学校教育は社会の全ての基本であるとして教育を重視した西潟は、南蒲原郡の組内学務委員をしていた明治15年夏、郡内小学組21ヶ村連合会で(学事ノ最大)を審議した際に議長となり、「学校ハ社会公衆ノ知識ヲ研磨シ天賦ノ自由ヲ拡大シ聖天子誓詔ノ優渥至仁ニ奉答スルノ有為活達人ヲ養フ処ナリ」と自由と民権の思想を教育の振興に裏打ちすべきことを語りかけていた。南蒲原郡の学務委員を3期勤め、学校教育並に社会教育に努力を続けて行かれた。
不幸な子供の教育に特に尽力し、明治40年発起人となり財団法人新潟盲啞学校の創設を実現し大正3年2月に理事に推薦され大正7年4月に辞任するまで学校運営の責に当てられた。その間、校舎の改築を計画し当時の県知事坂仲輔氏に建築補助の申請を行ったが、その頃県ではこうした重大の問題にあるにも関わらず補助等をしない制度であったため実現を見なかった。
また、文部省に出頭し、田所普通局長と面談した際に政府の盲啞者教育に対する冷淡な現状や、補助並に奨励金の下附されないことを陳情するなど日夜奔走を続けられた。
学校建築は寄付による他なき情勢となったので、朝野の名士を歴訪し、遂に大正5年待望の校舎を完成させた。
その時の寄付者の一部をあげれば
・ 中野貫一(1,500円)当時の100円が現在の100万円だとすると1,500万円
・ 山口達太郎(500円)
・ 田代三吉(200円)
・ 日比谷文左ヱ門(100円)
・ 山本梯次郎(100円)
・ 増田義一(100円)
・ 大倉喜八郎(100円)
・ 原敬(50円)
理事辞任後も常に運営に協力し、特に県立に移管運動には陣頭に立って活躍した。
明治32年5月、新潟高等学校誘致の有志協議会(勝間田知事も出席)を開き、誘致の急務なるとし創立費全額地元で負担することを決め、6月に新潟県高等学校設置請願委員に選任され、坂口仁一郎、高橋文質及び勝間田知事らと文部省に同行し、出頭陳情を行った。
その後、大正6年にようやく設置に決定せるもその間、西潟は北川県知事、桜井新潟市長と共にしばしば上京して運動を続けてきたのであった。当時の記録に北川県知事、桜井新潟市長が「この度の誘致の成功は西潟為蔵氏の尽力の効果が多大であった」と謝辞を述べられている。
※この文章は昭和43年12月に西潟為蔵翁顕彰碑建設委員会発行した『西潟為蔵翁の道徳を偲ぶ』を為蔵塾が加筆・修正を加えたものです。