伊藤博文であるが、伊藤内閣は条約改正反対運動を保安条例をもって弾圧し、為蔵は憤慨し、明治21年伊藤総理に個人の資格で辞職勧告書を送りつけている。それに対して伊藤は、為蔵を出版条例の嫌疑で逮捕監禁する。為蔵にとって当時の伊藤は、藩閥政府の象徴として最も憎むべき人物であった。しかし皮肉にも、後に伊藤を為蔵が属する政友会のトップに向かえ、同じ政党組織に属することになった。政治世界の無常を象徴する出来事といえる。
板垣退助と為蔵の交友は、自由民権運動や政党の同志として固い絆で結ばれる。その関係は、明治17年大阪での自由党大会で自由党解散を巡り対立したこともあったが、2人の友情は終生変わることがなかった。明治31年内、務大臣だった板垣から勅撰の栃木県知事を打診されるが固辞し、代わりに為蔵は萩野左門を推薦している。また、板垣は為蔵の日記に頻繁に登場し、板垣からの手紙も西潟家に保存されている。
山縣有朋は、為蔵にとって歴史の邂逅が引き合わした奇縁となった。明治19年に為蔵が八十里越開鑿の国庫補助の為に篠崎知事らと上京し、談判の交渉相手となったのが山縣内務大臣であった。里道に過ぎなかった八十里越が内務省の内規を曲げてまで国庫補助の対象になったのは、山縣が北越戦争で八十里越を熟知していたという幸運が大きかった。しかし、山縣は内務大臣として、保安条例で為蔵ら民権家達を皇居から3里外へ追放する陣頭指揮を執り、敵味方の関係となった。