今回の刀を指すのかは、分かりません。両押形には目釘孔が2つあるとされていますが、今回の刀は写真では1つしか見えておらず、ハバキに隠れてしまっているようにも思えます。とはいえ、世に国筧が複数口あるのであれば、それが指摘されていても良いのでは?とも考えます。
何も断定出来る事はありませんが、しょせんド素人調査なので、夢は見れるうちは見ておこうと思います。帰ってきたら、ちゃんとした人に調べて貰いましょう。
※ 日本刀銘鑑等には国筧は「寛永の頃の人」とだけ書いてあります。寛永は1624-1645。というわけで、“Index of Japanese Swordsmiths”は、単に寛永年間の年をそのまま転記しただけなのだろうと思われます。
まず、今村押形から。
原典作者の今村長賀(1837-1910)は、土佐出身で戊辰戦争にも参加し、本阿弥家で刀剣鑑定を学んだ後、遊就館を経て、最後は宮内庁御刀剣係になった当代随一の刀剣鑑定家です。名は「ながよし」ですが刀剣関連においては「ちょうが」と読まれます。国宝調査などにもたずさわり全国の名刀を鑑定して回りました。明治20年代から亡くなる明治43年まで、数々の名刀を「今村押形(全3巻=約550口)」として記録しており、それが昭和2年に中央刀剣会から出版されました。「正宗」って実在しないんじゃない?と言い出した事でも有名です。
該当押形(中巻10頁)のメモ活字起こしは以下(よく解読できたなと感心)
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鞘ニ「藤原国筧八十番明和七庚寅年御買入申候、長弐尺弐寸弐分○上乳割九度切レ」
陸軍幼年生徒日向オビノ士族井戸川持参、明治二十年十月一日写。元ハ飫肥侯ノ蔵道具ニテ今ハ旧臣何某ノ所有品。錵付広直刃。越後守国儔同人ナルベシ。漆ニテ塗リ刃文不分明。今度窓明致ス
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かいつまんで言うと、
明和7年(1770年=10代将軍家治の時代で田沼意次がブイブイいわし始めた頃)に、飫肥藩主(だと思う)がお買い上げしたもので、元は藩の蔵(蔵番号80番)にしまってあったけど、今は元家臣のなんとかさんの持ち物。長さは67.3cm。明治20年10月1日に、陸軍幼年学校の井戸川(※)という飫肥出身で元士族の生徒が持って来たのを見せて貰って記録した。ニエが広く付いた直刃で、「国儔」と思われる、と。
※ (たぶん)井戸川辰三=張作霖が馬賊時代に日本軍(日露戦争中)に捕まって処刑されそうなところを助けたり、能海寛のチベット探検をサポートしてあげた人。最終階級は陸軍中将。
とんでもない事が書いてあります。
越後守国儔(くにとも)とは、国広の甥といわれ門弟の中でも最上級の弟子。堀川一門での弟子(国貞や国助等)の教育は、実際にはこの人がやってたのではと言われてます。国広の代作者ではとの説もあり、とにかく凄い人。藩侯買い上げは、打たれてから150年以上は経っていますが、それまでどこにあったのかには触れてないです。
(画像は国会図書館所有の今村押形)
続いて、土屋押形。
作者の土屋温直(はるなお:1782-1852)は、知行1500石の旗本で、幕末期の刀剣研究家として知られた人。武家保有の刀を広く見聞して、元々数10冊になっていた記録を「土屋押形上中下巻」の三冊にまとめました。記載はおよそ1150口。ここに記載されているという事は、相当の吟味を経て選ばれた逸品という事。
そして、こちら(中巻209頁)にも註釈が。
大正15年に中央刀剣会が「土屋押形」を出版する際には、画像の国会図書館所有のものではなく、別の原本(写し?)を元にしています。両方ともほぼ似たメモ書きですが、
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関ケ原後國廣日州ニテ洛筧(セバ)ト訓ス
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さ・ら・に・とんでもない事が書いてあります。
国広は、関ケ原の後で日向に戻って、国筧(クニセバ)の名で刀を打ったと。「國廣大鑑」では、この字は「竹冠に見」の「筧」ではなく、「竹冠に貝」で辞書にも無い字だとしています。竹に貝ならマテ貝(Bamboo Clam)じゃんとも思いましたが、貝なら虫偏ですね。たしかに言われてみれば、国貞の銘と同じように下は「ハ」です。(「筧」かも、とも言ってますが)
70歳の国広が関ケ原の戦いに行っているのか分からないですが、単に時期の事を言っているのかもしれません。この頃は伊東氏も飫肥の大名に復活(祐兵⇒祐慶)してますし、ちょっと前は石田三成に仕えていたとかいう話(真偽不明)もあり、よく分からない時期ではあります。
(画像は国会図書館所有の土屋押形)
「國廣大鑑」では、堀川一門である事は間違いなさそうだけど、国広本人なのか国儔なのか、世に出ていない別の門人なのか、よく分からないと結んでいます。
いずれにせよ、なかなかの名刀(名工)として伝わってきたのであろうという事は分かりました。
いよいよもって、真剣に返還に取り組まなければならないなと思います。
(画像は「國廣大鑑」の挿入図)
今村長賀に刀の鑑定を依頼した陸軍幼年学校の井戸川という人物は、井戸川辰三でビンゴだったようです。飫肥から井戸川姓で幼年学校に行ったような人は他にありえないとの事。
先にアップした通り、日露戦争中、馬賊時代の張作霖が日本軍に捕まって処刑されそうなところを助けたり、能海寛のチベット探検をサポートしたりしました。軍人としては、特務班としてロシア軍の情報収集や攪乱を担当し、ロシア軍の輸送部隊を襲撃して一個師団の一年分の軍需物資をぶんどって、大山巌元帥から特別個人感状を貰ったりもしています。最終階級は陸軍中将。なんか凄い。
この人がなぜ国筧の刀を、という事は分かりません。松作さんは1876年生まれで、辰三は1870生まれの6歳差。辰三が幼年学校時代は、松作さんはまだ子供。なので、付き合いがあったとすれば、松作さんのお父さんの祐訓(伊東伝左衛門=祐協の息子)かもしれません。
なお、この人の息子さんが、日南市初代市長の井戸川一(はじめ)だそうです。
国筧に関する3件目の記述が出ました。今村幸政という幕末の京都の研師が書いた「歴観剣志」という本に、国筧銘の刀の実見記録で「堀川國廣一類ニ似タリ 忠ノ古ビ慶安前後」とあるそうな(剣掃文庫にあった本で国会図書館にもないので現物未見)。慶安は1648~1652なので、國廣の死後30年以上経ったという事になります。たった5年間をどうやって特定するんだかよく分かりませんが。
尚、この本では「2尺4寸8分」とあり、今村押形の「2尺2寸2分」とは異なるため、別の刀の可能性が高いです。
また、この記録を紹介している刀剣研究家の福永酔剣という方が、「筧(竹冠に貝)」は「正」という字と同意(康熙字典 )なので、國正(國廣の甥)かもしれないという説を唱えています。またしても新説登場。もし藤原国筧が田中國正だったとしたら、返礼の刀を打って頂いた松葉國正氏と同じ銘。偶然にしても出来過ぎな話ですが、それはそれで面白いかと。