東林寺について

瑞鳳山東林禅寺由来

東林寺は、元禄九年(一六九六)に、無為祖忠(むいそちゅう)・立花実山(たちばなじつざん)という二人の開基により創建され、翌、元禄十年に、卍山道白(まんざんどうはく)禅師を開山に迎え開かれました。

 無為祖忠は、もと黒田家家臣野村為貞の家来でしたが、為貞の没後に出家し、約十年間諸国遍歴、修行を重ねて帰郷し、三代藩主黒田光之公の重臣である立花実山に援助を頼み、東林寺を建立します。創建の記によりますと、祖忠は、自ら草を刈り、石を拾って土地を整備し、やっと伽藍を建てますが、未だ安置すべき本尊がありませんでした。その時、偶然、一人の老修行者が古い仏像を背負って通りかかり、祖忠は、喜んでこれを買い求め、京の仏師に見せたところ、なんとこれが名工、定朝の作であったと言われています。

最初は、矢倉門、現在の祇園町に建てられますが、明治四十二年に博多駅ができた時、区画整理で現在の地に移転されました。


開山である卍山道白禅師は、備後(現・広島)の生まれで十歳にして出家し、月舟禅師の法を嗣ぎ、曹洞宗の名刹、加賀(現・金沢)の大乗寺の二十七世となられた方です。当時、衰退した曹洞宗の宗風を一新し、世に復古道人と呼ばれた傑僧で、曹洞中興の祖とも仰がれました。東林寺在住の期間は短いものでしたが、その間、黒田四代藩主綱政公の夫人をはじめ、多くの道俗の帰依を集めました。又、粕屋郡の立花山に梅岳寺と南区寺塚に興宗寺のニケ寺も開かれました。

もう一人の開基、立花実山は、黒田家家老立花平左衛門重種の二男、三代藩主光之の家老で、当時、福岡藩が最も誇りとした文化人でした。和歌や書画にすぐれ、和漢の学問にも通じ、貝原益軒の「黒田家譜」「筑前国続風土記」の校閲監修者として群を抜いた見識の持ち主でした。中でも、その名を高めたのは茶道における功績でした。

利休の茶道の弟子であった、堺の南宗寺の僧、南坊宗啓が記録した利休の言動録を偶然手に入れた実山は、これを 「南方録」 としてまとめ後世に残しました。この 「南方録」という本は、千利休の茶の湯を知る上で、また中世の芸道の精神を知る上で大変貴重なものとされております。


もともと博多は茶の湯とゆかりの深い土地で、大阪の堺と共に、貿易港として発達した所です。桃山時代、戦国の豪商である島井宗室、神屋宗湛は茶人としても広く知られ、天正十五年(一五八七)九州の役で島津義久を降伏させた豊臣秀吉は、箱崎宮に陣をとり、同行した利休と共に、宗室、宗湛等と箱崎の松原で松の枝に釜をかけ、松葉を焚いて野だてを楽しんだといいます。それから約百年後の元禄七年、実山は崇福寺にて第一回の利休忌を営み、その旧趾(現在九州大学附属病院の敷地)に、釜掛の松の碑を建立し、


    「松かげの落葉かき分け箱崎のふたたびかえるいにしへの道」

        という、利休回帰への思いを込めた歌を残しています。


博学多才な実山は、光之公の絶大の信頼を得ますが、 一方それは第四代藩主綱政公の側近たちの反感を買う結果となったようです。宝永四年(一七〇七) 光之公逝去の後、実山も剃髪、出家の身となり、東林寺の末庵となる住吉の松月庵に入りますが、翌年六月、綱政公の命により突然、嘉穂郡鯰田に幽閉され十一月十日、自害して、五十四年の生涯を終えます。


こんにち、福岡には、南坊流・南方流という二つの流派の茶道が行われていますが、いずれも立花実山をその流祖とし、毎年十一月には実山忌の茶会が華やかに催されております。同じ元禄の世に、曹洞禅の開祖である道元への復古を主張した卍山と、陀び茶の祖、利休への回帰を計った実山という二人の歴史的な出逢いが、ここ東林寺においてありました。実山の死後、立花家の衰退と共に東林寺もまた紆余曲折の歴史をたどりますが中興十七世大豊隆全和尚に及んで、門風大いに興り、その徳風を慕う者多く集い、門下に多くの俊秀を輩出しました。十八世梅田信隆和尚は大本山総持寺に晋住、真源宏宗禅師の勅賜号を賜りました。

現在十九世梅田泰隆和尚。



東林寺リーフレット表紙

東林寺リーフレット裏表紙


立花家の兵法 二天一流の祖

「宮本武蔵」  賛 林羅山

宮本武蔵像  画・作者不詳

絹本着色 縦九〇・四 横三八・三

江戸時代


 二天一流剣術の祖・宮本武蔵の像。二天一流剣術は、武蔵から寺尾孫之丞信正・柴任三左衛門美矩を経て福岡藩の吉田太郎衛門実連に伝えられ、さらに立花専太夫峰均へと伝授された。峰均は「南方録」の写本で知られる立花寧拙であり、武蔵の行状と二天一流の系譜を記した「兵法大祖武州玄信公伝来」(福岡市総合図書館蔵)を残している。

 峰均の後は同族の立花弥平衛増寿へ、さらにその嫡男・弥兵衛種貫へ伝授され、種貫は「五輪書」五巻及び武蔵伝来の偃月刀(長刀)等を授けられた(「薦野氏系」)。

さらに種貫から相伝されたのが立花平左衛門増昆、俳人としては秋水の名で知られている。本資料は、福岡藩で二天一流を継承した立花家の人々のうち、誰かによって東林寺へ寄進されたものと思われる。 


実山画

「千 利休像」

千利休像 画賛・立花実山

絹本着色 五九・一 横三二・九 

元禄十四年(一七〇一)


立花実山が京都表千家不審庵の原本の千利休像を写した図である。

手に扇子を持つしぐさは、原本と同様である。しかしながらそうしたしぐさや面相を似せて写してはいるが、実山の描写は江戸時代の狩野派の描法で、明快で平明な表現になっている。それは原本を写した弱さよりも新しい利休像を描き出した観がある。実山は専門絵師ではないが、人物表現に長けていたといえよう。本図にも実山による利休の時世の句が書かれ、箱書きから笠原道桂に贈ったものとされる。 


実山画

「卍山道白禅師」

卍山道白像 画・立花実山 賛・卍山道白

絹本着色 縦一〇一・二 横四九・八

元禄十一年(一六九八)


 卍山道白の頂相である。卍山自身の賛文と実山の落款があり、この図も立花実山の手になることがわかる。年記は元禄十一年の春とあり、卍山が東林寺を離れる時期であろう。当時の曹洞宗を代表する禅僧であった卍山が一年あまりこの福岡に滞在した事実はそれほど知られないが、この地の文化にとつては非常に重要である。その背景は明らかではないが、こうした頂相などを見るに、立花実山が大きな支えになったことが推測される。実山は自らを「弟子而生斎実山宗有」と称し、卍山の弟子であることを明言する。弟子として卍山を慕う心が実におだやかで慈愛あふれるような表情の肖像画を描き出したのかもしれない。

(賛)

在鷹峰非鷹住鳳峰非鳳

久冒知識名謾領人天衆

何物任麼来説似即不中

値居士実山写影被活弄

自今供養煩児孫又是一

場閑打関東林開山老衲白卍山

禿筆自影

(絵の落款)

元禄戊寅春老大和尚住東林日謹写之以祝不壊真相焉

弟子而生斎実山宗有九拜




尾形守房画

「出山釈迦図」

出山釈迦図 画・尾形守房 贅・卍山道白

紙本墨画 縦八・四 横三三・九 

元禄十年(一六九七)


釈迦の生涯を描くうち、苦行六年、鬚を生やし、やつれた姿で金剛座におもむく姿を描いた図。

図の作者は、画面の右下に「守房」と書かれ、福岡藩の御用絵師の尾形(小方)守房であることがわかる。守房は狩野探幽に学んだ名手として知られ、絵は江戸時代の狩野派の描法をよくあらわした優作である。

 賛は卍山道白で、本図を喜捨した浜貞元の法名「大空実相」の文字を用いた偈語を書く。年記があり、元禄十年仏成道日(十二月八日)に書かれ、自らを「東林開山」と称している。

福岡へ来て三ヶ月半経ち、東林寺を開いたのちである。

 ちなみに守房ら尾形家の菩提寺は東林寺と同じく曹洞寺の長円寺(福岡市中央区)である。

(賛)

実相無相大空不空形隠象外

影現観中出山成道度生網風

稽首古仏有感即通

 濱氏貞元法名大空実相居士

 喜捨此出山如来像兼請賛語

元禄丁丑仏成道日

東林開山卍山老衲行年六十

有二賛於蔵六室中

(落款・印章)「守房」【守房之印】