まず、伊東とは伊豆の伊東市から取られた名。藤原南家(藤原不比等の長男)から続く工藤一族が、平安時代後期より伊豆の開拓に赴き伊東領(伊豆の東海岸)を治めていた事に始まります。
源頼朝の歴史モノで、よく悪役やライバル的に登場する、伊東祐親(すけちか)。一族内で工藤と伊東がごっちゃですが、この代あたりから伊東姓を名乗ります。
平家サイドであったものの、自分の娘(八重姫)を頼朝に取られ、出来ちゃった孫(千鶴丸)を殺さざるを得ず、挙句に所領で反乱起こされて、最後は情けをかけられる事を恥じて自決と、さんざんな役回りですが、鎌倉幕府誕生経緯の中では最重要人物の一人。伊東市では名君の扱いで、伊東祐親祭りなんてのもあります。(5/19-20なんで、今年は終わっちゃいました)
(写真は、伊東駅前の祐親像)
この祐親の孫が、伊東一族の所領争いの中で殺された父(祐泰=祐親の嫡男)の仇討ちをした「曽我兄弟」。「忠臣蔵」や「鍵屋の辻の決闘」と並ぶ、日本三大仇討ち。この頃は、伊東一族も色々と大変だったようです。
その後、かたき討ちされた側の佑経の子孫が伊豆を拠点としつつ鎌倉時代を生き延び、室町時代に入って足利尊氏から日向の地頭職を得て、戦国大名として生き残っていきます。なお、祐親の子孫は岡山(備中)へ進出し、こちらも豊臣秀吉の家臣を経て、備中10万石の大名となります。
名目上の領地であった日向に実際に住み着いたのは、1335年の伊東祐持(すけもち)からです。荒れに荒れてる九州を見張る為に、足利尊氏の命を受け赴任しました。「蛍丸」の伝説の舞台である「多々良浜の戦い(現福岡市東区)」が1336年ですので、この時に伊東一族は尊氏側で参戦していたのかもしれません(資料見つからず)。
その後、都於郡(とのこおり=現宮崎県西都市)に本拠を置いて、勢力を拡大していきます。
(写真は多々良浜の戦い記念碑)
祐持の孫、祐安(すけやす)の代の1395年に、薩摩の島津元久が領内に攻め込んできます。これが伊東vs島津の長~い戦いの始まりと言われています。こっから200年くらいずぅ~っと戦争してるんですから大変なものです。なお、この頃には本家の伊豆の領地が元の家臣に乗っ取られ、始まりの地との縁は切れてしまいました。
ちなみに、乗っ取った家臣の名は佐土原一族。伊東氏の後の居城(現宮崎市内)の名と同じです。というか同一族の名前が両方に残ったんでしょうね。
(写真は島津元久慈像)
祐安から4代目の尹祐(ただすけ)の頃に、跡目争いから内紛があり、以前にも触れた「綾の乱(1510)」が起きます。
ざっくり言うと、家臣のキレイな奥さんを奪い取って、正式な跡取りがいたにもかかわらず、その後妻との間に出来た子を跡継ぎにしようとして、「殿、それはちょっとマズイっす」と忠告した家臣を綾城に追い込んで自害させてしまったというお話。
殺された家臣の弟が、霧島で拾ってきた「鵜の丸」を振りかざして何かしたとか、呪いが降りかかったとかいう話は見つかりませんでした。(⇒ 情報求ム)
この頃になると、内情はともかく、足利将軍の信任も厚く日向国に大きな勢力を拡大し、飫肥も領土に組み込んでいます。まぁ飫肥城は通しで100年間、伊東と島津で取ったり取られたりと、一つの城を廻っての戦いとしては、日本史上で一番長いらしいです。
(写真は綾城)
尹祐の次男、義祐(よしすけ)の代に、伊東氏の歴史上で最大の版図を広げ、且つ一旦終焉を迎えます。
この頃には、先祖からの都於郡に加え、佐土原(現宮崎市)を拠点として、主に島津との攻防で領地を拡大していきます。最大時には日向国に48もの城(伊東四十八城)を携えますが、次第に京風文化に憧れたり、大仏建てたりと、ちょっとアレな方向に行ってしまい、家臣がこぞって島津側に寝返ってしまいます(伊東崩れ)。
1572年の木崎原の戦い(※)で大敗し、最終的には1577年に一族揃って大分(豊後)に逃げ落ちます。冬の高千穂を女子供連れて一族150名が逃避行したわけですが、豊後についた時には半分程になってしまったそうです。
この際に、義祐の娘の子である伊東祐益(マンショ)を背負って逃げたのが、田中金太郎のちの堀川国広であると言われています。
※ 木崎原(きざきばる)は島津側の呼び名で、伊東側では覚頭(加久藤=かくとう)合戦と呼ぶそうです。九州の桶狭間とも言われるこの戦い。勝った島津側からして死亡率85%という壮絶なものでした。
(画像は伊東義祐)
豊後のキリシタン大名の大友宗麟は、義祐の次男(義益)の正室の叔父。近いんだかどうだか分かりませんが、これを頼り一緒に島津に戦い(耳川の戦い=1578)を仕掛けたものの、これがまた大敗。島津やっぱハンパなし。
こうして伊東氏は一旦、大名としての地位を失います。跡継ぎの祐兵(すけたけ)は、都に登り織田信長の家臣となり、続いて豊臣秀吉に仕えます。そして苦節10年、秀吉の九州征伐(1587)の先導役となり、島津に敵を討ちます。
その後、秀吉から飫肥を与えられ、3万6千石の大名として復活します。関ケ原の際には、西軍に味方すると見せかけて家康に通じ無事乗り切り、祐兵が飫肥藩5万7千石の初代藩主となります。
この頃の飫肥藩の新年のあいさつは、「いつか島津を倒しましょうぞ」だったそうです。
(画像は大友宗麟像)
幕末は、13代藩主の祐相(すけとも)が、薩摩と一緒に(!)新政府軍側となり、戊辰戦争にも参戦しています。
廃藩置県後は、息子の祐帰(すけより)が跡を継ぎ、一族は第二次世界大戦後まで子爵と貴族院議員を務めます。
(写真はちょんまげを切られた佑相公)
綾の乱を起こした祐武でしたが、その一族はその後飫肥藩の重鎮として代々家老職を務めました。そして、数えて7代目の時、当代の弟の祐允が分家独立します(享保の頃=暴れん坊将軍吉宗の時代)。その後、祐詮~祐染~祐命ときて、次が祐協またの名を伝佐衛門。現在観光地になっている伊東伝左衛門邸は、江戸末期の地割を参考にしている為、こう呼ばれているそうです。
で、その息子が祐訓で次が七代目「松作」さんという家系です。伊東氏700年の歴史で、初めて「祐」がない名前!まぁ、他にもいたんでしょうが、調べても調べても、ずぅ~っと「祐(すけ)」さんばっか。水戸のご老公のお付きかと(字が違う)。こうも一貫しているというのは、凄いもんです。織田一族に「信(のぶ)」がつくみたいなもんか。
(写真は伊東伝左衛門邸)
※以前、以下と記述していましたが、間違いが判明しました。
「なお、4代藩主の伊東祐由には男子がおらず、5代藩主は弟の祐実が継ぐのですが、娘はいたので家老の伊東祐秋に嫁ぎます。この後、祐周~祐従と続き、その次の祐允(祐従次男)が独立して家を成し、~」
今回の刀と直接関係はないですが、伊東一族から出た伊東マンショについて少し情報を。
天正遣欧少年使節団のリーダー(正使)として有名で、最近、ドミニコ・ティントレット(親父の方が有名)作の肖像画が発見され、来日公開で話題になりました。
当時、日向を拠点とする戦国大名として、島津氏とガンガンやりあっていた伊東氏ですが、最強島津軍にボッコボコにされ、大分(豊後)に逃げ落ちます。伊東一族の祐益(すけます=後のマンショ)は当時8歳。そこでキリスト教に出会い、キリシタンになりました。使節団が結成された際、母方で血の繋がりのあった豊後のキリシタン大名・大友宗麟の名代として主席正使に選ばれ、日本人として初のローマ教皇との謁見を果たしています。帰国後は、長崎で布教活動したそうな。
因みに、天正5年(1577年)、島津の侵攻を受けて落城する綾城(宮崎県綾町)から、8歳の祐益(マンショ)坊やを背負って逃げたのが田中金太郎という人物。この人が実は後の刀匠・堀川国広。超々有名刀工で、堀川派と呼ばれる一派の開祖。重要文化財だけで12口も指定されている正に伝説級の刀工!有名刀工となり、伊東家が復活した後も、両者の関係は続いたそうです。堀川一門の刀が伊東家に伝わっているのも必然なんですね。
先に、伊東一族の濃い歴史をまとめてみましたが、本家ではないものの、伊東一族が輩出した最高の武人も紹介しておきます。
その名は、伊東祐亨。「祐(すけ)」の字が入ってますが、「ゆうこう」と読むそうです。
初代連合艦隊司令長官として日清戦争の黄海海戦を勝利に導き、日露戦争の日本海海戦時も三代目司令長官の東郷平八郎の上官として全軍を指揮し、最終的には元帥となりました。
黄海海戦における丁汝昌との話は、日本人なら絶対に知っておくべき。感涙必至。恥ずかしながら、今回色々と調べていて、初めて知りました。
(ご参考サイト:http://blog.jog-net.jp/201611/article_1.html)
700年余の伊東氏の歴史で、ついに武人としての頂点を極めた人物。時代が違えば征夷大将軍みたいなもん。 戦国時代に伊東義祐が従三位で大はしゃぎ(武家としては異例の高位なんですが)したのに対し、祐亨は従一位(死後)ですから平清盛や足利尊氏と同格。スゲーな。
※ ちなみに、伊東祐亨の家紋は「庵木瓜紋」で飫肥藩主伊東家と同じ。(別項「その他」参照)
祐亨の出自は、先に紹介した「綾の乱(1510)」以降、家中で好き勝手にふるまっていた福永一族に対して反乱(武州の乱1533)を起こした伊東祐武(すけたけ=尹祐の弟)の子孫です。佑武は処罰されますが、子供達は許され一族に残ります。
その後、木崎原の戦い(1572)で敗走する伊東軍の殿(しんがり)を務めたのが祐武の長男、祐安(すけやす)。多くの武将が討ち死にする中、佑武次男の祐審(すけあき)の子供・金法師が生き残ります。(叔父の祐興は松作の先祖)
主家が無くなってしまった後、佐土原で浪人していたところ島津義弘に拾われ、そのまま幕末まで薩摩藩中となります。伊東祐兵が飫肥藩主として戻って来た時には複雑な気持ちだったとは思いますが、既に伊東vs島津の200年戦争は終わっていたので、まぁこれは仕方がないでしょう。
この家から、西郷隆盛を見出し島津斉彬に推挙した伊東才蔵が出ています。祐亨も坂本龍馬や陸奥宗光と共に海軍操練所で学び、薩英戦争や戊辰戦争を通じて海軍畑を歩んでいき、日清戦争へと繋がります。
凄すぎて、言葉無いですな。
伊東祐亨は、堀川国広が諸国放浪中に刀を打っていた足利学校を訪れて、月桂樹を植樹したと教えて貰いました。伊東家と国広の関係が偲ばれて、なんかいいですね。ご先祖はその頃はもう薩摩に...とかは言わない。