孤立量子系の熱平衡化

孤立系がどのように熱平衡状態に達するかをミクロな動力学から理解することは、統計力学の基礎づけに関する重要な問題です。また、こうした問題は量子系でカオスをどのように特徴付けるかといった問題とも関わり、広がりを見せています。

熱平衡状態への緩和の十分条件として固有状態熱化仮説 (eigenstate thermalization hypothesis または ETH)という仮説が注目されています。ETHは「小さなエネルギーシェル内では、その中に属するエネルギー固有状態で物理量を挟んだ期待値がほぼ等しい」という仮説で、多くの非可積分系とfew-bodyの物理量について数値的に確認されています。

エネルギーと物理量の固有状態間の変換を表すユニタリー行列の集合を考えると、典型的なものに対し「物理量の固有状態期待値の差がミクロカノニカルシェル内で指数的に小さい」という条件を満たします。これはETHの十分条件です。
一方我々は、few-bodyのハミルトニアンとランダムなfew-bodyの物理量に対して、対応するユニタリー行列がほとんどの場合非典型的に振る舞うことを示しました。

ETHは、エネルギー固有状態と物理量の固有状態が(ユニタリーハール測度の意味で)ランダムな方向を向くと仮定すれば正当化できる(典型性の議論)ということが、von Neumannによって既に議論されていました。

しかし我々は、ミクロカノニカル分布で通常仮定するようにエネルギーシェルが指数的に小さくない場合、ナイーブな典型性の議論が通常興味のあるようなfew-body(あるいは局所相互作用)性を有するセットアップについてはほとんどの場合に適用できないこと、したがってETHの正当化を与えないことを数学的に示しました。

Phys. Rev. Lett. 120, 080603 (2018). [arXiv:1708.04772]


それでは局所相互作用系では本当にETHが普遍的に成立するのでしょうか?この問いに答えるため、我々は、局所相互作用をランダムにした集団を考えました。そして、その集団内のほとんどのサンプルについて、ETHが成立することを数値的に示しました。これは、現実的な系で普遍的にETHが成立する初めての証拠になっています。

Phys. Rev. Lett. 126, 120602 (2021). [arXiv:2005.06379]

さらにこの結果が、べき的に減衰する長距離相互作用でどのように変化するかも調べました。その結果、べき指数aが0.6より大きいところでは、ETHが成立するという強い証拠を得た一方で、aが0.5より小さいところでは、20スピンまでの範囲でETHの兆候は見られませんでした。これはa=0の場合に存在する対称性(これによりa=0ではETHが敗れることが示される)が、有限のaでも実験的に重要な比較的大きなサイズまで近似的に影響し、ETHを妨げることを意味しています。

Phys. Rev. Lett. 129, 030602 (2022). [arXiv:2111.12484]

また、これら先行研究の結果は、興味ある物理量が「全て」熱平衡化するというかという、基本的な問いには答えられません。もちろん、本当に全ての物理量を許せば、ETHを破る物理量は必ず作れてしまいます。一方、統計力学で興味ある物理量は、相加物理量やその揺らぎ、あるいは冷却原子系で観測される運動量分布など、few-bodyの物理量として書かれます。

我々は、few-bodyの度合いが決まると、対応する物理量全てに対しETHが成立するかを(ハール測度で分布した固有状態を持つ)典型的な系に対し検討しました。その結果、few-body物理量全てに対し、 ETHが成立することを示しました。つまり、典型的な系で、相加物理量やその低次の揺らぎは全てETHを満たします。

[arXiv:2303.10069]

なお、エネルギーシェルを十分(上の結果より、指数的に)小さくした時は、few-bodyのセットアップであってもエネルギー固有状態と物理量の固有状態が擬似的にランダムであると予想されています。この擬ランダム性はランダム行列理論でよく記述され、量子カオスの一つの特徴づけになると期待されています。我々は、三種類の異なる時間反転対称性クラスに属する非可積分なスピン系を導入し、その固有状態が対応するクラスに属するランダム行列理論でよく記述されることを数値的に確かめました。

Phys. Rev. E 99, 042116 (2019). [arXiv:1901.02119]

多くの量子多体系の中でも、横磁場Ising模型は最も基本的な模型の一つです。一方、高次元においてはこの模型は非可積分となりその取り扱いは特に難しく、特に熱平衡化に関しては理解が進んでいませんでした。

我々は、高次元横磁場Ising模型の弱磁場極限では、近年発見されたHilbert space fragmentation (HSF)という機構により、熱平衡化が起こらなくなることを解析的に示しました。HSFとは、ダイナミカルな束縛などに起因してHilbert空間が非自明な(通常の局所保存量では説明できない)分割を起こすことで、ETHおよび熱平衡化を妨げます。なお、今までのHSFの仕事の多くは二つ以上の保存則に基づいていましたが、今回のHSFはdomain壁という一つの保存則によって起こります。

Phys. Rev. Lett. 129, 090602 (2022). [arXiv:2111.05586]


さらに、この事実は量子技術にも応用できます。

量子多体系のコヒーレンスを制御し、それによるアドバンテージを生かすというのは量子技術の鍵になってきます。重要な例の一つとして、適切な量子コヒーレンスを持つ状態を用いた量子センシングの感度(Heisenberg限界)は、コヒーレンスのない状態を用いた場合の感度を高めることが知られています。しかし、実際に量子多体系を用いてセンシングを行おうとすると、相互作用の問題が生じます。すなわち、適切に相互作用を用いるとコヒーレンスやエンタングルメントを生成できますが、一般には相互作用は時間と共にそれを壊してしまいます。量子多体系では、相互作用による熱平衡化が起こってしまうわけです。

我々は、強い近接Ising相互作用を持つ高次元量子多体スピン系において、HSFによってコヒーレンスが保持されることで、弱い横磁場の量子センシングが安定的に行えるということを示しました。この手法はIsing相互作用の非一様性や付加的な縦磁場、次近接の相互作用などの摂動に対してロバストです。具体的方法としては、全系をプローブスピンとそれを囲む補助スピンにわけます。すると、補助スピンの初期配置をうまく選ぶと、それらは時間と共に変動しない(凍った)領域となります。一方で、プローブスピンは補助スピンと完全に分離することが示されます。プローブスピン同士は補助スピンで隔たれているので、それらには相互作用は働かず、安定的なセンシングを行うことができます。

[arXiv:2211.09567]

孤立量子系の長時間後の定常状態は、エネルギーのみを保存量にもつ非可積分系においてはETHによりカノニカル分布で記述される一方、可積分系においては一般化Gibbs分布という付加的な保存量を指定した分布を用いる必要があることが期待されています。我々は、この中間的な場合である、幾何学的な対称性によって保存量を多く持つ非可積分系の緩和を調べました。その結果、対称性が示量的な数だけ存在する場合はETHが成立せず、一般化Gibbsを用いる必要があることを明らかにしました。

 Phys. Rev. E 93, 032116 (2016). [arXiv:1511.08581]

幾何学的対象性によって保存量を多く持つ非可積分なハードコアボゾン系。

近年、主に高エネルギー物理の文脈で、高次対称性と呼ばれる一般化された対称性が注目されています。通常の対称性は、対称性演算子はd次元ですが、p次の高次対称性ではd-p次元となります。しかし、こうした高次対称性がダイナミクスにどのような影響を及ぼすかは理解が進んでいません。
我々はいくつかの仮定の下、高次対称性のある系では、多くの(d-p)次元の物理量が(熱平衡化の十分条件を与えることが知られる)ETHを破るということを示しました。なお、我々の結果はp=0の通常の対称性でも成立しますが、高次対称性(p>0)の場合に限り、ETHを破る物理量が系のサイズ(d次元)よりも遥かに小さい、すなわち熱浴が十分大きくても対称性によって熱平衡化が破れる、ということができます。


特に、このことを2次元のZ2格子ゲージ理論によって検証しました。この模型は1次対称性が存在し、非局所な保存量を与えます。一方、保存量でない非局所な物理量も、ETHが破れます。こうした非局所な物理量は、通常の統計力学の範疇を超えますが、ゲージ理論等で重要な役割を果たします。同時に、局所物理量は対称性の存在に関わらずETHを満たすことが数値的に確認できます。これらの帰結により、局所物理量はカノニカル分布へと緩和しますが、上記の非局所物理量は高次対称性を加味したGGEによって記述されるということがわかりました。

[arXiv:2305.04984]

初期状態から時間発展を行い、摂動を加えて元の時刻に戻すと、終状態は初期と大きく異なる(不可逆性)。

量子カオスの特徴づけには、上でも述べたように、固有状態・固有値などの静的な量とランダム行列との関係を用いるのが一般的です。一方、古典カオスが状態の初期値鋭敏性(誤差の指数的な広がり)によって特徴付けられるように、量子カオスを動的な振る舞いから特徴付けようとする研究が近年注目を集めています。我々は、特に最近注目を集めている指標である「二つの異時刻な物理量の非可換性の増大」が、カオスの伝統的な指標である「不可逆性」と等価であることを、局在した初期状態という条件のもとに示しました。

[arXiv:1807.02360]