言葉は生きている

前座

こんにちは、久しぶりの執筆時に病んでいない夜です。

この前、父親と「晒し上げる」という言葉について議論がありました。


双方の主張

父:「晒す」と「吊るし上げる」は同義で冗長なトートロジーなのでは

俺:「晒す」は単純に公にするだけ。「吊るし上げる」は大衆の目前で貶す意図がある。だから2つつなげて固有の意味を持つはずだ。

双方の主張は一応理解された。

Googleで調べると、「晒し上げる」の文言が含まれたツイートや掲示板が多数ヒットし、ネットでは頻繁に使われていることがわかった。

また、とあるサイトでは普段の「晒す」の意味に加えて「ageる」、つまり頻繁にレスすることでスレが表に見えるようにするというネット独自の語源・用法も紹介されていた。

結局、「晒し上げる」という言葉は意味を持って存在するということで議論は終結した。

本題

さて、あなたは「正しい日本語」を完璧に使っていますでしょうか?

答えはあなたが日本人ならYESです。「言葉は生きている」からです。

「雰囲気」を「ふいんき」と読んでも、ら抜き言葉を使っても、「殺気」を「ころっけ」と読んでも、最終的に伝われば正しい日本語です。


0歳は喋れません。

5歳はまぁまぁ喋れます。

10歳はだいたい伝えたい事は伝えられます。

20歳はすこし難しい言葉も知っています。

40歳は20歳より語彙が多いです。

年を取りすぎると言語能力は下がります。


つまり1人間の中でも学び、忘れるプロセスがあるので言語パック(語彙や文法など)は常にアップデートされているわけです。

そして世間にも「流行語」→「死語」や、「現代語」→「古語」のように時代とともに移りゆくものです。

技術革新や歴史的イベントのなかで新たな概念を指す必要ができれば言葉は増えます。いらなくなれば忘れられます。

そして、日常で使う常識的な言葉や公的文書の言葉、小説でしかでないような言い回し、俳句の決まり文句や隠語、界隈での用語など
大小さまざまなリージョンで"言語パック"は異なります。

そして会話のうちに漏れ出た言葉が界隈外に流れ出たり逆輸入や一般化、誤用が広まることなどで変化していきます。

言語はコミュニケーションの手段、つまり交流に使うためその当事者間で納得していれば、外野がとやかく言う隙はないのです。

そして齟齬があればさらにコミュニケーションを重ねてすり合わせればいのです。

もちろん、プログラムの記法のように言語空間どこかで管理しているわけではないので、"言語パック"は結局個人ごとに記憶されるわけです。

(自分みたいにあまり交流がないとカッコ内のような造語ばっかりになる上にフィードバックがないからその言葉の意味がわからない事がしばしある)

必ずしも原義「新しい=あらたしい」、多数派、文書(辞書)が正しいとは限らないのです。

リアルタイムに移りゆき、文化的個人差やTPOで使い分けるからです。

言葉と意味の関係は時間と多面的人格の軸でなめらかに分布しているわけです。

書き言葉、話し言葉、打ち言葉

打ち言葉。そうですスマホやPCで入力するその文言です。

「文字を入力するんだから書き言葉だろ」

ごもっともです。でも「くぁwせdrftgyふじこlp」だとか数多のネットスラングだとかを書き言葉のジャンルに分類するには窮屈じゃないですか?

いまや学校の授業でタブレットを使い、読書離れが進み、職場のペーパーレス化もすすんだ中で「古め」「前方互換性」とまでは言いませんが、最前線の主流として「打ち言葉」を入れてもいいのではないでしょうか。

今回の文章は、意図的に書き方を意識して句点を積極的につけていますが、基本的に行末の文末にはつけていません。(紙に書く時にも影響しています)

なぜなら改行で事足りるからです。

もちろん原稿用紙に限らない書き言葉でも改行や空白での体裁はあります。

でもそういった作風や意図を超えて、広く文化や癖として自分に根付いた体裁・語彙は「書き言葉」と「打ち言葉」で明確に区別できます。(少なくとも)

特に自分では「、。,.半角全角:;カッコ#」などの使用方法(位置や意味)が違うと自覚しています。

しかもTPOや書くときによって違うことすらあります。(書いている間に変わることもある)

常套句だって言葉の種類で違いますし、自分の癖はなかなか抜けません。(読点の多さやカッコ多用、先回りしてしまい順序たてていない文)

口調だって違います。

5 7 5の俳句、5 7 5 7 7の短歌、140文字のツイート、基本短文(大体句点なし)のLineなど、形式によって使いかたは違いますしね。


なんかまとまらなくてオチが着いていませんが、満足したので寝ますおやすみ。

自分のオタク観

好きにはlikeとloveがある

そこへの厳密な言及は避けるが、ある一定のコンテンツ・物が好きでいる人をオタクと安易に呼びすぎている印象がある

「オタク」概念が市民権を得て公にできるどころか一般化した今、自分の中で改めて定義を決めたいと思う

オタク活動」と言うとめちゃくちゃアクティブに聞こえる。でも「ファン活動」「マニア活動」はピンとこない

そして「ファンです」は「マニアです」より言いやすい(打ち明けやすい)。

「マニア」は何かを突き詰めている人を想像する。

この感覚から導き出せるのは、


含有:「興味ある」⊃「ファン」「マニア」/「オタク」

行動力:「興味ある」<「ファン」≒「マニア」<<<<「オタク」

財力・情報「興味ある」<<「ファン」<<<<<<<<<<<「マニア」「オタク」


つまり「オタク」になるためには「財力」「情報(知識)」に加えて活動のための「時間」、「行動力」とそれの元である「体力」を含めた、

「情報・財力・時間」+「体力・行動力」これらの資本が必要だと感じる

そして自分にはすべてがほぼ無い(情弱でケチで貧弱で億劫)

自分で書いてて悲しくなるが、逆に考えるとのめり込みすぎるような距離感ミスは少ないために、生活や精神などが脅かされることは少ない。

マニアはオタクから行動力を引いた下位互換で、ほぼ「昔のオタク像」だと思う

ファンは好きであること少なからず公言し、生活・人生のプラスαとして趣味を楽しんでいるレベル

オタクはその趣味が生活・人生の主軸だと区別できる


コメントやつぶやきも残さず、グッツも買わず、すべてのエピソードを追うわけでもない自分は、マニア以上では無いことは確実であるということだ。