宮崎日南では、今回の刀の他にも、鵜戸神宮の神宝刀が戦後行方不明であると知りました。
名前は「鵜ノ丸」。「蛍丸」と合わせ九州の「二丸」として有名だったそうです。(「鵜ノ丸」という名の刀は他にも何本かあります)
実は、これも伊東家に縁のある刀。
伊東尹祐(ただすけ=1468-1523)の後継者問題に端を発し、家臣の稲津越前守重頼が、長倉若狭守祐正を姦計をもって陥れました。
長倉若狭守は綾城に立てこもりますが、最終的に切腹を命じられ、その弟の十輪院聖瑜法印が連れて逃げていた長倉若狭守の子供まで殺されてしまいました。
「綾の乱(1510)」という、いわゆるお家騒動。まぁ、全国どこにでもあった話でしょう。
聖瑜法印は霧島に登り、御池の畔で37日間の絶食をして、伊東と稲津の両家を一心に呪いました。
すると、鵜が御池の中から一尺二・三寸の脇差を咥えて上がってきて、それは平景清(=悪七兵衛)が御池に身を投げたときに指していた刀でした。
(※平景清は、平家の中でも勇猛で知られた武士で、壇ノ浦の後に逃げ落ち、各地に伝説を残しています。熱田神宮にある「あざ丸」の元所有者とも)
その後、聖瑜法印がその刀で何をしたのかはよく分かりませんが、最終的に鵜戸神宮に納められ神宝として伝わりました。
戦前の資料によれば、伝説とは異なり二尺四寸一分の太刀だったそうです。
この刀が、戦後にGHQに取り上げられ行方不明。まったく、なんてこった。
そして、鵜戸神宮の古事記編纂1300年記念事業にて、残されていた写真と法量を元に復元され、2011年11月23日の新嘗祭にて奉納されました。
この刀を打ったのが、松葉國正氏です。
松葉國正氏と鵜の丸
松葉氏が奉納した刀
肥後守国康、堀川一門の名刀工。このプロジェクトの刀とは別にネットでこんな刀も見つけました。読み方を教えてあげたら、速攻でアカウントを削除して消えました。真贋も何代目の国康かも分かりませんが、こういうものがアメリカにはわんさかあって暗澹たる気持ちになります。
大体がコレクション自慢か読み方や値段の質問。結構大きな市場になっていて、数万ドルで取引されているものもザラにあります。
手入れの質問とかで砥石がどうのこうのと言ってるのを見ると、「やめろっ!素人がそんなことすんじゃねぇっ!」って思います。グラインダーで錆を取るとかいう最悪のコメも見ました。
朱鞘の刀は、相当の武芸自慢でないと、持つ事も許されなかったそうです。
酒の一気飲みで福島正則から名槍「日本号」をゲットした母里友信を始めとする黒田家の魔人軍団(黒田八虎)とか、「蜻蛉切」の本多忠勝とか、いわゆる戦闘力が人外クラスの武将の肖像は、皆さん朱鞘です。逆にどっしりと構える系の殿様(家康とか)の肖像画は、黒鞘だったりしますね。前田慶次で有名な皆朱の槍なんかもそうですが、戦場での朱色は「オレつえーから、かかってこいやぁ」みたいなもんだったそう。
これが、江戸時代になると殿中拵といって、登城する際には黒じゃないとダメってお触れが出てしまいます。戦の時代は終わったんだから、腕自慢せんでもええって事なんですね。
幕末になって、登城する必要のない浪人達が「オレつえー」って事を誇示する為に復活したようで、土方歳三もそんな時流に乗ったんでしょうか。
という事で、現在に残っている朱鞘の刀は、戦国時代までのものか幕末のものという事になります。全体からみれば、かなり数は少ないようです。
(画像は母里友信=「さぁ~けぇ~は~の~めぇ~の~めぇ~♪以下略」)
家康はこちら。有名な三方ヶ原の戦いの後のウ〇コ漏らし肖像画。鞘は黒 です
本多忠勝はこれ。色が見にくいけど朱というよりはエンジ色(退色かな)。蜻蛉切は元々は青貝螺鈿だったそう
前田慶次のは錦絵しかみつからんなぁ。朱槍に朱鞘の刀、それにとんでもなく長い太刀を背負ってます
「腕力より知力」の代表で竹中半兵衛。「かかってこいやぁ」というオーラは皆無。黒鞘です
今回の刀が残っていた、というかアメリカ兵にピックアップされたのって、この朱鞘であった事がポイントだったのではないかと思うんですよね。
現持ち主のお祖父さんも、5~6本持ってってます。山と積まれた刀の中から何本か持っていくとすれば、ちょいと毛色の変わったものを色々と混ぜるのが心理ではないかと。朱いのも一本入れとくかって感じで。
そういう事で、「蛍丸」も海に捨てられたのではなく、アメリカに持ってかれた可能性が高いと信じたい。あんなに長けりゃ、そりゃ目立ってたでしょうに。
(写真は蛍丸=めっちゃ長い136cm)
鍔には、木瓜紋です。これって、藤原南家が木工介(もくのすけ)、現代の建設省(今は国土交通省か)大臣みたいな役を拝命し、転じて「もっこう」と発音が同じ(「ぼけ」じゃない)だからと採用された由緒ある紋で、後に子孫の工藤&伊東一族が使ってきました。
伊東主家はこれに屋根がついて庵木瓜紋(①)。諸説あるようですが、家格の違いを表すみたいな感じで、主家は屋根あり、家来は屋根なし(丸に木瓜=②)だったようです。
という事で(妄想ですが)、国筧が刀を納める際に、藩主様にお持ち頂くのは僭越なので、ご家中のどなたかにでもお渡し頂ければ、ってな感じではなかったのかなと。
※ 伊東氏の祖先が建設系だった事から、飫肥では材木ビジネスが盛んに奨励され、飫肥杉の隆盛に繋がったんだそうな。
※ この写真、鍔の入れ方が逆ですね。鞘に入れて腰に差した状態で紋が見える向きが正しい。
刀が打たれたのが国筧最晩年の1644年だったとして、まだ松作さんの家って独立してないんですよね。一族の中を回ったのか、しばらく藩主家にあったものを4代藩主の娘の嫁入りの際に持っていったのか。
で、松作さんの家の紋は、5つ木瓜紋(③)なんです。写真にある長押(鎧入れ)とか陣笠にはこれ。家の玄関にも。これも主家に遠慮して一個割ったんですかね。お孫さんによると、5つは上り紋、4つは下り紋と言って、両方使ってはいたみたいですが。
ちなみに、織田信長もこの五つ木瓜紋です。信長は揚羽とか色々使ってますが、基本は織田木瓜と言われるこれらしい。藩主は一時期、信長の家臣だった歴史もあるんだけど、そこんとこ大丈夫だったんかな。
陣笠と陣羽織
旧伊東伝佐ェ門邸