(2)地域貢献
①八十里越
八十里越開鑿
西潟為蔵は、明治の初めは里道であった八十里越を県道に編入して交通の便をよくして会津地方との交流を密接にすることは下田郷の繁栄に繋がるものであるとしてこの開鑿に献身的に努力した。
(1) 県会における西潟の活動
明治16年、西潟が県会議員になるや直ちに八十里越の開鑿測量の事を陳情した。しかし、当時県では里道の測量はしないと断られた。
同年11月臨時県会が招集され道路改築の件が建議された。当時県会議員に河川党と道路党の二派があった。双方相半ばして常に争っていたが西潟は八十里越の完成のためにも「興利事業を無視すること能はず」として道路党に所属して活躍した。そのため群選出の県会議員の清水治吉、関谷幸次郎、大竹貫一らと袂を分けて行動したのである。上程された路線は23線にて河川党の反対が強いため決まらず、遂に委員を選挙して附議した。懸命の運動が功を奏し八十里越線(叶津線)は23線中、第6位に編入されて可決された。
(2) 叶線津線の測量と会津地方への遊説
これより先、西潟は単独で路線調査を行っていたが、明治18年8月長岡より宮原技師を雇い、本格的測量に入った。先にも書いたように測量は県費で行われなかったので、全て西潟が私費を投じて行った。この測量の調査結果はようやく11月に完成したが、9月下田方面の有志と共に会津地方へ道路開鑿の遊説に出張し、会津田島の郡長岩水一路氏及び伊南村並びに伊北村の戸長を訪ね趣意を陳述して尽力し合うことを約束して帰県した。
(3) 政府各省への陳情
明治19年10月西潟は政府へ国庫補助の陳情のため上京した。内務省の内規によると、「従来の国道県道にして明治19年までに改築もしくは開鑿を要する場合は国庫より3分の1の補助をなすとあった。」しかし、叶津線は他県へ通じる路線であるが里道であるため補助ができないことになっていた。
そのため、県知事篠崎五郎氏と同行し、内務省に出頭した。内務大臣山県有朋に面会し、叶津線の重要性を説き里道であっても三條町から会津若松に通じる両県に誇る有望なることを力説し、国庫3分の1の補助を陳情した。大臣も西潟の熱心さに心打たれ即座に国庫より3分の1を補助することを約束させたのである。
(4) 工事着工と工事の特選を辞退
明治22年新潟県より福島県へ工事着手に関する交渉が始まり、度重なる会合や実地調査の結果、ようやく方線も決定して着工することになった。
新潟県土木課長の大西重明氏より内談があり「本線に対しては貴殿が自費を投じて幾多の辛酸を嘗め茲に開鑿の決定を見るに至ったる労は多とすることは当局に於て認むる所であり依ってこの工事を特選となす如何」と言われたが、西潟は「当局の厚意は感謝するが、余個人が利益を得るためにこの道路を建議したのではない、只国利民福を増進せんと欲したのみであるから辞退する」と工事の特選を辞退した。
西潟の日頃の信条「自命何にかあらん、財産吝むに足らす」と一生を愛国利民の一事に生き抜いた行動はここにも躍如として表れている。
(5) その後
その後の工事も順調に進み明治23年9月遂に大工事も完成した。下田と会津地方の交流は叶津線完成と共に益々盛んになり、会津方面への出稼ぎ並びに会津方面への物資の輸送はこの道1本に頼ったといっても過言ではない状況だった。明治23年4月頃の最盛期は吉ヶ平部落に4軒の旅館が営業して繁盛したと言われている。
八十里越えをして会津方面に送られた主な物資は
[塩・にしん・塩ます・黒砂糖・鯨・昆布・反物]
等であって、会津方面からは
[きぬ糸・もち(山にあるもちの木から製したもの)]
等を主として栃尾や見附方面へ送られた。こうして政治生命をかけ、私財を投じて開鑿した当時の重要道路も、時代の変遷や交通機関の発達によって、栄えた八十里越の道路も一時は荒れ果て巨木が倒れ、道路は欠潰してようやく歩行ができる程度の状況になってしまった。
昭和40年頃、弥彦(日本海)より勿来(太平洋)への国道への昇格運動が起こり、ようやくまた叶津線が社会の脚光を浴びる時が来た。西潟が私財を投じて開鑿したこの叶津線が再び血縁の繋がった下田村長土田嘉久雄氏が国道昇格に日夜努力を続けているものまた不思議な縁と言わざると得ない。昭和44年11月に閣議決定、昭和45年4月1日に新潟市を起点として、いわき市に至る全長250.5km(現在の総延長306.8km:2010道路統計年報)の本州を横断する一般国道289号に昇格しました。八十里越の計画区間は、昭和61年度に直轄権限代行で事業実施に着手しました。
※この文章は昭和43年12月に西潟為蔵翁顕彰碑建設委員会発行した『西潟為蔵翁の道徳を偲ぶ』を為蔵塾が加筆・修正を加えたものです。