県道見附村松線は昔、村松藩主堀丹波守が幕府参勤交代のための通行路線として丹波線と称した。
丹波線を県道に編入させる運動は明治15年より叶津線(八十里越)の運動と相前後して行われ、当時県会議員であった西潟はその主謀者となり沿線の駒込山谷常蔵、鹿峠長谷部福松、木戸重五郎らと共に提唱した。明治19年仮定県道編入の議を県議会に請願、明治22年に一部修正されて県道に編入された。
県道に編入されても道路は狭く険しく粗悪のため沿道の村民は改修を県当局に陳情したが、なかなか地元民の願意が採用にならなかった。たまたま明治30年に村松町へ歩兵三十聯隊が新設され、軍隊の行軍がしばしば本道を通過するたびに歴代の連隊長は道路の改修の急務を訴えると共に村民を激励されてきた。明治43年西潟は沿線の村長と共に高田第13師団司令部を訪ね、参謀砲兵少佐吉井幸太氏に面会し協力を求めた。吉井少佐はこれに讃意を表され、その後しばしば第13師団参謀長並びに歩兵30連隊長の名で県当局に道路改修の急なる意見書が送られるようになった。
こうして軍当局より後援を得て西潟らは根気よく県当局に改修の請願を続けてきた。大正8年道路法施行の結果、県道認定に関する県会が招集、当時の県会議員石月佐伝次氏並びに西潟為蔵ら関係沿線の代表者が強力な運動の結果、本県道はついに県議会に於いて認定され、大正9年内務省の認定を得る運びに至った。
大正12年より14年まで3年の継続事業としてようやく荻堀杉沢間を開鑿改修するに至った。地元民は永久に紀念するために由緒ある赤坂古戦場の地に円派線(見附村松線)開鑿記念碑を建立し、当時の功労者を讃いられた。
碑の裏面には
功労者 県会議員 石月佐伝次
元代議士 西潟為蔵
と深く刻まれている。
開鑿記念碑 表面
開鑿記念碑 裏面
※この文章は昭和43年12月に西潟為蔵翁顕彰碑建設委員会発行した『西潟為蔵翁の道徳を偲ぶ』を為蔵塾が加筆・修正を加えたものです。